08-32 素晴らしい日々
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サナトスはてくてくの瘴気に飲まれたことで、また夢の中にでも連れて行かれると思っていたが、瘴気が晴れて視界から暗闇が取り除かれても、移動せずベルセリウス別邸の居間だった。
《 あれ? てくてくの瘴気に飲まれた気がしたけど、 移動してない。ここは居間だ 》
だけどカーテンの色が違う、ソファーの数も少ない。
サナトスのすぐ傍らにいたゆりかごの中の赤ん坊を覗き込む女性がいた。
まるで男の魔人族を象徴するような大きなツノと、紅い瞳の……。
ロザリンド・ルビス。
サナトスは記憶に薄れた母の姿を見た。
噂に聞く極悪非道な印象などこれっぽっちもない。
ゆりかごのなかでスヤスヤと寝息を立てる息子をじーっと眺めている真紅の双眸はこれ以上ないほどに愛おしげだ。
居間にいるのは、……サナトスの母ロザリンドと、若い、まだ幼い顔立ちをしているサオだった。
「ロザリィ? あんまりじーっと眺めてたら穴が空くっていうわよ」
「あはは、穴が空かないようにそーっと眺めてるわよ。……ちょっと日課の素振りだけでもやっとかないといけないから見といてもらえる?」
「うん、でも産後だから軽めにしとかないとポーシャに怒られるわよ」
「ん。軽くよ。軽く」
すっくと立ちあがったロザリンドと並んでみて、サナトスは息をのんだ。
「ちょ……、でかいな。俺まだ母さんに追いついてないのか。魔王よりデカいよな」
★★★★
サラッとシーンが変わって、屋敷の庭に出た。
このうら若きサオはサナトスを抱いたままロザリンドの鍛錬についてきたようだ。
てくてくの魔法でサナトスの記憶に入り込んでいっしょに覗いているサオが記憶の糸を辿る……。
「あー、そうそう。ロザリィはちょっとでもサナが見えないと不安だって言うから、私が抱っこしてついて回ってたんだ」
体中の関節を柔軟体操で慣らつつ、ロザリンドはいつものルーティーンを組み立てる。
サナトスはロザリンドの剣を初めて見て目を奪われた。
剣を持った母は美しいといったカロッゾさんの真意がようやくわかった。
《 母さんの剣は美しい 》
力を入れてるようには見えないのに恐ろしく速い。
あんなに長くて振りにくいであろう木剣を、まるで重さを感じさせずに振る。
サナトスの目をもってしても剣筋はよく見えず、ただ風切り音だけがビュッ! ビュッ! と遅れて聞こえてくるだけだった。
ある境地にまで達すると筋肉の緊張はむしろ遅くなる原因でしかないというが、まさにそれを体現するかのような振りだった。
しばらく剣を振って、とても愛おしそうにサナトスを眺めて、そしてまた剣を振る。
その剣筋は鍛錬の賜物なのだろう。
現代のサオは帰らないロザリンドを懐かしみ、レダはちっこいサナトスに首ったけ。
カンナとサナトスはロザリンドの剣に見とれている。
すると、チャイムも鳴らさずに門から人が入ってきたようだ。
「え? ……サオ、あれは人なのか? 空を飛んでるぞ?」
「あ、あの人がパシテーよ。そして、こっちの金髪のひとがあなたのお父さん、アリエルよ」
サナトスは想像していたアリエル・ベルセリウスとの違いに戸惑った。
もっと大きな体躯を想像していたが170ぐらいか。あまり筋肉もついてない。
だがしかし……。
「顔は俺に似てるかな?」
「「「 あなたがお父さん似なの 」」」
総ツッコミである。
しかし、優男だとは聞いていたが、まさかこれほど優男だとは思ってなかった。
アリエルは赤ん坊のサナトスを見るとすぐに駆け寄って若いサオから奪おうとするが、ひょいとパシテーに奪われて空に逃してしまう。
「んー、サナちゃん可愛いの」
落としてしまわないか不安そうな顔をして、オロオロと真下で万が一のときは受け止めようと構えるアリエルとロザリンドを見て少しほっこりしている女たち。
ここで衝撃の事実が発覚する。
サナトスのファーストキスを奪ったのはセリーヌではなく、パシテーだった。
「もう、パシテーさんズルいです。師匠、ハイペリオン出してください、私が責任をもってパシテーさんを追います! サナのほっぺにチューするのは私の役目なんですから!」
可愛らしいサオを見て噴き出す人がいる反面、赤面して頭を抱える者もいる。
「ああダメ、勘弁して。なんの罰ゲームなの? 私恥ずかしくて死んでしまいそう」
過去の自分を見せられて恥ずかしさに耐えられなくなったサオ。みんなに助けを求める視線を送るけれど、こんな鉄板を見せつけられたら誰もフォローなんかできない。
サナトスは『サオってこんなキャラだったの? マジで?』……と言いそうになって言葉を飲み込む。
「パシテーにチューしてもらってよかったねぇ……」とレダのジト目に晒された上に、サオの痴態を見てしまうわで、サナトスはしばらくサオの顔を見ることができなくなってしまった。
てくてくが指揮棒を振るような動作をするとまたシーンが変わった。
★★★★
この部屋は、今もアリエルとロザリンドが出て行った時のまま保存されている寝室。
暖炉の炎と、パチパチと薪の爆ぜる音がする。燭台のロウソクは灯りを揺らめかせる。
アリエルとロザリンドは、サナトスのゆりかごを囲んで、じーっと眺めている。
アリエルはサナトスの手のひらを指で触れると、ぎゅっと指を掴む。そんなことをずっと繰り返してニヤニヤする父親と、まだ角の生えていない頭を撫でながら、その柔らかい髪を指で漉いてはニコニコする母親。
何のことはない。サナトスも祝福されて誕生し、人並みに愛情を受けていたのだ。
てくてく、サナトス、サオ、レダそしてカンナ。5人でこの親子を囲むようにして、ゆりかごを見ていた。微笑ましすぎるシーン。ロザリンドのとても優しそうな表情がみんなに移ったようで、ここにいる者はみな胸に暖かいものを胸に感じているはずだ。
ここには今、とても暖かく、ゆるーい時間が流れている。誰も言葉を発しようとしない。
サナトスが考えていた父親と母親のイメージが180度ガラリと変わってしまった。そんな体験だった。
だが、なんだろう。この違和感は。
しっくりこないのだ。サナトスにはうまく説明できないけれど、何かがおかしい。
例えようのない不安というか、まるで気付かずに箸でカレーを食べているような、何とも言えない強烈な違和感がこの空間を包んでいる。
落ち着いてこの親子から目線を外して慎重に辺りを観察するサナトス。
カーテンは閉められているし、ベッドのサイドテーブルの水差しにも異常はない。
サナトスは訝って一歩引いてみた。何かがおかしいのだ。
《 ……あっ! 》
違和感が顔をのぞかせた。
一人多い。
囲む人数が一人多い。
サナトスよりも背の高い女性が混ざっていて、アリエル、ロザリンドの親子に、とても暖かな眼差しを送っている。
その人はサナトスが気付き、驚いた顔をしたのを見ても、意にも介さない様子だった。
サナトスが身構えたのを見て、ゆりかごを囲んでほっこりしていた者たちもみんな気付いた。
そしてあらかじめ予定されていたかのように、てくてくが『してやったり』と言わんばかりのドヤ顔で一歩前に出る。
「はじめましてなのよ。ゾフィー」
てくてくの勝ち誇ったような挨拶を受けたゾフィーはゆっくりとした動作で目線を上げたが、もういちど名残惜しそうにゆりかごに眠るサナトスへ視線を落としたあと、その温かな眼差しを皆に向けた。




