10-20 悪夢ふたたび
いまこのパーカー少年から溢れ出した異質なもの。
殺気とでもいえばいいのか、それとも威圧なのだろうか。兵士ですら呼吸ができずにその場に倒れる者もいるほど重く淀んだ空気が戦場を支配していた。
アリエルは自分の手が震えていることに気付いた。わなわなと、とめどなく震え、呼吸も荒い。
軽いめまいを覚えるほどの血圧の上昇……、その体調変化の正体は、例えようのない怒りだった。
小さな体に3本もの槍を受けて地に落ち、命が失われようとしているのに、それでもなお自分を守ろうとしたパシテー。愛する女が死んでゆく顔が、ゆっくりと光を失ってゆく瞳が頭から離れない。
フラッシュバックし、繰り返し何度も見てきた悪夢は目を閉じても網膜に残って、今もアリエルを苦しめ続けている。
16年間、この悲しみから目を背けず向き合ってきたアリエル。いまパシテーを殺したことを自慢げに話す男を目の前にして、ストレージから抜き身の刀を取り出した。
アリエルは肩越しに振り向き、妻たちにこの場を離れるよう促す。
「お前たちは下がって、みんなを守ってやって。障壁は強めにな。……あとパシテー、あれ抜いてやれ」
パシテーは自分が討たれたことよりも、自分が殺されてしまったことで、今もアリエルを苦しめ続けていることが許せなかった。痛みで幻覚が解除されることも分かっていながらブルネットの魔女を落としたと聞いてつい反射的に放ってしまった攻撃。足を地面に縫い付けるような攻撃はそもそもパシテーのスタイルではない。その槍を抜こうとした肩に穴を開けてまでその場に食い止めておきたかった槍はパシテーの怒りそのもの。だけどアリエルはそれを抜いてやれと言う。
「兄さま……」
アリエルは何も言わずにパシテーをただじっと見つめている。悲しさと怒りが同居する強い瞳だった。アリエルのその今にも泣きだしそうな眼差しを受け、パシテーは言われた通りに刺突槍を引き抜いて戻し、ジュノーの背後に音もなくフワリと降りた。
「まずいわね、あの人怒ってる。退避を、ノーデンリヒトの人は障壁を最大にしてすぐに退避を!」
「いいや逃げることはできない。私にはアリエルくんの戦いを見届ける責任がある」
「見届けるにしても下がって。できるだけ距離をとらないと被害が」
ジュノーの忠告を聞かず、頑として動こうとしないシャルナクの前に目視できるほど高密度の障壁が現れた。過去に守護の女神と称されたイシターの張った耐魔導複合障壁だ。
「みなシャルナクの背後に入って身を守りなさい。急いで」
小さな、とても小さな少女の後ろに身を寄せ合い隠れる屈強な戦士たちの姿がそこにあった。
「どうせならあなたも後ろに入りなさいな。ジュノー」
「いらないわよ……私には自前の障壁があります。でもその強度で大丈夫? 舐めていて抜かれないよう気を付けることね」
「しかめっ面がお似合いねジュノー。普通にしてたら可愛いのに、もったいない子」
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「よそ見してたら命を落とすぜ!」
―― ガツン!
背後にいる者たちが障壁を展開するのを待っていたアリエルを不意の一撃が襲った。地面に縫い付けられていた槍が抜かれ、動けるようになったらすぐに奇襲を放ってくる。この戦場で一騎打ちを受けたにも関わらず、全力でよそ見ブッこいてるアリエルのほうが迂闊だったことは言うまでもない。
ハルゼル渾身の先制攻撃はその腰に差した剣をおもむろに振りかぶって一撃必殺を狙ったものだったが、無防備に受けたアリエルの防御魔法を抜くことができず、まるで鉄板でも叩いたかのような反射音が鳴り響くのみだ。サオとの立ち合いで見たはずなのに同じ過ちを犯す愚を露呈してしまった形ではあるが、もともとハルゼルは手詰まりになったから一騎打ちを挑んだに過ぎない。おそらくもう、打つ手など最初からなかったのだ。
アリエルはハルゼルの襟首を掴み、暴れようとする身体をそのまま持ち上げたあと、おもむろに地面へと叩きつけた。右手にいつの間にか握られている抜き身の日本刀、これはロザリンドとアーヴァインのために打ったものとは材質の配合を変えて打った一振り、昔、グレアノット師匠に聞いたことがある魔法剣士の使う剣。ミスリルの含有量を増やし、硬さと切れ味は『北斗』に及ばないが、刀身そのものにも魔法が乗るように仕上げた。
業物とは程遠い外道のハガネ。刀身に[爆裂]をエンチャントして振るうように調整されている。
アリエルはそんな外道の刀に『黄昏』と名付け、銘打った。
後ろに飛んでローリングで間合いを取ろうとするハルゼルをよそに、アリエルは静かに瞑目し、いつものルーティーンを組み立てる。明鏡止水なんて、それはとても困難な注文だった。
目の前に16年前パシテーを殺した張本人がいて、殺意を込めた刃を向けているのだ。憎しみに逸る気持ちが先走る。冷静ではいられない。心が落ち着くわけがない……。
ルーティーンが一度で決まらず、2周目を組み立て、ゆっくりと上段に構える。
そして刮目。目の前の相手を睨み殺す勢いで見据えると、放たれる重厚な殺気の上からかぶせるように燃え上がる怒気が辺りを飲み込み、上段に構えた刀身からは白い光が放たれ始めた。
その怒気は明鏡止水とは程遠い、抑えきれない怒りに身を委ねたものだった。
すぐ近くまで歩み寄って一騎打ちの見物をしようという帝国軍第一陣4000の兵たちは愚かという他ないが、そんな中でも恐怖に身がすくみ上り、腰を抜かして逃げる者も出始めている。
足をガクガクと震えさせながらも片膝立ちから立ち上がって剣を構えているハルゼルはさすが勇者と言うべきか。目に映る少年が本物の死神に見えているだろうに。
「俺の名はアリエル。……アリエル・ベルセリウスと呼ばれていたこともあったが、いまはただのアリエルだ。……会いたかったぞ、ハルゼル! 16年前の続きを始めようじゃないか」
「……っ!」
イカロスを始め、ランクスもイルベルムも、声の聞こえる距離に居た帝国側の軍関係者はみな耳を疑い、そして戦慄した。またあの悪夢のような戦いが繰り返されるとは考えたくもなかったのだろう。
「ハルゼル……」
イカロスはアリエル・ベルセリウスの名を聞くと、ハルゼルを残したまま即座にその場を離れた。
一騎打ちを見守る帝国軍人たちは、考えたくもなかった悪夢が再び呼び起こされることとなった。
アリエルの一の太刀が振り下ろされることによって。
―― ズッバッ!
一刀両断。書いて字のごとく、一刀両断だった。
だがしかしこの『黄昏』、ただ[爆裂]をエンチャントしただけにもかかわらず、その効果は想定していたものとは異なった結果になってしまった。
その刀身で剣撃を受けたときは普通に[爆裂]で反射ダメージを与える。この効果はロザリンドやアーヴァインたちと打ち合っていた際に確認済みだった。アーヴァインをして『その刀とは絶対に打ち合いたくない』と言わしめたほどの外道の剣。だけどこの刀身で相手の肉を切り裂いたとき、エンチャントした[爆裂]が流出してしまうという不具合が生じたのだ。
アリエルの特異体質である、マナの親和性。誰のマナとも溶けて混ざる特質が災いしたのだろう。
―― ドドッガァァァンンンン!!
瞬間的にすべてを焼き尽くすような灼熱と、同時に音速で襲い来る衝撃波。
200メートル後方に下がっていてなお、ジュノーやイシターの張る世界屈指の障壁に守られていながらも吹き飛ばされるノーデンリヒトの戦士たち。
「あっ……シャルナク! シャルナク!」
「あ、ああ大丈夫だよエリィ、心配させて悪かった……」
障壁ごと吹き飛ばされ、まずは夫の安否を確かめようとするイシターに、地に伏したままシャルナクは無事を告げる。だがイシターは同時に湧き上がる違和感に気付いた。爆破魔法は想定外の規模で炸裂し、障壁を抜かれたイシターの背後にいた者たちを容赦なく襲う衝撃波と飛礫。障壁で減衰されたとはいえ戦闘員ではないシャルナクやコーディリアの受けたダメージは無視できないほどに大きなものだった……。
アリエルの爆裂を甘く見たイシターの失策だったが、いま吹き飛ばされた者たちは全員が薄ぼんやりとした光に包まれている。
これがジュノーの光だということは、イシターにはすぐ理解できた。
ジュノーはアリエルの爆破魔法が想定の範囲より大きなものになることを予見していて、すぐに治癒のフィールドを展開、吹き飛ばされたシャルナク・ベルセリウスはじめ、多くの者の治癒を瞬時に完了したのだった。みな命を落とすほどではなかったが、ジュノーが居なければ全員担架で運ばれ、しばらくは医務室のベッドで粥をすすっていたことだろう。
「ジュノー、シャルナクを助けてくれてありがとう。あなたが居てくれでよかった……」
仇敵だったイシターの瞳からは刃物で刺すような眼光が失われ、口をついて零れた感謝の言葉も、実はあらかじめしっかりと耳栓を装備していたジュノーの耳に直接届くことはなかったが、その真摯な眼差しを受けたことで、気持ちだけは伝わったのだろう。
「フン……」と鼻を鳴らしながら耳栓を外すジュノーの仕草は、照れ隠しに近いものがあった。
爆心地で巻き起こる風、晴れていく粉塵……。そして風に巻き上げられて、みるみるうちに消えていこうとするハルゼルの灰。いつか見た勇者キャリバンのように燃え尽き、真っ白になってしまった身体が灰となって風に舞い上がる。
残心を解いて黄昏をストレージに収納するアリエル。常時展開されている強固な防御と障壁をもってしても顔と頭に軽い火傷と、頬には口内へ貫通するほど深い裂傷を負ったが、それらは自己再生によりすぐに治癒されていった。上半身に羽織っていたフード付きのパーカーが焼けただれ、くすぶって煙を上げている程度の被害といえば軽すぎるだろうか。爆発の規模から考えると、かろうじてズボンが吹き飛ばされなかったのは幸運だったと言える。
周囲を囲んでいた帝国兵たちはその距離が近かったせいで悉く爆風に倒されていてその多くが命を落としていたが、ほんの少し、高さわずか50センチ程度の地面の盛り上がりの向こう側に倒れていた人がひとり命を拾ったようだ。戦うのに向いていなかったから神官になったとはいえ、もともとチートと呼べるほどの力を得てスヴェアベルムに来た日本人、そう簡単にくたばるようなタマじゃない。
「ジュノー、こっちこっち。イルベルムさんが生きてるみたいだ。はよう……」




