08-11 マローニ防衛戦(6) アプサラス
南門から歩いて戻れるサナトスは運がよかったのかもしれない。
マローニの南側はさながら野戦病院のテントが林立する難民キャンプのようになっている。治癒師のエマさんも今夜は屋敷に戻ってこられそうもない。
まだ戦える者、ケガの程度が軽い者は帰って体を休めておけと言われ、いま目の前のテントからカンナが出てきたところだ。エマさんに追い返されたのだろう。
サナトスはカンナに声をかけて通りの端っこを歩き、いまようやく屋敷に戻ってきたところだ。カンナは鉄刀を使っているせいか、返り血を一滴も浴びてない。ちょっと軽い運動をしただけ? みたいな涼しい顔をしているので、疲労で目尻の下がったサナトスとは対照的かと思えた。
いや、そうでもない。
屋敷の庭に建てられた離れがカンナの家。エマさんだけじゃなくバーバラさんもここに住んでることになってる。いつもあんなに小うるさいカンナが無言で家に帰った。カンナの特徴的な大きな目が少し伏し目がちになっていた。カンナは肉体的な疲労などほとんどないようだが、精神的には参ってる。
「カンナ、大丈夫か? なんなら今夜一緒に寝てやろうか?」
「積極的にお断りします」
伏し目がちだったと思った目で思いっきり睨まれたサナトス。
カンナは大丈夫だと確信した。
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サナトスが屋敷に戻ると血泥にまみれたその姿をみたクレシダが驚き、玄関まで着替えを持ってきてくれたので、軽くシャワーを浴びて返り血と汗が混じって泥が重なって固まったような固形物を洗い流す。
返り血って、なんだかいくら洗っても、いくら綺麗にしてもまだこびり付いてるような、変な感覚に陥る。生理的に受け付けないのは本能的なものなのだろうか。
何しろ人の血液を頭から浴びたのだ。今の今まで他人の体内を流れていて、生命の根源のような熱い血潮。人の顔をべったりと汚すほど身体から漏れ出したらそれだけで致命傷になる。
命を奪うのに剣を使って身体を斬るということは、心臓を一突きにしたり、肺を刺して呼吸を奪ったりするが、大きな血管を傷つけることで出血多量を狙うのも推奨されている。敵に血を流させるために剣を振るのだ。その意味でサナトスはいい働きをしたと言えるのだろう。
そう、いまサナトスがごしごしと一生懸命洗い落している返り血を浴びせかけた敵兵は悉くが血の海に沈みサナトスの剣の前に倒された。もう生きてない。言い換えると今ゴシゴシと嵐流している返り血は敵の死体の一部だ。
べったりと、ぐっしょりと、返り血が固まって、どす黒く固形化している。まるで呪いのように。
そんな返り血を念入りに洗い落し、シャワーから出ると飯の前にサオの部屋に行った。食事の前なら小言をいわれて困っていてもクレシダが呼びに来てくれるかも? という、いかにも叱られる前の子どものような発想でのことだ。他意はない。
サナトスが部屋を訪れるとサオは寝間着姿で机に向かっていた。別室のシャワーを浴びたようだが、戦うのに剣を使わないサオは返り血を浴びることもないのだろう。この戦時にでもパジャマで寝床に入るなんてすごい精神力だと思う。サナトスですら夜戦を警戒していつでも飛び出して行けるよう、普段着で寝るつもりだったのに。
サオはサナトスの顔をみると無言でクローゼットから真っ黒な布でグルグル巻きにされた包みを出してきた。サナトスの身長ほどもある長い包みで、その形から内容物が容易に想像できる。
これは剣だ。
「サナトス、これはあなたのお父さんが打った剣。装飾なしの無骨な、本気で戦うための剣よ。ロザリィが監修して師匠が打った正真正銘の業物。師匠の説明をそのまま言うと、ウーツ鋼にミスリルをうんたらかんたら。ごめんなさい、私には鍛冶の知識がないからよくわからなかったけど、剣に強化魔法が乗るらしいの」
「え? 父さんって剣を打てたのか?」
サオは右手の薬指にはめられた指輪をサナトスに見せた。細い指が印象的だった。
「そうよ。これ見て、師匠が私を弟子にしてくれた時に作ってくれたミスリルの指輪。これも師匠の作品ね。私は魔法の弟子だから剣を打つのは習ってないの。あなたの父さんと母さんの出会いの話? 聞いた事ある?」
「ねえし、そんなの知りたくもねえし。あ、でもダフニスのオッサンが酔っぱらって話してたな。勇者に殺されかけて逃げ場もねえのに求婚したアホだとか」
「ええ、そう。私もその場に居たのよ。酷い戦いだった。師匠が飛び込んでくるのがあと5秒遅かったら私も死んでたでしょうね。そこまで追い詰められてたわ。師匠はその命のやり取りをする場で、愛用する業物の剣を贈って求婚したの。普通は指輪とか花束とか贈るでしょ? あはは……ほんとアホよね?……でもね、ロザリィは受けた。あなたの母さんも相当なアホだったの」
「その笑い話……本当だったのか」
「うん、そうね、でもね、今さっき手も足も出なくて殺されかけたのに、次出ていったら勇者を圧倒したのよ? 私は魔剣のようになにか凄い剣なんだと思って、後でこっそりロザリィに聞いたの。でもね、ロザリィはそうは言わなかった。確かに業物の凄い剣だけど、剣の力だけじゃないって言ったの。なぞかけみたいなものね、私は愛の力だと思ったわ」
「愛の力ぁ?……よしてくれよこっ恥ずかしい」
やっぱりだ。父と母のバカみたいな話をするときだけ、サオは笑う。
そんなにもいい思い出があるというのだろうか、現実の世界では笑ったり泣いたりしなくて、いつも無表情なサオが、サナトスの父アリエルや、母ロザリンドの思い出話をするときだけ、こんなにいい顔になる。父と母を知らずに育ったサナトスにとって、この戦時であるが故、サオをこんなにも笑顔にできる父と母のことに興味を持った。
サナトスはアリエルが打ったという長剣を受け取り、包む布をほどくと、鞘のない抜き身の剣が姿を現した。それは幅広で見たことのない文様が施されている怪しげな剣だった。
そこには封筒に入れられた手紙が添えられてあった。
「……手紙っぽい? でも俺には読めないな」
「それはね……」
魔人族の文字で『息子へ』と書かれてあるそうだ。サオが代読してくれた。
「ふうん、こっちには何て書いてあるんだ? この剣の取扱説明書とか?」
「私が読んでもいいの?」
「どうせ俺には読めないからな」
前に立っていたサオが手紙を受け取ると封を解きながら横に回り込み、その内容を見せてくれた。何やら多くは書かれてないようだ。手紙は1枚、とてもシンプルに纏まっている。
「願わくば自由の道を切り拓く一助となりますように」
「ええっ? たったそれだけ?、普通こういうのって『この手紙をお前が読んでるということは、私はもうこの世にいません……』とか、そういうんじゃないの?」
「あははは、だってあの人たち、自分が死ぬなんてこと1ミリも考えてないわよ。でも……師匠たちは、もしかすると長く帰れないかもしれないって分かってたのかもしれないわね」
「え? この剣は俺が成長したら渡してくれって言われてたのか?」
「いいえ違うわ。預かっといてくれって。もし必要とあらば使っていいからねって。なんだか全部お見通しだったみたいで悔しいけどね」
「この屋敷に両手持ちの剣なんて使うのは俺かカンナだけだし」
「そうね……幅広の両手剣は魔人族剣士の誉よ」
ああ、聞いたことがある。魔人族の剣士は幅広の剣を振るって眼前の全てを斬り裂き、魔人族の戦士は斧を振るって全てを破壊するとか。
両手持ちの剣を両親から贈られたということは、全てを斬り裂いて自由を掴み取れというメッセージを受け取ったのと同じことなのかもしれない。
母の手紙を受け取ってまじまじと見てみた。ドーラの魔人族が使う文字なんだそうだ。言葉は方言あってもだいたい通じるが、それを表現する文字は種族によって、あるいは部族によって、住んでいる地域によって違うことが多いという。サナトスが読み書きできるのは人族の、シェダール王国の文字だけだ。それでも母の手紙からひとつ分かったことがあった。
「母さんって、字あんまりうまくないのな」
「あはははは、だってロザリィ脳筋だもの! 勉強は苦手たったよ」
ほらやっぱりサオは父と母のバカ話をするときだけ、こんなにいい笑顔を見せる。
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今日はサナトスにとって、いろいろあった。
いろいろあった中で、これまで自信があった強さという尺度では、自分が特別な強さを持っているわけではなく、どれほど普通で常識的な範疇にある一般人なのかってことを思い知らされたのと、いまサオが声を出して笑ったのに驚かされた。あの感情を外に出さないサオが何度も『あはははっ』って笑った。
普段から家族にも絶対に見せることはない笑った顔。今日はそれだけでも収穫だった。
食欲がないから晩御飯は要らないっていうとサオがうるさいので飯を食ったら早々に部屋にもどって剣を眺めてみることにした。
見たこともない文字が彫り込まれている。なんて書いてあるのだろう?いや、単なる模様かもしれないけど、これも明日誰かに聞かないと。
「くそオヤジ……銘入れるなら読めるように入れとけや」
何の装飾もなく、持つ者を決して飾り立てたりしない。華やかさの欠片もなく、美しさは妖しく鈍く光る刃そのものが物語るのみ。剣が剣であろうとする理由を、まるで無言のまま語り掛けてくるような、幅広で無骨な、ただひたすら無骨な一振りの剣。
その刃はしっとりと水をたたえたように、とても穏やかに見えた。
剣を構えてみても、『うおおおぉぉぉ力が、力が漲ってくるぜ』なんてこともなければ『斬りたい、斬って斬って血を吸いたいぜぇぇ』なんて脳が道を踏み外すような妖刀でもなく、持って構えてみると分かる。とてもバランスがいい。まるで自分が細かく注文して拵えてもらったオーダーメイド品のようにしっくりくる。
真剣など今日初めて振った自分が言うのも何だが、これはいい剣なんだろう。おとぎ話や英雄譚に出てくる聖剣や魔剣のたぐいはだいたいが剣そのものに何かの力が込められていて、力の足りなかった主人公を英雄に仕立て上げるものだけれど、この剣はきっとサナトスを英雄にするような代物じゃあない。
だが、両親から剣を贈られるというのには特別な意味がある。
帯剣を許されるのは自分の責任で剣を抜く判断ができると認められた大人だけ。
サナトス・ルビス・ベルセリウス14歳は、今日、ほかでもない母親代わりを務めるサオにより大人になったと認められた。その剣を誰に向けて、その剣で何を守るのか。否が応でも決めろと、そういう意味だ。
剣にはずっと眺めていても飽きないという魔力のようなものがある。
その刃の美しさは筆舌に尽くしがたい。
サナトスはやっと帯剣を許されたことを悦び、そして安堵のため息をついた。
「俺もみんなを守れるんだ……」
サナトスがこぼした独り言のような言葉に、誰かが返事をした。
「そう? 次は危ないんじゃなくて?」
ハッとして振り返ると窓のところに……白っぽい、いや、うっすらと水色の髪? の少女が……。
「うおっ!!! びっくりするじゃねえかオイ!……って、なんだ精霊かよ」
「なんだはないでしょ? 私たちこう見えて結構レアな存在だと思うのだけれど? 何その部屋に蜘蛛でも出たかのような反応は。ホント失礼しちゃうわネ」
「ああ、精霊には慣れてるんだよ。うちには てくてく居るし、あとアスラも来たからな」
「アスラ? 行方不明だと思ってたのにもう来てるなんてね……ま、アスラにしては上出来ナノヨ」
「へえ、やっぱてくてくとアスラは知り合いなんだな。えっと俺サナトス。まずは自己紹介とか? そういうのないの?」
「あら、ごめんあそばせ。私はアプサラス。生きとし生けるものの生命の源、水を守護する精霊なのよ。初めましてテックのアルジの子、北の蛮族の姫の子、そしてゾフィーの子サナトス。ゾフィーは見ているわ。ずっとあなたを。いつもね」
「またゾフィーかよ。知らねえって、なんだって女神さまが俺に関わろうとするんだ?」
「ワタシ知らないのよ。ただ生みの親じゃないってだけで母親なのは間違いないんだからね。あと、私たち精霊とあなたも義姉弟のような関係にあたるから、そこんとこ間違えないコトね。いい? 私が義姉で、アナタが義弟よ」
本当に精霊ってやつはどいつもこいつもチビのくせにプライドが高くてイヤになる。
「アナタいま失礼なこと考えてるわね?」
そしてカンが鋭くてムカつくのもみんな同じか……。
「どう? ワタシと契約したい?」
「いや、しねえ」
アプサラスは露骨にむっとした表情をみせた。
「即答したわね? ちょっとは悩みなさいよ、今のはさすがに傷ついたわ」
「何言ってんだアプサラス、にわかには信じられねえけどさ……お前の言ってることが本当なら、お前は俺たちのピンチを助けに来てくれた家族って事だろ? 家族を従者になんかできねえよ。そうなるとてくてくと父さんの関係の方がいびつに思えてくる」
「んー、イイね。満点だね。気に入ったよサナトス。ゾフィーの言った通り、いい子に育ってる。テックのバカと一緒に暮らしてるから反面教師には事欠かないのね。……じゃあ、こうしましょう。ワタシはアナタとアナタの大切な人を守る。アナタはワタシと、ワタシの家族を守る。これでいかがかしら?」
そういって右手を差し出すアプサラス。
「いいだろう。俺はお前を守るよ。ははは、ちっこいくせに俺の姉ちゃんか。じゃあ俺がお前の家族を守るのは当たり前じゃないか」
と言って半ば呆れ顔で差し出された手を取るサナトスとは対照的に、いやらしく唇を歪めてニヤリとするアプサラス。
「んー。イイねイイね。契約成立。これでもうアナタはワタシのものよ」
サナトスは握った手から何か得体のしれないモノが「ズルズルッ……」と体に染み込んでくるくるのを感じた。全身を何か冷たい粘液のようなモノが駆け巡るイヤーな感触、背筋はゾワゾワと震え始め、身体の末端が痺れる感覚に支配される。神経に異物が染み渡る違和感と同時に頭に直接響いてくるアプサラスの声……。
『居心地がいいわ。アナタもイヤな感じはしないでしょ?』
「ん、ああ、そうだな。騙されたような気もするが、意外と気分は悪くない」
『じゃあ早速ワタシの知識をアナタの脳にコピーするのよさ、ちゃんと受け取るがいいのよ』
アプサラスがそう言ってサナトスの脳に大量の情報をものすごいスピードで書き込み始めた。サナトスも頭ではまるで理解が追い付かない。
まるで氾濫した濁流のように押し寄せる情報を一人で受け止めるようなものだ。
「ああ、アプサラス……おれ眠いわ……」
『だらしないわね……寝てる間に学習するのよ……』




