05-11 ひとつの時代の終焉
てくてくは、今にも命の炎が燃え尽きてしまいそうなフォーマルハウトを感慨深げに、ただ見つめている。この男は てくてくから何もかも奪って行った。
―――― 千年前の惨劇が、千年経っても忘れられない虐殺が脳裏に浮かぶ。
木々が芽吹き始めた頃だというのに、名残雪がしんしんと降り積もるメルドの村で、何の前触れもなく惨劇は突然始まった。
最初は道行く人が。次に悲鳴を聞いて駆けつけてくれた人たちが次々と倒されていく。
倒れた者を救助しようと飛び込んだエルフの戦士たちも皆倒された。どこから放たれたか分からない風魔法の遠隔攻撃によって。
まさかマスターの留守を狙って、魔法を使う盗賊団のような輩が村を襲うなど考えてもみなかった。
精霊テックは風の守護者。村人が襲われている矢面に立ち、風の防護障壁を展開すると、待ってましたとばかりに襲撃者は姿を現した。
「なんと、精霊が狂ったか。メルドの民よ、このフォーマルハウトが来たからにはもう安心である。負傷者の救護を。狂った精霊は我が引き受ける!」
そこから先は風しか使えない精霊と、剣に、指輪に、魔導書に精霊を宿らせた炎術師の戦い。
フォーマルハウトは村人たちの前に出ると火の魔法しか使わずに戦ったことで、誰が見ても村を襲った襲撃犯はテックのように見えた。
フォーマルハウトに騙された村人たちも、村の戦士たちも連携してテックを攻撃し始める。
メルドの民は、村人を守るために飛び出してきたテックに憎しみの言葉を投げつけ、肉親を殺された恨みを叩きつけた。
「マスター、早く帰ってきて、アタシ……アタシ……」
テックは村を追われると、ゾフィーの神殿があるドルメイの山に逃れ、村には一時の平穏が訪れた。
風の魔法が直撃し命を落とした者は30名にものぼり、重軽傷者も20名ほどという、赤子から老人まで村人全員合わせても170名程度のメルドとしては大虐殺と言っていい。
ほどなくして隣のウェルフの村へ出ていた風使いアリエルが村に戻ると、通りや広場には死人や負傷者が溢れていた。
「……ボクが居ない間に何があったの?」
「お前の精霊が村を襲った」
「お前の精霊が妻を殺した……。妻を返してくれ。妻を」
「お前の精霊が子供たちを殺したんだ、見ろ! どうしてくれるんだ!」
「お前の精霊が妹を……」
「お前が……お前が……」
愛する肉親を殺された者の怨みは、精霊使いであるアリエルに向けられた。手厚く精霊を信仰する村であっても、何の罪もない肉親を無碍に殺されてしまって、ただ運命を受け入れるなどということはない。
人の考えうる最も酷い罵倒を吐かれ、精霊使いアリエルは、責任の重大さをその小さな双肩に抱え込み、この生まれ故郷の村では呼吸をすることすらできないほどの責め苦を受けた。
1000年を生きるエルフ族の長老、ノーデンリヒトのフォーマルハウトが偶然通りかかり、メルドを救ったのだと言う。
「風使いアリエルよ、お前が留守の間に精霊が悪事を働き、ドルメイの山に逃げ込んだ。お主にも責任があろう。ついてくるがよい」
風使いアリエルには信じられなかった。
あれほど優しくて人懐っこいテックがそんなことするわけがない。自分が村を留守にしている間に、いったい何があってこんな悲劇が起こったのか。もう一度テックにあって、話を聞きたかった。
風使いアリエルは、この期に及んでもテックのことを信じて疑わなかった。絶対なにかの間違いだと。それを証明するため、フォーマルハウトに言われるまま、ドルメイの山を登った。
ゾフィーの神殿を超えてさらに上ると、しんしんと降り積もる名残雪が、強風に舞う吹雪となり、不自然に吹きすさぶようになった。
「テック! ねえテック!!」
尾根を縦走し、景色が開けるとここはドルメイの圏谷、ただ雪が強く降っていたのを風の魔法で吹雪に変えて襲撃者を迎え撃つは精霊テック。
精霊テックが近くに居ることを感じ、一歩、二歩と迂闊に前に出るアリエル。テックを呼ぶ声が悲痛な叫びになっても、テックの名を呼び続けた。
キラリと緑色の光が見えた、テックの姿を視認すると、フォーマルハウトはテックを信じて追ってきた少女の背後から、卑劣にも冷水を浴びせかけた。
ほぼ無風だったドルメイの山に超低温の吹雪で威嚇していたテックは、その強大な魔力を逆手に取られたのだ。
「ああっ、マスター……マスター!」
少女は急激に体温を奪われ、肌は凍り付き、そして胸を打つ心臓は急激な体温低下によるショックで鼓動を止めた。
プツン……
『いけない!』と思った刹那、少女との誓約の糸が切れてしまった……。
少女はたったいま……、明確に、ここで命を落としたのだ。
少女はたったいま……、紛れもなく、ここで死んでしまったのだ。
テックは愕然として膝から崩れ落ちてしまう。
この男に……大切なものをすべて奪われてしまった。
ゆっくりと近付いてくる黒い影が、いやらしく曲がった口元で言い放つ。
「くくくく……風の精霊テックよ、我に仕えよ。契約を結び、命尽きるまで我が僕となれ」
「断る! アンタだけは絶対に許さない!」
精霊の目から涙がこぼれた。自慢だった美しい金色のマナが変質しはじめ、やがて黒い涙となって頬を伝うと、黒く澱んだマナがとめどなく波のように流出するのを止められなくなった。
テックの思惑とは無関係に、怒りと悲しみが混ざったような暗い色をした、おびただしい量の絶望がフォーマルハウトに襲い掛かる。
フォーマルハウトは右に左にイグニスを振り、ファイアウォールを立ち上げ防戦し、更には土精霊アスラの宿るリングを駆使して反撃を試みるが、テックのマナ量が膨大で対処のしようがなく、徐々に手数でも圧倒され始めた。
どんどん暗くなっていく闇。マナは重みを増し、地面を水のように流れて、表面からは闇の触手がいくつも発現し、意思を持ったような動きでフォーマルハウトを追い込む。
風を操る、軽い金色のマナは暴走し、黒く澱んだ瘴気に変質してしまった。
この強敵を、大好きだった友達を殺したこの男を倒すため、テックもまた命を懸けたのだ。
「チィ……、追い込み過ぎて壊れたか。瘴気を出してしまったら使い物にならんではないか。口惜しいが風は諦めるしかないな」
テックのマナが暴走してしまった事を確認すると、あれほど欲していたテックから急激に興味を失ってしまったように、フォーマルハウトは一目散に下山してしまった。
以降、襲撃者はドラゴンの討伐を頼まれても様々な理由をつけ、二度とドルメイの山を訪れることはなかった。
フォーマルハウトが撤退してからも、テックは倒れた少女の傍らから動こうとはしなかった。
何年も何年も動こうとはしなかった。
もう目を開けないこの少女を守るために。
更にそれから数十年がたち、少女が氷に埋まってしまうと氷を切り出して、少し高いところにある洞窟に運びこんだ。洞窟の奥の狭い部屋は少女の霊廟となり、それから気が遠くなる年月……、テックは大好きな少女を守り続けた。
ずっと、ずっと……。
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長かったのかな。短かったのかな。
てくてくは薄暗い洞窟で少女と暮らした日々を思う。
いま足下に倒れている千年の恨みは、テックが止めを刺すまでもなく、いま心臓が鼓動を止め、生きることをやめた。
てくてくは振り上げた手刀をゆっくりと下ろした。愛する者たちの仇を目前にし、何も傷つけることなく攻撃の構えを解いたのだ。
「マスター、いまフォーマルハウトは死んだのよ。なんだか……つまんないわね。かけてやる言葉も浮かばなかったわ。……もっとスカッとすると思ってたのよ」
千年の間ずっと憎み続けた強い男が目の前で惨めに何もできず打ち倒されたのだから、必ずや心は晴れるものだと思っていた。
しかしその姿を見た瞬間、憎しみは憐みへと流変する。
「憎しみだとか復讐だとか、もうどうでもよくなったのよ」
「それって、気が済んだってことじゃね?」
ドキッとした。まさかフォーマルハウトに対する恨みつらみが晴れて、気が済んだなんてこと、たとえこの世界が終わってしまったとしても、絶対にあるわけがないと思っていた。
だけど、その実、てくてくの心は、複雑に絡まるものがあるにせよ、満足しているのだから。
「へー。マスター、なんだかカッコいいのよ」




