08-15 ノーデンリヒトの死神
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死者を弔うため期限付きの停戦となってから3日。最初の戦闘からわずか4日後にはマローニ門外にあれほど転がっていた遺体も全て埋葬された。もとは同じ国の兵士なのだ、王国騎士団にいた者、または同じ鎧を着ていたもので認識票を持っていなかった者、または顔を見て見わけがつかなかった者は身元不明の無縁仏としてマローニの民の手により丁重に葬られた。しかし、こんな時は大抵忙しいはずの教会関係者の姿はなく、マローニは女神に見捨てられた街の様相を呈していた。
その間、わずか3日ではあったがサナトスはアプサラスと精霊魔法の訓練を重ね、レダにも手伝ってもらいながらそれなりにアプサラスの力を引き出せるようになった。いや違う、アプサラスがサナトスの力を引き出すといった方がこの場合は正しいのかもしれない。
なにしろ春だと言うのにマローニはうっすらと雪景色になっているのだ。
もちろんアプサラスの力だけでは地域の季節を無視した天候変化などという大きな魔法を継続して使うことは不可能だ。サナトスの持つ力をアプサラスが引き出したにすぎないのだ。いや、これも違う。単純にサナトスの魔法の鍛錬が未熟過ぎて、アプサラスが強引に力を引き出したものの抑えが効かず、全開で街の周辺をまるごと過冷却してしまったというわけだ。
てくてくが失敗すること多々あるのと同じく、アプサラスも似たようなものだ。要は、サナトスの力を使ってアプサラスがやりすぎたという事。寒くて暖炉が恋しくなってもマローニの戦士たちはみんな防寒着を羽織るなりして門前に集まっている。
実はここスヴェアベルムでは、冬に戦争をするという慣習がない。厳しすぎる冬に戦争などやってる余裕などないというのがこの国の現状なのだ。特に近代では金属製のフルプレート鎧などを着込む将校にとって低温がどれほど厳しいものか想像に難くない。敵も味方もどちらも不自由な戦いを強いられることになるので、雪の降る季節などは停戦するのが慣習なのだ。
それでも突然のゲリラ豪雨などで地面がぬかるんだりしたぐらいじゃ停戦にまではならないのと同じで、今日のこのマローニの戦いも突然のゲリラ降雪のようなものだと認識されたのだろう。ほんのりと積雪でぐっしょりと泥濘んだマローニ南側の平原に王国軍が気勢を上げつつある。
時を同じくして、ソンフィールド・グレアノット教授を擁するマローニ魔導学院がこの土壇場で【グリモア詠唱法】のプロトタイプを完成させ、この防衛戦に間に合わせてきた。
グリモア詠唱法とは、起動式の入力を指で書くのではなく、本に書かれた起動式を読むだけで入力完了とする新技術だ。これに術式破棄の技術を加えると疑似的に無詠唱魔導が完成する。
無詠唱。それは魔導師たちにとって追究せねばならない夢の技術だ。神話の時代には神々の使う魔法、つまり『権能』と呼ばれる生まれ持った能力としての魔法がそれにあたる。
神々は起動式を用いず、息をするように魔法を使っていた。無意識のうちに、当たり前のように。
人は神に非ず。魔法を使うのに起動式の入力を要する。だが、一人の天才少年、アリエル・ベルセリウスが確立した無詠唱技術によって魔導師を取り巻く環境は一変する。これまで戦いには向かないとされていた魔導師の価値が一気に跳ね上がったのである。
王国にはもともと王都の魔導学院にあったアルド派、比較的エルフ族の多いフェイスロンドのグランネルジュ魔導学院からザウワー派の二大魔導派閥あり。だがここにきて急激に力をつけてきたのがボトランジュの片田舎、マローニ魔導学院に研究所を構えるソンフィールド・グレアノット教授が率いるグレアノット派だ。
かの大罪人、無詠唱で爆破魔法を使ってセカ外縁にて単騎で三万のアルトロンド領軍を討ち滅ぼしたアリエル・ベルセリウスの師でもある。無詠唱と飛行魔法を操り、上演された演劇でヒロインとなり王都でも人気を博したパシテーもグレアノットの弟子、そして今も無詠唱の魔法を駆使してマローニの防衛に尽力しているのがグレアノット最後の弟子と呼ばれているディオネ。
軍部とは特につながりを持たないにも関わらず、たまに衛兵の練兵場に呼ばれて合同鍛錬していたという理由で、いつの間にかマローニ防衛の要になったサオは、あの気難しいグレアノット教授が認める唯一人の高弟、アリエル・ベルセリウスの後継者ともいわれている。
「派閥じゃと? そんなもの犬に食わせてしまえばええ。わしら魔導師は権力闘争になんぞ心砕いておる時間があるなら、魔導を追及すべきとは思わんかね?」
とは当のソンフィールド・グレアノット教授の言葉である。
数こそ少なく勢力としては物の数にも数えられないほど微細な派閥であるが、その魔導の力量としては少数精鋭で、他の巨大派閥など問題にならない力を持っている。
無詠唱の魔導師こそは一騎当千。起動式魔導しか使えない者がいくら威張ったところで、無詠唱魔導を使える者にとっては赤子の手をひねるようなものなのだから。
二千年を生きたエルフの長老、かの爆炎のフォーマルハウトですらベルセリウスと対峙して何もさせてもらえずに倒されたという。無詠唱魔導は女神ジュノーが人に降ろしたとされる起動式魔導を完全に過去のものにしてしまった。それも、ある程度鍛錬すれば誰にでも扱えるであろう、一冊のグリモアによって完成する。
小雪のちらつくマローニの街に静寂を打ち破るかのような鐘の音が鳴り響いた。
朝からの雪景色を様子見したのだろうか、また午後になってから王国軍の侵攻があったようだ。
マローニの街に響き渡る鐘の音が鳴り終わるのを待たず南門が開くと、姿を見せたのはたったの5人だった。サナトス、レダ、サオにディオネ、そしてベルゲルミル。
先日の戦いで数を減らしたマローニの衛兵たちは、万が一、門が抜かれた時の対処をするため南門の裏側を確実に守る布陣を選んだのだ。
防護壁の上には弓兵と魔導学院から四名が志願した。この志願した者たちはアリエル・ベルセリウスが提唱しグレアノット教授が12年かけてプロトタイプを完成させたグリモア詠唱法の研究助手たちだった。
筆頭にコーディリア・ベルセリウスと、セカの魔導学院から避難してきたナディ・アリー教授にエイラ教授、そして門から打って出たベルゲルミルの妻、アドラステア・カロッゾ。この四名のうちアドラステアだけは詠唱破棄の技術を持っていたので、術式も省略され、完全な無詠唱で魔法が発動させることが可能だ。
アドラステアが小さく投げキッスを飛ばしてベルゲルミルの無事を祈った。
ベルゲルミルは防護壁の上で魔導兵として初陣となる妻を心配そうに見上げていた。
「カミさんが後ろを守ってくれるってのは頼もしいが、ここを抜かれたら殺されっちまうからなあ。プレッシャーも半端ねえ。てかこの数を5人でかよ。サオさん厳しいねえ」
「大丈夫。これが私たちにできる最強の布陣よ。私たちはディフェンス。この門を守り切れば勝ち」
サオが平気な顔で最強の布陣だなんて言われ、辟易したベルゲルミル。今度は同郷のディオネに愚痴をこぼしている。金属製のグリーヴから染み込んでくる雪解け水が冷たくて我慢ならないようだ。
「なあディオネ……寒くねえの? 鎧がちべてえ……体温を奪われて風邪ひいちまう。ボウズももうちっと手加減ってもんを覚えてくれないと戦う前にこっちが風邪ひいちまうぜ。攻め手を不利にするだけなら雨を降らせりゃいいだけなのに、なんで雪なんだ?」
「んー、私はローブの下にいつもより厚着してるから大丈夫。サナちゃん慣れてないんだってさ。こんな広範囲に影響を与えるような大きな魔法なのに、効果が強く出すぎる方向で失敗をするなんて……ほんと信じられないよね」
ベルゲルミルたちマローニの守備隊が門を守る布陣で配置に着くと敵陣から鬨の声が上がり、盾を鳴らして横一線で殺しに来る敵兵たち。その数ざっと2万5千。
うっすらと雪化粧されたマローニ南側を、美しいシュプールを描いて敵陣に突っ込むたった二人の精霊使いサナトスとレダ。2万5千の敵軍に対し、オフェンスは僅か2人という強気の布陣で臨んだ。
これがサオの言う最強の布陣だ。オフェンスをサナトスとレダに任せることで乱戦を避る作戦だった。
うっすらとした積雪に泥濘、シャーベット状になった氷雪が侵攻する兵たちの足もとから体温を奪う。王国軍の兵士たちが冬用の鎧下なんかマローニまで持ってきている訳もないから、きっと春先の装備をそのまま着込んで出てきているのだろう。
門の東側を攻めようとしていた1万の兵に突っ込むサナトス。さすがに1万もの兵が殺気を発しながら剣を抜いて迫ってくるのは恐ろしいと感じたのか、緊張して奥歯が擦り減るほど噛みしめた。
サナトスが敵軍に突っ込むのと同時に気温がどんどん下がってゆき、足もとの雪が再び凍ろうかとするほどの冷気が戦場に流れ込む。
『サナ、緊張しすぎ。抑えないとマローニの街でも凍死者でるわさ?』
『調節が難しいんだってばよ、なにこのピーキーな魔法……』
雪景色の上を[スケイト]で滑行するサナトスと、機動力を奪われた上に、その冷気と冷水により末端から感覚を失ってゆく兵士たち。もうこのマローニに雪が降った時点で勝敗は決していたのだ。
マローニを囲む兵の数など問題ではなかった。それが10人だろうと万人だろうと。
サナトスは剣を振りかぶって迫りくる敵軍に対し、ただ左手を払っただけ。
大地に降り積もり、シャーベット状に堆積していた水が王国軍に襲い掛かる。
革鎧など軽装で来た者は氷の棘に襲われて足もとから刺し貫かれ、金属製の防具を付けた者は図らずも足下からの刺突攻撃をまったく考慮していない鎧の防御特性の弱点を突かれた。
運よく氷の棘を避けることができた兵士もその冷気によって前進する足を止めてゆく。
そして永遠に動くことがなかった。
人の身体は約6割が水でできているという。その事実だけでもう水を操る精霊使いサナトスに挑むこと自体が愚かなのだ。もはや人であってはサナトスと対峙する資格すらない。
乱戦になっては味方を巻き込んでしまう大きすぎる力だからこそ、南門から打って出たのはたったの5人。オフェンスにサナトスとレダの二人、門のディフェンスに三人。これが鉄壁だというのがサオの提案だった。
防護壁の上で号令を待っていた東側の弓兵たちは眼下の戦いを見て弓の構えを解いた。
それほどまでに圧倒的だった。もはや戦いでもなく、殺し合いですらない、一方的な虐殺を目の当たりにし、その心に宿った畏怖を込め、改めてこう呼んだ。
雪と氷の世界から死を運ぶ者、ノーデンリヒトの死神と。
西側を守るレダの方はこのぬかるみの中でも構わず強化をかけて飛ばしてくる兵たちを一度には捌き切れず、50~100人程度の敵兵が抜けてくるのだが、魔導学院の戦力としてアリー教授とアドラステアが弓の射程の外から正確に[ファイアボール]で迎撃する。
「バカめ!」「クソ野郎!」「死ね!」「この〇〇チンが!」「クソ〇〇チン!」
術式もかなり省略してただの罵詈雑言と化した無詠唱魔導の実際の運用はこんなものだった。術式で気合を入れて大きな魔法にするため、悪口を叫ぶ。これで効果抜群なのだそうだ。
「これは……先に術式省略も義務化して完全無詠唱で扱えるようにならないと魔導師の品格が問われることになるわね」
防護壁の弓櫓の上でアドラステアは一人で頭を抱える。
コーディリア・ベルセリウスが無詠唱書籍魔法の研究者として推薦しマローニに呼び寄せたこの二人の教授たちの性格のキツさと面倒くささと言ったら……。
ふと背後からの冷たい視線を感じて振り返ると……弓兵たちが篝火で暖を取りながらドン引きしてるし、下からはベルゲルミルが微妙な表情で『なんとかしろ』という。
でもアドラステアにアリー教授とエイラ教授をどうにかするだなんてできる訳がない。
門の東側はとても静かなのに、こっちは防護壁の上で大騒ぎ、下は阿鼻叫喚の地獄絵図になってる。誰が見てもオーバーキルだろうこれは。また遺体の身元が分からなくなる。
アドラステアはこの戦場を一望できる場所でレダの戦いに目を奪われていた。
精霊使い。こどもの頃、母親に読んで聞かせられた精霊王アリエルのはなし。誰もが知ってる童話の世界の話。それがいま現実に目の前にあった。
この世界に四柱の精霊あり……から始まる風の精霊のお話。その話はドジなアリエルと精霊のテックが村人たちを助けようとして失敗する話ばかり。結局のところ精霊なんてものに頼っちゃだめだという戒めの話だったはずだ。
だが現実には精霊王というものは人知の及ばぬ力を行使している。
マローニの街が戦火を逃れ、この戦を勝利で終えたとするならば、精霊王の物語の新刊を出してもいいな、と思えるほどだ。今度は童話ではなく、英雄譚として。
アドラステアに課せられた西側の防衛は拮抗するまでもなくレダが押しているし、抜けてきた兵たちは弓隊に構えさせることすらなく、アリー教授が片っ端から灰にしているのでアドラステアの出番はない。
広範囲を見渡す余裕を与えられたアドラステアは、東側の守りが気になった。
「東側……何があったんだろう? あっちはコーディリアとエイラ教授が守っているというのに魔法が飛んだ様子がない」
アドラステアがこの異変に気付いたのだから、対する王国側の司令官も軍右翼の動きが停まっていることに気付いていた。東側を攻めた1万の大軍がほとんど動いていない。状況も何も、東側の兵たちは侵攻をやめ、ただ立ち止まっているかのように見えたのだ。
「東側の侵攻が遅れているようだが? 報告せよ、なにか障害があるのか?」
―― ドッゴォォォ……
―― ドドッゴォォ!
遠くから戦場にこだまする爆発音。
サナトスがら遠く、氷結魔法の範囲外から侵攻しようとする兵に向けて爆破魔法が放たれたのだ。
その空気を伝わる衝撃波が、いま氷像のように動きを止めた者たちを破壊してまわる。まるで誰も入っていない甲冑のように、関節から折れ、ガラガラと軽い音を立てて崩れていく王国軍兵士たち。
王国軍の将校は『こんなはずじゃなかった』と歯噛みすることしかできなかった。
先日の戦闘でボトランジュ軍の数が大幅に減り、今日の戦いは楽勝ムードだったはず。
角の生えた魔人族の戦士はそれほど危険度が高いと言われなかった。今日の戦闘では、エルフのスカーフェイスをどう攻略するかがカギだったはず。
前進するのをためらう。前に進んだ戦友たちはみんな凍結して死んでしまった。もう動かない。
あちこちで氷像と化した戦友の名を呼ぶ悲痛な声が聞こえる。
眼前に見えるはずの街が遠い。あそこにたどり着ける気がしない。
わずかに生き残った兵たちも自らの意思で敗北を悟り、足を止めた。
―― ドシャァッ!
王国軍司令部の前に何か大きな重量物が降ってきたことに身構える士官たち。
戦況が混乱していて明瞭な情報が入ってこず、苛立ちを隠せなくなってきた王国軍司令官の前に、軍右翼1万を壊滅せしめた魔人が降り立った。
[スケイト]からのジャンプで狙ったところに着地するのはそれほど難しいことじゃない。
王国軍の目には空でも飛んできたように見えたのだろう。
大きな角と紅の眼、筋骨隆々、ガッチリしたガタイのいい魔人族の戦士だ。背には大きな剣を背負っている。だがその剣をもって戦闘の構えを見せるでもなく、一万の軍勢を抜いてたった一人でここに立っているなど考えられないことだった。
サナトスは加速し、立ちふさがる敵どもを持ち前の機動力と気合で避け切り、不敵にも敵陣中央に突破して割り込んだ。敵陣中央、一番偉い奴のいる場所だった。
王国旗がはためき、将軍旗のもと、ヘルメットに赤い鶏冠がついている、ひときわ偉そうにふんぞり返って、同法が死ぬのをただ見ているだけの存在。そんないけ好かない奴を探し出し、目の前に立つと、サナトスは堂々と言ってのけた。
「なあ、アンタが一番偉いんだろ。たくさん死んだぞ? もう帰れよ」




