08-12 マローニ防衛戦(7) アプサラス(2)
―― コンコン。
ノックの音がした。
まだ微睡んでいてハッキリしない脳を揺さぶって目を覚ますには丁度いいぐらいの雑音だった。
「サナトスさま、朝食の用意ができています。皆さんお揃いですよ」
「……んっ」
みんな揃ってる? という事はサナトスがいちばん遅くまで寝てたということだ。どうやら寝坊してしまったらしい。
本当に嫌な夢を見た。……昨日斬り殺してしまった兵士の顔が忘れられない。殺意のこもった目から光が失われてゆくのが目に焼き付いている。
敵はサナトスの目をじっと見ながら倒れていった。もう剣を振りあげる力も残ってないのに、自分を殺した相手の顔を目に焼き付けるように、サナトスの目をじっと見ながら死んでいった。
あの男にもきっと家族がいるのだろうし、もしかすると故郷で帰りを待つ恋人がいたのかもしれない。
そんなことを考えると、清々しい朝とはいえず、どんよりしてしまう。
「アプ?」
『ここにいるのよ?』
左手からじゃーっと水が出て、それが地面に落ちるとアプサラスの姿に変化した。
そしてアプサラスはサナトスの身体にまとわりつくとジャバッと音を立てて同化する。どういう仕組みになっているのかはまったくわからない。
「おおー。こんな不思議体験を自然に受け入れてる自分が怖いわ」
『もうアナタとワタシは一心同体なの。恋人よりも深い関係、分かった? アナタはワタシのモノなの』
「そっか。まあ、悪い気はしないからそれでいい」
そのまま食堂に行くとてくてくとレダが驚愕の表情を浮かべていた。その顔は口あんぐりでなかなかに笑える素晴らしい表情だった。
狼狽するてくてくがガタッと椅子を飛ばして立ち上がった。
「アプ!! アナタ、なにしてくれちゃってんのよ! サナトスもサナトスなのよ! なんでこんな尻軽女に身体を許しちゃうわけ?」
「なんだかひどい言われようだしー、誰が聞いても誤解しそうな言い回しで不愉快なんだけどー? ゾフィーがね、いい子だから守ってやってって言うから会ってみたら、なかなかイイ男じゃないの。先にツバつけたのはワタシ。テックあなたは引っ込んでなさいよ」
「ダメ……アタシ頭がくらくらする……。油断してしまったのよ……。イグニスが見舞いに来た時点で怪しんでおくべきだったわ。手塩にかけて育てた息子をどこぞの尻軽女にとられた気分なのよ……はあ、全身から力が抜けたわ。今日はもう食欲がないのよ……あーんビアンカ……アタシのサナトスがイヤな女に取られたのよ。出産にも立ち会ったの。サナトスを産湯につけたのもアタシなの。ずっとアタシが見てたのに、たった一夜目を離した隙に悪い精霊が取りついたのよ」
今にも倒れそうなてくてくを支えようとするビアンカ。
落胆して肩を落とすてくてくのことを気遣いながらも、それでもアプサラスは精霊。サナトスを守ってくれる存在としてこれほど心強い者もそう居ないことも確かなのだから。内心では歓迎しているに違いない。
「えっと、こいつはアプサラス。昨夜ちょっとあってさ」
「アプが夜這いをかけたのよ!」
「てくてく、ちょっと違うってば。頼むからケンカすんなよ」
「ほらビアンカ! もうサナはアプの毒牙にかかってアプの味方するのよ」
ビアンカはにっこりと微笑んで「初めまして。アプサラス」とあっさり受け入れた。
「ハイ、ビアンカ。アナタの孫はワタシが守るんだから安心していいの」
レダの背後からアスラが出て話に割り込もうと口を挟む。
「へえ、アプサラスがねえ。自分の意思じゃ誰とも契約したことなかったよね?」
「そうよ。尻軽だなんてひどい捏造だわ。ワタシ人を見る目が厳しいのよ」
てくてくとアプサラスはバリバリと火花を散らしながら悪態を吐いていたが意外にもサナトスとアプサラスの関係を一番に喜んだのはサオだった。
サオ曰く、これでサナトスが死ぬことはない……らしい。
だがそのアプサラスはさらに悲壮な顔をしているてくてくに追い打ちをかけるように言った。
「ねえ、あなたマナ欠乏してるわね? 何か寄生虫のようなものににマナ吸い取られてるんじゃなくて?」
それだけ言うとアプサラスはサナトスの右腕からジャブっと体内に入った。もう話すことはないとでも言いたげに。
「あっ……」
アプサラスの心無いことばに反応し、思わず声を上げたのはサオだった。
そう、サオには心当たりがあった。てくてくがマナ欠乏で倒れるほどマナ消費するその理由に。
てくてくが設置したというネストだ。それは師アリエルの影と同化するように設置された、てくてくの住居への出入り口として使われていた魔法生物専用の転移魔法陣。
いまはハイペリオンが入っていて、たぶん成長期なんだろう。普段はアリエルがマナを消費して維持しているのだけれど、なんらかの理由でアリエルがネストを維持することができなくなるほど消耗してしまうと、ネストを設置したてくてくが連帯保証人になって維持費を肩代わりしててもおかしくない。
そういえば、てくてくが体調を崩したのは5~6年ほど前。
師のほうはネストを維持するマナも足りないほど食い尽くされているということなのだから……アルカディアに行ってたとして、帰ってこられないのも、……なるほど頷ける。
「師匠が生きているという確信が得られましたよ。てくてく」
「なによアタシの言ったこと信じてなかったのね」
てくてくは食事を終えて席を立とうとするサナトスに声をかけて引き留めた。
精霊としてその力を人殺しのために使うであろうサナトスに忠告をしてやらねばならない。
「ねえ、サナトス。アナタは精霊の力を手に入れたのよ。その力を行使すればたぶん、数万の軍勢とも戦える。でも、アプの力はとても理不尽な力。アナタは外道と蔑まれることになるかもしれないわ。マスターも水魔法が得意だったけど、爆破魔法が使えない場所でしか使ってないはず。アナタには大変なことよ。もう戦争は始まってしまった。いい? サナトス。アナタは殺す命と守る命を選択しないといけないの」
「…………」
サナトスは何も答えられなかった。
扱うことも難しく発動させることも難しい流体を扱う水魔法。人は半分以上が水でできている。
サナトスはもともと水術士の素質があったが、水の精霊アプサラスと契約したことにより人の半分以上を構成する水分を自由にできるようになった。もちろんアリエルと同様に沸騰させることも凍らせることも、心臓から送り出される血液の流れを変えることもできるし、細胞内の圧力を変化させることも容易に。高位の水魔法ともなると離れたところにある水分を猛毒に変化させることも出来る。まるで生きとし生けるものの天敵にでもなったかのように振る舞える。そんな者がこれまでいただろうか。
そうだ、精霊の力を手に入れた精霊王は何人かいるが、戦争のために精霊の力を使おうなんて、たぶんフォーマルハウトと、レダと、そしてサナトスだけだ。
更に言葉を重ねる。
「マスターは選択したわ。でもそれは未来を生きるアナタたちの世代に戦いを引き継がせないためだった」
てくてくはそう言うと席を立って食堂を出て行った。
なんだか気まずい雰囲気になってしまったことよりも、家族を、仲間を、友達を守りたいと切に願って得た力が人を殺すための力で、自分の大切な人たちを守るためには、大勢の人から大切な人を奪わねばならないこと。誰も死なせたくないなどという甘さを捨てられないサナトスは、突きつけられた現実に打ちのめされることになる。
サナトスが考えていることがわかるアプサラスは直接サナトスの脳に語り掛ける。
『ワタシはアナタの選択には興味ないわ。ワタシはアナタ。アナタはワタシ。したいようにすればいいわ。アナタは英雄にも悪魔にもなれる』
アプサラスはサナトスに全幅の信頼を置いていて、そしてサナトスが悪魔と呼ばれるような非道い男になっても、アプサラスは自分が悪魔と呼ばれることを厭わないと言ってくれた。
「俺は英雄にも悪魔にもなりたくねえよ、ただみんなを守りたいだけなんだ」
……。
……。
精霊使いの先輩として、レダが一言いった。
「あの、サナ?、口に出して話さなくても頭の中で会話できると思うよ?」
「ええっ? マジで? ……ちょ、おいアプ先に言えよ、思いっきり恥ずかしいじゃないか」
もしレダが教えてくれなければずっと声に出して話してたかもしれない。傍から見ると独り言ばっかり言う気持ち悪い奴で、友達にもドン引きされるところだった。




