07-21 柊芹香(ジュノー)★
ロザリンドが思いつめたように押し黙ってしまったので、ビアンカが心配したように話の続きを促した。
「ねえロザリンドさん、あなたと女神ジュノーとの間に何かあったの?」
何かあったのかと問われると、何かあったに違いない。
だけどそれは別に特別なことじゃない。学校に通っていると当然、気の合う人、気の合わない人というのがいて、その中でも特に意識的にキライだった人が居るというだけの話だったのかもしれない。
「えっと、お義母さんにはどう説明したらいいかなあ。うーん、日本という国には年に一度、女性から好きな男性に告白する日があって、告白の時にチョコレートっていう、とっても甘くて美味しいお菓子を贈るの」
「へ――――っ、女から告白してもはしたないとか言われないんだ――」
スヴェアベルムでは女性から愛の告白などするのはいけないこととされている。
恋愛にガツガツするような女は一生一人の男を愛することができないと言われていて、女の子たちはみんな告白以外の方法、つまりいかに意中の男性に告白させるかという事に心を砕いている。
ある者は気のある素振りをして『あなたが今わたしに告白すれば巧くいくわよ』と思わせ、ある者はお弁当を作って料理の腕前を見せたり、裁縫の腕前を見せて、己の女子力を見せつける。
だいたいどこの世界でも恋愛は女性主導で始まり、男はだいたい振り回されるばかりの結果となり、万が一女の子を泣かせるようなことをしてしまうと、その男の株は暴落するという憂き目にあう。
そんな世界、異世界お構いなしにあまり大差のない恋愛事情を誇る若い女性として、意中の男がどこかに居るのかは知らないが、なぜか食いつきのいいコーディリア。その話にはビアンカもフィービーも身を乗り出すほど興味を示している。女というのはいくつになっても甘酸っぱい恋愛話に興味があるようだ。
「それでね、うちの人に手作りのチョコレートを贈って告白した子がいたの。あのバカ、受け取らなきゃいいのに受け取っちゃって。私それで腹が立ってさ、隠してるチョコ奪って全部食べてやったの。その子が柊って子なのよね、この時えっと、11歳の頃だったかな」
「え……それちょっと酷いんじゃ……」
コーディリアはジュノーを気の毒だという。ここまでの話だとみんなそう思うだろう、女なのだから女の子の気持ちはよくわかる。むしろ柊に同情してしまうのは女として仕方のないのかもしれない。だけど話には続きがある。
「そうね、私はまだ子どもだったし、大人げなかったのも認める。確執の原因は私が作ったけど、それでもそんな事をずっと根に持ってネチネチネチネチと細かな嫌がらせをされたのよね……最終的には私がちょっとやりすぎちゃって後悔してることもあるけど、うーん、柊にはひとつも勝ったことないかな……あの子、芯が強いというか。ぶれないのよね」
あの日……きっかけは他愛のないことだった。
小6の冬休み終わりと同時に転入してきた、季節外れの転校生。それが柊芹香。
当然小学校の卒業アルバムでは集合写真に間に合わず、他校の制服を着たまま別欄で個別写真という、たった3か月ちょっとしか小学校に居なかった割には、やけに目立つ女子児童だった。
まず背がヒョロっと高い、小学6年で170ぐらいあるスマート体形なので否が応でも目立つのである。もちろんクラスじゃ一番の高身長。2番目の子と比べても10センチは高かった。だけど本人は目立つのがイヤなんだろう。地味オブ地味を狙っているとしか思えない配色を徹底している。髪留め、メガネ、手提げの鞄。筆入れからお弁当箱に至るまでシックなモノトーンで統一して、将来はアイドルじゃなくてモデルで名を売ってから女優になりますって感じだった。
ただ背が高いだけで地味ーな子。それが第一印象だった。
でも常盤美月には背が高いというだけで嫉妬する十分な理由があった。美月は150センチそこそこでもう成長が止まったのかもしれない。半年前から1ミリも伸びてないのだから。
転校してきて1カ月しかたってない2月14日、バレンタインデー。まだクラスにも馴染んでもいないいし、そんなに仲のいい友達もいないと思っていた。
それなのに柊は突然、深月にチョコレートを渡した。
アリエル・ベルセリウスの前身『嵯峨野深月』は幼馴染である常盤美月が、幼馴染補正をかけて、外見よりも性格が悪くないんだとポイントを加算し、更にひいき目に見てあげても、ちょっと冴えない男だった。
なにより弱いしチビだし、スポーツも勉強も並レベル。目立つ要素ゼロ。色に例えるとねずみ色。男版の地味オブ地味。並オブザイヤーを6年連続で受賞するような男。女の子にモテたことなんて、ただの一度もない。
学校の同級生女子たちの深月に対する評価は『6年間一緒に過ごしてきて何の魅力も感じない男』だったはずだ。なぜならみんな深月のことをよく知らないから。深月は普段こんなだけど、本当は凄いし優しい。でもそれは幼馴染の常盤美月だけが知ってることで、柊芹香は知らないはずだった。
前世の記憶を探るロザリンド。埋没した思い出の中に、いまこの現世でも関わって来ようとする柊芹香を思い出そうとする。もう恐らく、思い出すことはないと思っていた記憶のページを手繰るように。
そう、あれは小学6年生の冬。雪のちらつくバレンタインデーの翌日、教室の檻で囲まれた石油ストーブに張り付いてかじかむ手を暖めていると、いきなり後ろから肩を掴まれて強引に振り向かされたんだった。
「ねえ私が嵯峨野にあげたチョコ、あなたが食べたって聞いたんだけど?」
上から目線。
20センチの身長差、見下ろされてるように感じて、柊の表情はとても冷たく感じた。
たったそれだけの事で、殴られたようなショックだった。
もちろん柊にはそんなつもりはなかったのだろう、美月は上から見下されて、まるでバカにされているようにも感じたせいか、本来なら謝らなきゃいけないような場面で反発したような言葉を返してしまった。
「うん。ごちそうさま。美味しかったわ」
ニコッと笑顔を作って、そう言い返せた。美月は我ながらイヤな女だと思った。
こめかみ辺りが引き攣っていなければいいけど……。
だけどなんで柊がそんなこと知ってるのだろう? 深月が柊に言うわけないから、タイセーのバカがタレ込んだとしか思えない。
タイセーは後で〆てやるとして、謝るチャンスを棒に振った美月にはもう、ケンカするしか手が残っていなかったのかもしれない。
柊は当たり前のことを、まるで幼稚園児にでも言い聞かせるように言った。
「そういう事いってない。私はあなたに食べてもらいたくてチョコ作ったわけじゃないんだからさ」
「深月のものを私がどうしようとあなたに文句を言われる筋合いなんてないから。チョコ食べてしまった代わりに私もチョコ買ってあげたわよ。それでいいじゃん」
勝った……と思った。言い負かしてやったと、そう思った。
でも柊は悔しそうにするでもなく、怒るでもなく、ただ、少し寂しそうな顔をしただけ。
なんだかモヤモヤする爽快感とは逆の感情だけが残った。
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それからしばらくして家庭科の調理実習で珍しく柊が話しかけてきた。
「ねえ常盤、調理実習って女の子のレベルが分かるのよ。あなたの料理は女としてどうかと思うわ。なにそれ? 鍋の中がドブにしか見えない。恋愛とか結婚とか諦めた方がいいと思う。あなたのようなガサツな女には木刀が似合ってるわ」
「なっ、あなたの料理を見せてみなさいよ」
柊のテーブルには皿に盛りつけられた料理があって、手際よく完ぺきに仕上げられたのだろう、見た目からして小学生の家庭科レベルじゃなあない。
「どうぞ。食べてみる? あなたのお口に合うかは分からないけれど、ちょっと自信あるんだ」
「い……要らないわよ」
美月は驚いた。傷ついたとかそんなんじゃなくて、びっくりしたとしか表現しようがなかった。バレンタインデーから数日後の調理実習で言われた言葉がこれだった。
少女漫画でいう悪役を地で行く意地悪な姑のような女子小学生を初めて見たのだから。
それからも柊との冷戦は続いた。
幾度となく、事あるごとに細かいことで嫌味なことを言われ続けた。
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その年、小学校を卒業し、美月たちはみんな小学校の隣に併設された中学校に上がり、1年も終わりに近づいた翌年の冬、去年からロクに接点のなかったはずの深月に、また柊がチョコをあげたという話を聞いて正直驚いた。
中学生にもなると男子の間ではそろそろ下剋上が起こって、身体が大きくなって身体能力の上がる生徒が、小学生時代モテてた秀才タイプを抑えて女の子の視線を奪ってゆくという、そんな時期だというのに、こんな弱っちくて冴えないまま中学生に上がって黒の詰襟の制服がブカブカで、服の中で泳げるんじゃないかってほど小さく見える深月のことをまだ好きでいる事実に驚いた。
本当は深月のことなんてどうでもよくて、こっちに嫌がらせをしてるんじゃないか? と疑っていたのを覚えてる。
「深月ぃ! 今年ももらったんでしょ? 出しなさい」
「え? 何のことだよ?」
「今年も柊からチョコもらったんでしょ? それを出せって言ってるの」
その年も柊からのチョコは私が全部食べてやった。
ひと欠片も残さずぜんぶ食べてやった。
「ざまあないわね!」
なんて勝ち誇ってはみたけど、要するに不意打ちを食らわされたのが腹立っただけ。
柊のチョコは……相変わらず手作りで……美味しかった。自分も『今年こそは』と挑戦してみたけど鍋ごとダメにしちゃって母さんに怒られただけ……。
まさかチョコがコゲるだなんて思ってなかった。
バレンタインデーの翌日、2月15日の朝、教室で会った柊に言ってやった。
「あ、柊おはよう。ありがとうねぇ。チョコ美味しかったわ。ごちそうさま」
「常盤……あなた本当に幼稚よね。なんだかお気の毒さまとしか言いようがないわ」
イラっとした。瞬間的に頭に血が上ったのを覚えてる。
柊のこういう、人を見下したような物言いが嫌いだった。
美月が柊のチョコを食べて、それを『おいしかったわ』と報告したのは、バレンタインデーの夜、柊が帰ったあと、深月の家に押しかけて奪ってやったということを言いたかった。お前がいくらチョコ贈ろうとも深月ではなく、自分が食べることになるんだから、それが嫌ならもうチョコを贈らないほうがいいぞと、そう言いたかったのだ。
柊にはない幼馴染という親しさを見せつけてやって、勝ち誇りたかった。美月は我ながら卑怯だと思った。だけど柊は美人だし背が高くてスマートだし頭もいいし、勉強もできるし……。わざわざ人の物に手を出さなくても、ほかにいくらでもいい男が居るのにと、そりゃあそう思う。
柊を相手にして勝ち目なんかないことは分かっていた。
2軒隣に住んでいるという幼馴染のアドバンテージを持ち出すしかなかった。
「何よ、いっつも人を見下したように上から目線でさ」
「それが気に入らないならそう言えばいいじゃない。確かにそうね。私はあなたがキライだし、私が嵯峨野にあげたチョコを横から奪って食べるようなことをするからバカにされてる。人の気持ちって考えたことあるの? 私は嵯峨野に食べてほしくて心を込めて作ったの。それを横から奪って食べるだなんて。さぞ美味しかったでしょうね、どういたしまして。来年もまた懲りずに作るけどあなたにはもう食べてほしくないわ。それと一つ言わせてほしいのだけど、上から目線って言うのは言いがかりよ。あなたみたいなチンチクリン、誰でも上から目線に見えるでしょ。努力が足りないあなたにアドバイスしてあげるわ。せめて椅子の上に立ちなさいな!」
「……あなたのそういいう所がムカつくの。もう関わらないでもらえるかな?」
「あら、珍しく気が合うわね。私もあなたとは関わりたくないの。お願いだから邪魔しないで、どうせあなたはあの人のもとを去ってゆく。そしてあの人の心を深く傷つけてしまう。私はそんなあなたが大嫌い。早めに手を引いてくれたらうれしいわ」
「……知った風な口を。ムカつくわ。その綺麗な顔をボコボコにしてやろうか?」
「頭の悪い子。できるものならやってみなさいな。闇討ちにするならまだしも、これだけ人目のある場所でそんな凄まれてもね。できないことは言わない方がいいわ」
闇討ち?……闇討ちって言った?
ガヤガヤと騒がしかった教室が一瞬でしんとなった。ものすごく空気が悪い。
聞こえた? いいえ、そんな大きな声で言い合ってない。
バレンタインデーの翌日だった。チョコをくれた柊と、それを食べてしまった女がモメてるとなると話の内容は分からなくても、当の本人には察して余りあるのだろう。深月が仲裁に入ってきた。
「柊さんごめん。俺が悪かったよ。美月も、もうやめよう」
「あなたがそういうのなら」
そういって柊はあっさり引き下がると、少し寂しそうな表情でぷいっと踵を返してそのまま教室を出て行ってしまった。振り返りもせず、扉を乱暴に閉めるでもなく、音もなく、行儀よくスッと引き戸を閉じた。
今年もチョコを食べてやったことで勝ち誇ったつもりだったのに、また負けた。
柊の背中を見送りながら、涙がちょちょ切れんばかりの悔しさに歯噛みした。
そうだ。
常盤美月と柊芹香がケンカになったら、間に挟まれた深月は幼馴染の自分に味方する。仲裁に入った深月の言葉はそういう意味だった。よくよく考えてみたら柊は当の深月に対しては一貫して『イイ女』を貫いてる。
本当にイライラする……。
その日のうち廊下の端っこ、美術室と理科室のある人気のない階段で柊とすれ違ったので、言わなくてもいい言葉を投げつけてしまった。
「何よ、深月にだけイイ女ぶっちゃってさ。私はあなたのそんな二面性が大嫌い」
「そうよ、よく分かってるじゃないの。あなたの言う通り私は嵯峨野だけが好き。あの人にだけイイ女だって思われたい。他はどうだっていいのよ、もちろんあなたの事もね。ところで二面性って何? あなた私に八方美人を求めてるの?」
唖然となった。
自分はみんなに好かれたいと思っている。もちろん心のどこかで柊とも仲直り出来たらいいのになぐらいに考えていた。それがどうだ、柊は最初から深月しか見ていなかった。他人の目なんてまるでどうでもいいと言い、深月にだけイイ女だと思われたいと言った。
柊は強い。日ごろから剣道で鍛えた美月の精神力を軽く凌駕するほどに強い。 美月はそんな柊に何も言い返すことができず、また敗北感を味わうことになった。
柊は本気だ。
本気で自分から深月を奪おうとしている。自分のほうが先に好きになったのに、自分しか知らない深月のいいところ、誰にもバレてないと思ったのに……。
人は敵が自分よりも強くて勝ち目がないと思ったらヒステリーを起こすんだそうだ。
知っていた。もうとっくに知っていたことだ。自分はどんなに強がっても柊に勝てないからヒステリーを起こしてる。
いつか深月が柊のその一途な気持ちにほだされ、自分よりも柊を選んでしまうんじゃないかと思ってる。
深月の優しさが自分じゃなく、柊に向かうことが怖い。
だって柊は美人だし、スマートだし、頭がいいし、料理もうまいし……。
それに、好きな男に尽くすその一途さには何か病的な執着すら感じられた。
あんなにもはっきりと、深月のことだけが好きだといった。
深月にだけイイ女だと思われたいといった。自分にはそんな発想すらなかった。
深呼吸をして考えてみる。自分はどうなのか。
八方美人でありたいと思う。願わくば、深月だけじゃなく、誰からも好かれたいとそう願う自分がどこかにいる。深月に向かう姿勢からして柊は凄い。あれほどの美人が本気になって深月にアタックしている。
柊のほうが自分よりもイイ女だから、きっと深月もそう思うに決まってる。
自分は柊と比べてるとイイところがなく、誰が見ても劣っているからこそ、きっと深月も柊のほうがいいに決まってる。
どんなに頑張っても美人にはなれない。スマートな高身長も手に入らない。だからこそ妬ましい。
自分の方が先に見つけたのに、先に好きになったのに、後からきた柊に、きっとあのひとを取られてしまう。
何よりも女としての魅力で負けていることを直感していて、自分から最愛の人を奪おうとする柊芹香を誰よりも恐れた。
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深月と柊が同じクラスになったのは小6と中1。その後高校に進学してからは3年間ずっと一緒だったけれど。
でも自分はといえば、あの柊と小6から中学3年間までずっと同じクラスという地獄を味わった。調理実習が近づいて来たら、そのストレスで禿げる思い。健康だけが取り柄で風邪もひいたことがなかったのに、原因不明の高熱を出して学校休んだのは後にも先にも調理実習のあった日だけ。
柊のプレッシャーったら半端ない。
何しろふてぶてしさでは定評があった(はずの)常盤美月が、あの柊の視線に耐えられず、包丁を持ったほうの指を切ってしまうほどだった。
進学にしてもそうだ。柊の成績ならゆうに地区ナンバーワンの進学校に行けるはずなのに、高校はレベルを何段も下げて深月と同じ、一番近くて自転車で通学できる高校を選んだ。偏差値も並の下。つまり美月やタイセーと同レベルにまで下げるだなんて考えられない。高校の入学式の日、新入生代表の挨拶に選ばれたけど謹んで辞退したというハイスペックだった。
てくてくに見せてもらった記憶。記憶にない記憶。
前世では18歳で事故に遭って死んだのに、大人になった姿が記憶として残っていた。
その記憶では、自分は深月と付き合っていた。幼馴染ではあったが、恋人同士でもあり、男女の仲でもあった。このままいくと結婚するんだろうなと思っていた。
自分は深月のことを愛していたし、深月も自分のことを愛してくれていると思っていて、疑う要素何て何もなかった。
だけど、ある日を境に深月は笑わなくなった。
休みになると気晴らしに行ってくるとか言って、ひとりで旅行することが多くなった。
部屋にいる時間も少なくなってしまって、自分と連絡も怠るようになって約1年ほどたっただろうか。近くを通ったので、事前連絡をせずマンションの部屋にいくと……男女二人が扉の前にいて、たったいま部屋から出てきたとこなのだろう、戸締りをする深月の姿があった。
深月のとなりには女の人がいて……、そのひとの顔を見た途端に涙が溢れてきた。
「なんで柊と一緒にいるの!!!!」
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「うわあ、それ修羅場よね……」
自分たちに降りかかると地獄だが、他人の修羅場は蜜の味ともいう。女子たちは大好物なのだろう、ビアンカやオフィーリアまでが真剣に聞き入ってる。
そこから先はもう深月なんて空気で、完全に柊が仕切ってて、自分か柊のどちらかを選べと言っても、当の深月は何も言わずただ座って、事の推移を見守ってて、柊には「自分たちの問題だ」なんて言われた。
自分か柊のどちらかを選べと二択を突き付けて、自分を選んでもらえるとは思っていなかったけれど、どちらも選ぶことなく、何も答えてくれなかったのは、きっとその場で柊を選びづらかったのだと思って身を引いたのだ……。
オフィーリアの視線が慌ただしく動いた。
その視線に応えたのはフィービーだった。なにか二人で目配せしていて落ち着かない。
前世かそれ以前の話なのに……。
「あの、ちょっといいですか? それって……」
オフィーリアがなんだか申し訳なさそうに問うた。
「ああ、私が別れを切り出した形ですけど、完全に振られてますよね」
「いえ、それってもしかして、側室に入るときの決め事なのでは?」
側室、つまり妾さん。二号さん、三号さんだ。
「側室? 誰が?」
そういったロザリンドがこの場にいる全員の視線の中心にいた。
「ええっ? もしかして私が?」
オフィーリア、フィービーのみならず、ビアンカやパシテーまでもが大きくうんうんと頷いた。
この部屋の中にいる女たちの中で『側室』はオフィーリアだけ。
「そうですね、正室がいれば正室が。正室が亡くなっていれば序列上位の者と話をするのが古来からのしきたりです。その時、夫は同席しますが、話が終わるか妻の許しがあるまで一言も話すことはできません」
「どんな話をするの? ちょっと興味があるんですが……」
「最初に序列だけは絶対だと言われます、すでに子どもが居るならその子たちも自分が産んだ子も変わりなく愛情を注ぐことも約束ですね。あと細かいことは家のしきたりによって様々ですが、とにかく一夫多妻の家庭では妻の序列は絶対ですし、序列に対して夫は口を出すことはできません。一番最初の奥さんが許さなければ側室に入ることが許されないですからね、どんな条件を出されてもそれを飲む必要があります」
これは第一の妻、第二の妻、第三の妻と、あとからあとから若くて新しい妻が家族に追加されることで、年をとってしまった年上の妻たちの権利を保障するためだという。
前世、一夫一婦制しか知らなかったロザリンドも、アルデール家も5人の妻がいるし、兄であり魔王でもあるフランシスコにも4人の妻がいる。ただ魔人族の場合はルビスを生んだ女が偉いことになっているので、ヒト族の一夫多妻とは多少事情が違うのだけど……。
柊はあの時、もしかすると自分を側室にする計画をしていたのかもしれない。
ロザリンドは拳を握り締めた!
「そっか! いま日本に帰れば私の方が序列上よね! 私が1番、パシテー2番、そんで柊は3番目でよければ考えてあげてもいいわ! 頭下げてお願いするならね!」
「姉さまの事だからきっとそう考えると思っていたの」
「そして二度と深月の記憶を消すなって言うよ。だって私、忘れられたくないんだ……」
ロザリンドの口をついてこぼれた言葉。それは心の底から出てきた本音そのものだった。
「だってさ、この世界でこのまま死んでしまったら簡単に忘れられてしまうのかなって思うと不安だよ。アリエルは死んでも死んでも、きっと何度でも転生して、また生きるってことよね? 私は忘れられたくないな。生まれ変わっても、ずっと覚えててほしいよ」
「うんうん、姉さま……私も忘れられたくないの」
涙目になって訴えるロザリンド。パシテーもなんだかしんみりしてしまった。
ロザリンドとパシテーにとって、アリエルが何度も転生するんじゃないかってことはもう共通認識として確立している。でもいまこうして愛し合った自分たちをキレイさっぱりと忘れて、来世でまたほかの女性に愛を囁いたり、抱き合ったりするのかと考えると寂しいを通り越してなんだか悲しくなってくる。
他の誰に忘れられてもかまわない。だけどアリエルにだけは『あなたを愛したひとりの女』として、記憶にとどめていてほしいと、心からそう願う。
アリエルの記憶はジュノーが消すって言ってた。
ってことはジュノーさえ何とかすれば、アリエルは死んでも思い出は残るはずだ。
カラ元気も元気という。
これっぽっちも勝ち目がないことを知りながら、それでも記憶を消されたくないとの一心で何としてもニホンに帰りたくなった。
コーディリアは言う。
「結婚の女神ジュノーを差し置いて序列上かあ、ははは、それもなんだかすごいよね。私は結婚するとしても教会式はイヤだと思ってるんだけど、ねえロザリンドさん、話を聞いてると本当にジュノーって美人っぽいのだけど、そんなにイイ女なの?」
「イイ女よ。どんなに頑張っても勝ち目がないと思わせられるほどのイイ女……。でも私はアリエルの記憶を消してるというジュノーの行動が不愉快です。記憶さえ消されなければ、アリエルはいつか必ずゾフィーを助け出すし、私たちのことも忘れない。アリエルから私の記憶を消されるのだけは我慢できない。私は自分の存在を賭けてジュノーに挑むよ。記憶を消したりなんて女神を相手に脳筋の私がどうにかできるなんて思えないんだけどさ」
ロザリンドは出口のない迷宮のような思いの果てに、ひとつの解を導き出し、ビアンカから「がんばって、私は忘れないから」と応援の言葉をもらった。
ロザリンドはもやもやが吹っ切れたように少し笑顔をみせたあと「ちょっとアリエルの顔みてきますね」と言って庭に出た。
その表情の清々しさからアリエルが何か察したのだろう。
傍に行くと、無言で木刀が手渡された。
そうだ。ロザリンドにいま必要なことは『気晴らし』なんだということぐらい、アリエルにはお見通しだった。
「どんな話をしたんだ?」
「とりあえず柊に会って話をしたい。お願いもあるし。必要なら倒す」
「そうか。じゃあ3年後の勇者召喚に合わせて帝国に行くのは変わらないな。日本に帰ろう」
アリエルはそういって笑った。
「ねえ、いまの私を見てどう思う? 調子いいんだ。剣の振りも軽いし、体もよく動いてる。ジュノーと戦って勝てそう?」
「だれが?」
「私に決まってんじゃん」
「ジュノーは敵じゃないぞ?」
「じゃあ練習試合の立ち合いとして! 私に勝ち目ある?」
「んー、ロザリンドの剣が仮に音を置き去りにして衝撃波を生むマッハ2を記録したとして、その速度は秒速700メートルぐらいか。キロメートルに換算すると0.7キロメートルといったところだな。対してジュノーは光。秒速30万キロメートルの攻撃を放ってくる。1秒で地球を7周半もするスピードなんだが……、それがどういう意味か分かるか? 網膜にジュノーの攻撃が映ったとき、もうその攻撃を受けてるということなんだけど……。そんなものとどうやって戦うんだ?」
「気合で!」
「そうか、じゃあもうちょっと頑張ろうか」
「うん。絶対勝つからね」




