07-08 ゾフィー・カサブランカ
アリエルが名を呼ぶとゾフィーは応えた。
「ハーイ、姿は変わっても奇麗なマナの色……変わらないわねベル。……会いたかったよ」
耳から入って鼓膜を震わせ、心に染み渡る声だ、間違いない。ゾフィーだ。
「何がハーイ!だ何が、お前どれだけ心配したと……」
「ジュノーったら何してるんだか。ちゃんと記憶を消すように言ってあるのに。ホントいつまでたっても頼りないんだから。……でも、あなたに会えた。あのドジに感謝しないとね」
ゾフィーに手を伸ばすと、手と手が触れ合う……。でも触れた感触がない。
そうか、ゾフィーはここには居ないらしい。立体映像? 転移魔法陣に投影しているのか。
「この子は? あなたの今の奥さん?」
ゾフィーはパシテーを見て紹介を求めた。何度もパシテーとこの道を通ってきたのだから覚えているのだろう。
「ゾフィー、こちらパシテー、パシテー、こちらゾフィーだ。今の奥さんは家で留守番してるよ。パシテーはまあ、近々嫁にもらう」
「初めましてパシテー。ゾフィーです。ベルフェゴールの元妻で、今は……そうね、オバケみたいなものよ。よろしくね」
「元ってなんだよ元って。離縁した覚えはないぞ? まったく、そんなことよりもゾフィー……、お前、今どこにいるんだ? ずっと、ずっと探してたんだ。どれだけ探したかお前は……」
「ごめんなさい。一緒に死ねなくて本当にごめんなさい……あれから私は囚われてしまったの。今さらあなたの前に姿を見せる気はなかったのだけれど、あまりに近く、あまりの遠さに我慢できなくて……」
「なるほど、死ななかった! ってことは無事だったのか! 囚われた?……どこに? どこにだ?」
「ここがどこか私にもわからないの。きっとものすごく遠い別の次元。時間も流れてないから、きっと時間凍結されたのね。私はもうダメ。記憶を消して私のことは忘れるの。パシテーさんと今の奥さんを大切にしてあげて。私はあなたがここを通るとき、ちょっとだけあなたを感じることができる。それだけで私は幸せだもの」
「待て、記憶を消す? ジュノーがそんなことしてんのか? どういうことだ?」
「あら? 何のこと? 私そんなこと言ってないわよ?……」
「しらを切るんだな。よし、絶対にお前を見つけ出して吐かせてやるとしよう」
「無理よ。あなたは何万年かけても私を見つけることなんて出来ないの。今の家族を巻き込まないで。幸せにしてあげるの。わかった?」
ゾフィーは人差し指を1本立てて絶対無理という。それは挑発でしかない。アリエルはそう言われたらいつも反発する。絶対無理でも諦めないがアリエルだ。
「今の家族を幸せにしながら探すからお前は何も心配しなくていい。ゾフィー、なんだか薄くなってきたぞ? あとどれぐらい話せる?」
「もうそろそろダメかな。5年に一度くらい大量に魔導結晶使ってくれるお得意様がいてさ、その余剰マナを横からちょろまかして今話してるから。もしかすると5年に一度、少しだけなら話せるかもね。それも確実じゃないけど」
アリエルは少し焦った。もう時間がない。
「なんでもいいから手がかりをくれ。絶対に探し出すから」
「無理よ。教えてあげない。私の事は諦めて幸せな人生を送って。可愛いわねパシテー。べルに触れてもらえるなんて……なんだか妬けるわ」
「ゾフィー。兄さまは絶対に諦めないし、探すなと言われても絶対探すの。そんなことも分からないなんて元妻も大したことないの」
「……っ。びっくり、ひっどーい。イケズな子。まるでジュノーみたい。でもそうね。じゃあ分かってることだけ。囚われる前に誰かが言った『無限回廊』という言葉を覚えてる。たぶん転移魔法ね。だからその回廊の門を開けることが出来るのは私だけ。その私が時間を止められているの。ここまで言うと分かるわね。もしもあなたが那由他分の一の確率を拾って私を見つけることができたとしても、時間を凍結されてるような結界には誰も手出しできないわ。私の力は知ってるわね? 覚えてないならゆっくり思い出して。もう万策尽きてるの」
なんだかゾフィーの存在が急激に薄くなってきた。どんどん透明になっていく……。
「俺は絶対にお前を見つけて助け出す。必ず! 約束する! 絶対なんだ!!」
「ありがとうベル。あなたに会えてよかった。もう会えないと思ってたから。でも私は過去。ただ過去を忘れられない、かつて幸せだったというだけの女。私は思い出の中で生きるわ。あなたは今の奥さんを大切にね……どうか幸せに」
ゾフィーが消えてしまうことが怖い。冷静さを失ってしまって、どうすればいいのか分からなくなったけど、ゾフィーをこの場に繋ぎ止めておきたいと強く願った。もうどうにもならないのか。手がかりは? もう何もないのか?
「いやだゾフィー、消えちゃダメだ。もっと話を……消えないでくれ!」
「ああ……私のベルフェゴール、愛してるわ。ずっと…………」
「ゾフィーぃぃ!」
二人が抱き合った刹那、ゾフィーの身体は光の粒子にかわり、弾けた。アリエルが抱いたのは空虚だけだった。さっきまでゾフィーだった光が空気に溶けて、薄まり、少しずつ消えていく。
起動していた多重魔法陣も光を失って消えてしまった。この空間には音もなく、空気に溶ける魔気だけがさっきまでここにゾフィーが居たことを克明に記憶していて、空気中に浮遊するホコリの一粒一粒ですらステンドグラスから注がれる色とりどりの光が、束の間の再会と、そして別離を演出するように、キラキラと儚く輝き、ゾフィーの存在は広く広く薄くなってゆく。
だけど空間には温かい母のように柔らかい匂いが流れていた。
パシテーもドロシーもレダも。みんな沈黙し、誰も口を開こうとはしない。
アリエルはその場で両腕を広げ、光の粒子が消えてしまっても、目を閉じて深呼吸をしていた。
ゆっくりと、吸って、吐いて。今確かにゾフィーが存在していたこの空間の空気を体内に取り込むように、目を閉じて深呼吸をしている。
「はあっ……遅くなるからさ、そろそろ行こうか」
気を取り直して皆で手をつなぎ、転移魔法陣に足をかけて上がろうとするけれど、誰も一歩目が踏み出せず、顔を見合わせるばかり。まあ、いま自称オバケのゾフィーが出てきた石板なのだから、足蹴にするなんて気が引けるのも分かるのだけれど。
「大丈夫だよ。この下にゾフィーが居るわけじゃないからさ」
「そ、それもそうなの」
ドロシーとレダは仏教徒でもないのに手を合わせてから転移魔法陣に立った。
パシテーもなにか申し訳なさそうに遠慮して踏みアリエルもどこか土足で踏むのが気の毒になって靴を脱いだりするものだから、みんな改めて靴を脱いだりしてる。
何なんだこの変にこわばった空気は。
「飛ぶからね。いいね?」
全員が転移魔法陣に乗っかったのを確認すると多重魔法陣が起動し、光の中あっけなくいつものように空間転移を完了した。今回は記憶のフラッシュバックもなし。ちょっと期待してたんだけど、多少は自力でなんとかしないとダメってことか。
「ごめんな、せっかく喜びの瞬間なのに俺のせいでしんみりさせてしまったね」
「いえ、私が囚われの身だったのはたったの6年だけど、ゾフィーさんの気持ち、少しだけ分かるから。私が言うのも何ですが、ゾフィーさんが見つかるのを祈ってます」
無事に転移した先はアスラ神殿。転移魔法陣の石板を降りると、入り口にある供物台には誰かが木の実や穀物を供えられていた。昨日のうちに村の誰かが来てくれたのだろう。
「アスラ!」
柱の陰からアスラが顔を出すとレダのすぐ横にくっつくように纏わりついた。
「お母さん、アスラは私の友達なの」
「まあ、一日に二柱の精霊さまを見たらとてもいいことがあるって言うわね」
「兄さまはもういいことあったの」
「そうでしたね。私はこれからかな? 早く孫の顔が見たいわ」
「テックのマスター……とてもいい匂いがするわさ。レダからも少し」
アスラはアリエルたち一行がゾフィーと会ったのを看破した。確かに空気の匂いが変わった。いい匂いだった。とても安穏とした、ゆるーい空気感を醸す、眠気を誘うようなゾフィーの髪の匂い、うなじの匂いとでも言おうか。いや、言葉では表現できない。アスラたち精霊は、転移魔法陣に住んでいて、常にゾフィーとともにあった。そしてゾフィーの存在感をアスラは『匂い』と言ったんだ。
岩山から細い参道を足もとに注意しながら一段ずつ降り、いつもの虫イベントを消化して村につくと子どもを抱いたセキと、その傍らに若いエルフ青年。村長のタキビさんと、村の奥からちょうどタレスさんが走ってくるところだった。
「うわあああ、ドロシー、ドロシー。よかった、ドロシー」
「レダ、さようならだな。俺たちはもうこれで帰るよ。ちょっと忙しくなったしさ、また会おう。みんなによろしく言っといてな……。アスラ、レダは魔法の才能があるから、マナの微調節を教えてやってほしい。マナ欠しちゃってさ、ぶっ倒れて大変だったんだ」
「あらら、マナ欠しちゃったのね。ホントにどんくさい子だわさ。ねえテックのマスター、あなたからはゾフィーの匂いがする。とてもいい匂い。私をレダを会せてくれてありがとうね。感謝するわ」
アリエルは黙ってアスラの頭を撫でてやった。
フェアル村長のタキビさんがこっちに駆け寄ろうとうするのをを掌で制止し、アリエルはパシテーの手を取って花びらと共にその場を去った。
「パシテーごめんな、俺が居たらせっかくの再会がお通夜みたいになっちまう」
「ん」
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タキビはアリエルが逃げるように去ったのを見て残念そうに空を見送った。
「ああっ、アリエルさんたち行ってしまった。お礼も言えてないのに」
タレスはせっかく帰ってきた妻と抱き合ったあと、ずーっと謝り通しだった。
「ドロシーごめんよ。俺は何もできなかった……」
「ううん。あなたは立派に娘たちを守ってくれたわ」
「いやそれは、アリエルさんたちが……」
「いいえ。あなたの立ち振る舞いが神を動かしたと考えるべきよ。これは神のおかげ。あなたも神に感謝して」
「どうしたんだドロシー、おまえ神なんて信じてなかったろう?」
「信じるも何も、神はいるわ。この世界はね、まだ捨てたもんじゃないの」
「そうだな……捨てたもんじゃないな」
お互いを確かめ合うように何度もハグし合い、夫婦は繋いだ手を離そうとしなかった。
「セキー、この子が私の孫?」
ドロシーは孫のミツキを抱くと、感動と、そして解放され、もう会えないと思っていた家族のもとに帰ってきた安堵の涙がとめどなくこぼれた。
「母さん、この子ね、ミツキっていうの。アリエルさんの奥さんの真名をもらったの。夜を優しく照らしてくれる綺麗な月っていう意味。なんだか素敵でしょ? 名前負けしないように育てないとね」
「ミツキちゃんねー。ちょっとだけなら名前負けしてもいいわよ。あの人レベルのお転婆になると国が滅ぶわ」
ドロシーは涙声になりながらも皮肉を言うことを忘れなかったけれど、アリエルのことを神だと言い、これまで神なんてものの存在自体を信じていなかったのを戒め、精霊にも、森にも敬意を払うようになった。そしてドロシーがフェアルの村に受け入れられた夜、ささやかだけど、アスラを歓迎する宴が催された。
ドロシーは夫タレス、セキ、レダが遠く離れた見ず知らずの村でとても大切にされていることを知ると恩を返すと宣言し、弓を持っては凄腕の狩人として、剣を持っては村を守る剣士として自警団に志願し、村最高の戦士を圧倒する剣力を見せつけた。
まるで『大きいレダ』と称され、『この親にしてこの子あり』を地で行く母娘を見る村人たちの眼は暖かく、ドロシーが村に馴染むのに時間はかからなかった。




