04-27 アリエルの誓い★
106話
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マナ欠乏で気を失た深月をその醜い手で抱き上げていることに半ば絶望していると、空を闇が走り、世界を暗転させてゆく。
この世界のことがちょっと好きになったロザリンドが闇に閉ざされゆく空を見上げた。
あれは闇の精霊、てくてくの力だ……。
チビなてくてくがいつも着ている地面に引きずるほどロング丈だったブカブカのワンピースはベリーショートのミニスカートになり、生足をはだけさせる大人モードのてくてくが目の前に現れ、ロザリンドを指さした瞬間に、真っ暗な闇に溶けて消えていった……。
「重複する記憶の残滓をみつけたのよ……寄り道してゆくわさ……」
寄り道?
ざんし?
なにそれ? ……。
……。
ゆっくりと少しずつ、闇が払われてゆき、視界が明るくなってきた。
ロザリンドはじっと手のひらを見ていた。
鋭い爪のついた手はちいさくちいさくなってゆき、身体も縮んでしまったらしく視線もずいぶんと下がったのが分かった。白い小さな手だし、足を見ると黒の艶のあるパンプスをはいていた。
視線を前にやると……、廊下の先、ドアが開いてて、男の人と、女の人が……。
あれ? 知ってる。
……、覚えてる……。
ここは……深月のマンションだ。
ハッとした。
男の人、なんだか不健康そうな、やつれた感じの……。
覚えてる!
あのひと……深月だ。
男女はこっちに気が付いた。
大人になった深月と目が合った、なんだか悲しそうな視線をこちらに流している。
となりにいる女性……。深月……浮気をしていた??
修羅場だ……。
怒りがこみあげて……。
……っ!!
ゆったり歩いていたのに一瞬立ち止まって、その顔をみてから早歩きになってしまった。
早足で駆け寄るパンプスの足音が廊下に響く。
何年ぶりだろう、大学を卒業してから一度も会ってなかったのに、遠目から一目見ただけで分かった。
あの女!
柊芹香だ。
なんで柊が深月のマンションにいるの! 相変わらず化粧も服装もなにもかも、1ミリの隙もなくキマっている。
かあっと頭に血が上るのを感じた。
「なんで柊と一緒にいるの!!!!」
ヒステリックに甲高い声で怒鳴ったときにはもう涙が溢れていた。
大声を張り上げてしまったのは怒りからではない。
柊を見た瞬間に悲鳴をあげて泣き叫んだのだった。
柊が深月を奪って、私から人生を奪おうとしている。二人、マンションの部屋から出てくる現場に居合わせてしまった。これを修羅場と言わずして何といえばいいのか。
ここ1年ほど、深月は心ここにあらずといった表情で、独りででかけることが多くなった。恋人の美月を誘わずに一人で小旅行に出ることも多くなった。
自分と会ってても元気がなく、話しかけても生返事で返すことが多くなり、どうしたのかと思っていた。そしたらこれだ。深月の浮気を疑わなかったわけじゃない。
目の前の現実を見て、なにもかもを理解したように思った。
だけど柊はこちらが何を考えているのかお見通しのような言葉を並べた。
「久しぶりね常盤。どうしたの? あなたは私の前でだけは泣かない子だと思っていたのだけど? もしかして私がこの人と何かいけないことをしているとでも思っているの?」
いつも自分を見るときは氷のように冷たい視線だったのに、今日の柊の表情はどこかやわらかく優しく感じられた。かけられた言葉のトーンもどこか温かさを感じる。
これは柊が深月だけに向けていた表情だった。
柊が変わった。
自分に対する敵意が感じられない……。
私は何度も大きく頷きながら「深月を取らないで……」と懇願するしかなかった。
頷くたびに、大粒の涙がボロボロとこぼれて、嗚咽と鼻水がいっしょになってぐしゃぐしゃになった。柊の言った通りだ。を見かねた柊は、ハンドバッグの中からガーゼのハンカチを貸してくれた。
深月のマンションなのに、深月じゃなく、柊に促されて、3人とも部屋に入った。
真新しい黒のパンプスを脱いで深月の部屋に入った。
たびたび来ている部屋なのに、なんだかもう知らない人の部屋に来たような居心地の悪さを感じている。
柊は玄関で脱いだ靴を揃えて置いた。
そうだ、柊ってこういう子だった。
リビングのソファに座らず、小さな丸いテーブルを囲み、フローリングに敷かれたラグマットに直接3人が座った。このラグマットは私の好みで買ったものだ。柊を上げるために敷いたものじゃあない……。
柊も深月もなにもしゃべらない。
安物の目覚まし時計の秒針の音だけがカチカチと響くこわばった空気……。
最初に口を開いたのは柊だった。その口調は大人びていて、挑発的なニュアンスなど含んでおらず、とても落ち着いたトーンで淡々としたものだった。
「このひとと私の名誉のために言っておくけど、私たちはあなたの思っているような関係じゃないわよ」
柊は嘘をつかない。
なぜなら鏡に写った自分の姿に『カワイイ』とか『キレイ』だとか、ウソをついてまで慰めてやる必要がないから。柊のことは苦手だし嫌いだけど、だからこそそういうところは信じられる。
「深月は誠実な人だよ。あなたもこのひとのそんなところが好きになったんじゃないの? その証拠に私このトシになってもまだ処女だし。浮気なんてしてないからね、念のため」
……っ!
……。
美月の記憶がフラッシュバックを起こした。
あれは高校1年の6月、柊が深月に告白して、OKして付き合おうとするのを反対して断るように仕向けたんだった。
罪悪感に胸が締め付けられる。私は柊に謝らなければならないことをした。
柊の強烈なキャラクターよりも、罪悪感のほうが先に立っている。
あれから10年、事あるごとに記憶が再生されて、いつもどんよりと気分がすぐれなくなる。いま深月と自分が付き合っていて、幸せなんだと思っていても、打ち消せない思いがある。
自分は卑怯なことをして柊の告白を邪魔したという負い目だ。
あの日、夕凪の海浜公園で柊に言われたこと、覚えてる……。
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『でもね、あなたはいずれ深月から離れていく。必ずね。だから私はあの人が私の手に戻ってくるまで何十年でも待つし、あのひとに愛されるよう努力する。どっちみち深月は私のものになるのよ』
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あれから10年。10年だ。ひとりで過ごすには途方もない時間だと思う。
柊はその間、ただひとり深月だけを愛し続けてきたのだろう。
自分だったらどうか、自分は深月しか居なかったから分からないが、多くの友達は、告白してOKが貰えなかったら、すぐに諦めて他の異性を探してくっついたりしていた。
一部の恋愛強者を除いて、多くの人たちにとって、恋愛なんてのは、自分のことを好きになってれるひとを探すのと同義だし、自分のことを愛してくれる異性のことは好きなんだ。
柊は強すぎる。あれから今の今まで、実に10年ものあいだ振り向きもしない男のことをずっと思い続けるなんて、本当なのかと疑ってしまう。柊はウソをつかないと思っていても、柊芹香という女の存在が信じられない。
気が遠くなるのを感じた。
自分と柊を比べたら、何一つ勝る点が見つからない。ただひとつ、深月のことを好きだという気持ちだけは絶対に負けないと思っていたのに……。
いまはそれが揺らいでいる。
柊の深月に注ぎ込む愛情は、自分のものよりも深いとさえ感じている。
柊が深月と一緒に居るところを見てしまった瞬間に、悟った。
認めたくなかっただけ。もうとっくの昔に負けていることを、ただ認めたくなかっただけなんだ。
だから声を上げてそのあとは涙が止まらなかった。
敗北を認めてしまった。頭ではまだ柊と張り合おうしているのだが、心がもうボキボキ音を立てて折れてしまったのが良くわかる。
「何をしていたか、聞かないの?」
柊が問い、私が応える。
「話してくれるんでしょ?」
10年来の親友のようなやりとりだった。
あんなに苦手で、嫌いな柊のことは信頼している、これはその証ともいえる。
誰かが言った。
アンチ巨人は巨人ファンと同じだと。
今になって考えるとその言葉は妙に的を射ている。
柊芹香、深月に告白した高校1年の頃から柊のことを意識し始めた。調べられる範囲で調べた。小学生のころ自分たちのクラスに転校してくる前は隣の市の小学校に通っていた。両親の離婚でお母さんについてきて団地に住むようになった。
柊の父方の家も一人でこっそり見に行った。なぜそんなことをしたのか? 気になったからとしか説明のしようがない。柊といえば地元では有名なお金持ちで、お父さんは一代で起こした会社の社長だという。真新しい大きな家が建っていた。絶句したのを覚えてる。家の大きさに圧倒されたのだ。
高校卒業後は大学に進学せず看護の専門学校に行っていまは看護師として隣町の大きな病院に勤めている。偏差値50ちょい切れの高校に通いながら全国模試で偏差値70以上。彼女の実力ならば医科大学でも合格できたと言われているが柊は進学せず、専門学校を選んで平凡な看護師になった。
高校生のころ、柊の100メートル走を見たことがある。
11秒台……。陸上部の女子選手がスパイクをはいて走った記録をスニーカーで軽々と抜き去った上に、走り切ったあと息も乱れてなかった。
柊をライバルだと思い、意識し続けた。
たぶん高校の同級生の中では、自分が一番柊のことをよく知っていると自負するぐらい調べたし、常に敵視していた。それなのにまた深月への接近を許してしまった。
なぜだろう、怒りという感情をどこかに置き忘れてきたかのように心は平静を保てている。
柊が私に優しいからだろうか……なんてことを考える余裕もできてきた。
考えてみたら自分も柊のことをよく知っていることに気が付いた。
アンチ巨人が巨人ファンだとしたら、自分もある意味熱狂的な柊ファンなのかもしれない。柊と浮気していた深月を責める気もない。
柊がしてないというなら本当にしてない。
自分の嗚咽が収まり、涙がこぼれ落ちなくなるのを辛抱強く待ってくれた。
どれぐらいの時間が経ったのか分からない。
部屋に入ったとき、いまもカチコチと秒針の音を響かせる安物の目覚まし時計が何時を指示していたのかを覚えていないのだから、時間感覚なんてとっくに吹っ飛んでしまっていた。
優しい目でじっと見られていた。
観察されていたのだろう、落ち着いてきたと思われたのだろうか。そうしたら柊は、深月に「あなたが説明して」と言った。
あなたと呼んだ。自分だってそんなふうに呼んだことないのに。
深月はもう、あなたと呼ばれることに慣れているように、ごく自然に応えた。
「人を探しているんだ」
……。
誰を? と聞く前に、深月は言葉を重ねる。
「ごめんな、去年ぐらいから、旅行に行ったりしてたのは、芹香と二人で、あるひとを探していたんだ」
芹香って呼んだ。下の名前で、それを無意識で。そんな仲なんだと思った。
「あるひとって誰?」
「大切なひとだ」
言葉を濁した……。
「男の人? それとも?」
「女性だ」
深月は今にも泣きだしそうな表情で、そういった。
もう何も聞きたくない。呆れた。
もうダメだ。
―― はああっっっ!
口をついて深いため息をついてしまった。
去年ぐらいから頻繁に小旅行に出ていたのも二人で行ってたと白状した。
誠実? どこが……。
深月の目をじっと見た。焦っている風でもないし、開き直っている風でもない。
ただただ悲壮感に暮れているような表情だ。
言い訳も弁解も無し。つまり、話をする気はないということだ。
身体に力が入らない。
だけどずっとここでうなだれているわけにもいかない。
身体にムチを入れ、しばらく俯いてみせたあと無言で立ち上がった。もうこんなところに居たくない。話なんて聞きたくない。もう柊の前で泣きたくない。帰って一人で思いっきり泣きたい……。
頑張った。でも柊には勝てなかった。
土台無理な話だった。争っても最初から勝てるわけがなかったのだ。
「さような……」
「ストップ! ちょっとまって」
別れを言って部屋を出てゆこうとしたら柊に被せられ言葉を飲み込んだ。
「ねえ常盤、私が言うのもおかしいかもしれないけど、ため息をつくんじゃなくて、深呼吸をしてまずは落ち着いたほうがいいわ。このひとがいまこんなにも深く悲しんでいるのは、常盤、あなたが今日ここで別れを切り出して去っていくことを知っているから」
当の深月は知っていて、立ち去ろうとする私を引き止めもしないのに……。
「落ち着いて……そこに座って、最後まで話を聞いて」
柊は深月の隣というポジションにまだ居座り続けていいと言った。
私にはそれが理解できなかった。
「じゃあ深月に決めてもらえばいいじゃん。私を選ぶか、柊を選ぶか」
半ばヤケクソになってしまって、またこんなことを言ってしまった。
もう後に引けないのに……。なんてバカなことを言ってしまったのか、次の瞬間にはもう後悔している。
「常盤、お願いだからこのひとを困らせないで」
「別れてここを出ていくと言ってるんだから、あなたの思うツボでしょう? なんで柊が私を引き止めるの? 深月が何も言ってくれないのにさ……」
「これは私とあなたの問題だから。深月が口を出すことはできないの」
この時は本当に柊が何を言ってるのか理解できなくて、咄嗟に深月のほうを見た。深月は柊の言ったとおり、一言も言葉を発することなく、視線をそらしたまま、ただ口をつぐんでいた。
「柊と私の問題? 話がおかしいよ、深月はどう思っているの? 私か柊か、どっちかを選んでよ……」
「常盤、私とあなたの問題だと言ったはず。このひとは選ばないの」
柊が主導権を握っていて、深月は言いなりになっているように見えた。
もう一度ここに座って、腰を落ち着けて話をすることなんか一つもない。
「深月が私を選ばないのなら私は出てゆくまで。さようなら深月、柊さんと幸せになって」
バッグの中から部屋の合い鍵を出して、ぎゅっと握りしめた。
これをテーブルの上に置いて、部屋から出ていけばもう何もかもが終わってしまう。
一瞬の躊躇はあった。思いとどまろうともした。
だけど柊の顔を見るとダメだった。
「ねえ常盤、あなた本当にそれでいいの? 一度しか言わないわよ、あなたは大きな間違いをしようとしてる。いままで深月と生きた人生の時間をドブに捨てようとしてるようにしか見えない。だってあなたの言葉はウソばっかり。心の中では別れたくないって泣き叫んでいるのに深月が行くなと言って、引き止めてくれるのを待っている。甘えるな常盤、これは私とあなたの問題だと言ったはず、誰も助けてくれない。一度ぐらい正面切って私と向き合ったらどうなの?」
見透かされた。
そうだ、私はこれまでただの一度だって柊と正面から向き合ったことはなかった。
なぜなら苦手なのだ。柊と並んで立つと引き立て役にしかならないし、正面に立つと目から飛び込んでくる柊の映像すべてがコンプレックスを刺激する。
だからこそ自分は柊を避けてきた。正面切って向き合うことが正しいことだとは思えない。
「うそをついちゃダメなの? なら正直に言う。あなたが最初、深月にバレンタインチョコをあげた小学6年生の頃から邪魔な存在だった。あなたは皆がうらやむほど恵まれた容姿をしているのに、なぜ私の幸せを奪いに来るのか理解できなかった。でもハッキリとわかったよ、邪魔なのは私のほう、わたしが二人の間に割り込んで邪魔をしてたんだ。ごめんなさい、ずっと、ずっと二人の邪魔してた……。高1のとき、柊あなた深月に告白したでしょ? そのとき深月はOKしようかって気になっていたのに、断れっていったのは私。ずっと、ずっと邪魔をしていた。でも私ずっと後悔してたんだ。私の大切なひとを奪ってゆくあなたのことは嫌いだけど、卑怯なことをして二人の邪魔をする自分のほうがよっぽど嫌い。本当に大嫌いだった」
柊の目を見ながら言えた。
座ってる柊を見下ろしながら言えた。
そして手の中に握り締めた合い鍵をテーブルの上に出した。
「知ってたわよ」
……っ。
柊は何を今さら……とでも言わんばかりに呆れた表情を見せた。
柊の告白を断らせたことも、接近しようとする二人の間を露骨に邪魔していたのも、知っていたという。
合い鍵につけたキーホルダーの小さな鈴がチャラッ……と音を立てたのが、泣いているように感じてしまって、また熱いものがこみあげてきた。
柊はそんな美月の最後の言葉に応えた。
「私はそんな常盤のこと、嫌いじゃないよ」
そういった柊は天使のように優しく微笑んだ。
なんだか赦されたように感じて、目からはとめどなく涙が溢れた。
見た目だけじゃない、内面でも自分は柊の足元にも及んでいない。
「どうか、深月と幸せになってください」
玄関から出てゆくとき、自分のパンプスがきっちりと揃えられていたのを見て、やっぱり柊には勝てないなと実感した。
常盤美月は柊芹香最後の忠告も聞かず、けっきょく別れを切り出して嵯峨野深月のもとを去った。
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ロザリンドが目を覚ましたのは、白夜気味だったが東の空が白む時間帯、早朝だった。
ずっと冷たい石の床に腰かけていたものだから、なんだかお尻が痛む。物見塔の欄干壁にもたれて眠っていたようだ。パシテーはロザリンドの膝枕でスヤスヤと寝息を立てていて、対角のスミではアリエルとサオが肩を寄せ合い、てくてくはすぐ傍に女の子すわりで佇んでる。
「ああ、なんだか長い夢を見ていた気がする」
ぼーっとする頭でさっきまで見ていた夢を整理してみると、なんだか、ひとつもいいところなんてなくって、ただひたすら自分の心の醜さを再認識したかのような、そんな夢だったように思う。
遠くの方では鳥たちが目を覚まして、囀り始めている。
うん、もうすぐ夜が明ける。
ハッキリしない夢の記憶を整理しきれず、また微睡みに落ちそうだ。
「お、おはようロザリンド」
……ハッとして二度見してしまった。
目の前にアリエルが塔の欄干にもたれるように座っていて、すぐとなりのくっついたポジションをサオに奪われていた。
目が泳ぐ。深月を探していた。
そこに深月がいたような気がしたんだ。
でも声の主は夫のアリエルで、恐る恐る手櫛で髪をすき上げたとき、指が角に触れた。
ああ、まだ頭が混乱しているけれど、ここは日本じゃないし、自分はツノのある魔人族だった。
今の今まで日本に居たはずだったのだけど、やっぱりあれは夢だったんだ。
てくてくがついでにって見せてくれた重複している記憶というのがいちばんきつかった。
記憶の中で3人はみんな26歳だった。前世、二人仲良く事故で死んだのは18歳、高校3年の春だったはずなのに……。なんで26歳の記憶があるのか、本当に理解できない。
「どうした? ロザリンド。浮かない顔してるな。どうせ てくてくにキツいの見せられたんだろ?」
「痛いところを集中攻撃されたわ……、はあ、もう二度とゴメンだわ。目を覚ました時あなたが居てくれなかったら自殺したかもしれない……」
「だから言っただろ? てくてくの夢は精神攻撃だからな……おっ?」
ロザリンドに膝枕をしてもらいながら、パシテーの目がぱっちりと開いていた。
「うー。おきたの。おはよう」
パシテーは膝枕のまま動かず、下からロザリンドをじーっと注視している。
ロザリンドはその大きな手でパシテーの頭を優しく撫でながら、膝の上の妹に問いかけた。
「ごつい手でしょ。これが私。いかがでしたか。何のためにこんなしんどい思いをしたのかもよく覚えてないんだけど……ただひとつ言えることは、なんだか死にたくなった」
「姉さまも邪魔をしていたの。私も同じ気持ちなの。だから二人の邪魔をするかもしれないの」
「いいわよ、いきなり強力なライバルが現れたらそりゃあ邪魔のひとつやふたつやみっつやよっつしたくなるのも人情でしょうよ。私もパシテーの邪魔するだろうし、そこはもうお互い様ってことにしてくれたら嬉しいな。あとね、嫉妬して意地はって大切なひとと離れたら後で死ぬほど後悔して泣くことになるから……絶対にそんなことしちゃだめ」
「わかったの……」
パシテーはヒイラギという名前を知っていて、いつだったか兄弟子が寝言で呟いた名前だった。どんな女性なのか気になっていたところに、てくてくの夢を媒介にしたが柊本人の姿を見られたのは収穫だった。
柊のことで聞いてみたいことがあったが、内容についてはいつか問いただそうと心に決めた。
「おおっパシテー! ロザリンドの記憶ってどんなんだった? あとでこっそり教えてくれ」
「兄さまがひどかったの。私は姉さまの味方なの」
「ええっ? なんで? おれ悪役だったのかよ!」
「うん、悪役なんてあなたしかいないよ。パシテーアリガトね、私もパシテーのこと好きだよ。このバカほんとうに一発殴ってやりたくなったよ」
「わかる! わかるの! でもニホンは憧れなの。街づくりだけじゃなくて室内の設計や家具が合理主義を究めていたの」
「「そこ?」」
同時突っ込みしてしまった。
「わたし鬼だから退治されちゃうんだけどね」
「兄さまは教会の指名手配リスト最上位なの」
「じゃあ私も指名手配リストに名前のせられちゃったね」
「私もてくてくものってるの」
「ロザリンドがいて、パシテーがいて、てくてくもサオも居てくれるなら、俺はどこでだって楽しく生きていけるさ。この世界が俺たちにどんなに冷たく当たっても、守るから。たとえ世界中が敵になっても、俺が守るからさ」
「うわあ……ベタな台詞……。それサオの肩じゃなくて、私の肩を抱いて言ってくれたら涙モノの感動だったと思う」
「私なんか姉さまの膝枕で聞いたの」
「話し始めたときの配置がこうだったんだから仕方ないだろ」
「うん。感動したよ。ありがとう。でも、あなたが戦うなら私も戦う。守ってもらうだけなんてイヤ」
「私は兄さまの行きつくところ、最後までついていくの。約束したの」
「アタシは命が尽きるまでついていく契約なのよ」
「師匠、私も。私もです」
「んー、俺いま教会を真正面から敵に回しちゃってるからなあ。危険なトコ行く時は俺一人で行くのがいいかな」
「「「「ダメ!」」」」
「あなたを一人にしたらで帰ってくるたびに女が増えそうだから絶対にダメ」
「兄さまを一人にしたら爆発するし、姉さまの意見に賛成なの」
「師匠……なぜ私が弟子入りさせてもらったのか、もう忘れてしまったのですね……」
「マスター、もう何を言ってもダメ。アタシたちは道連れ。全員を守るのよ。あと10年もするとハイぺリオンも戦力になるの。頼りになるわよきっと」
「分かった。誰も置いていかない。約束する。ただし他に優先させなきゃいけないことがあったらそっちを優先させるからな」
「優先って何?」
「例えば病気やケガ、これは治療を優先させるとか、そういうときね。ところで、てくてく。ロザリンドの記憶? どうだったんだ?」
「ちょっと記憶に重複があったのよ。不可解な点もあるけど、アタシからは何とも言えないのよ。自分でロザリンドから聞けばいいのよ」
「重複?どういう?」
「そうね、たとえば初めての場所なのに、以前来たような記憶がある。その程度の、ちょっとした記憶の混濁が起こるぐらいには重複してたのよ」
「なんだ、デジャヴの話か」
「……デジャヴだったのね、よかった。私どうしてしまったのかと思ったわ」
「マスター? デジャヴって何なのよ? 記憶の混濁が普通にあるの?」
てくてくはデジャヴを知らないらしい。どう説明すればいいのか……。
「普通だろ? 疲れた時とか」
「私は記憶の混濁というよりも『あれっ? このシーン夢で見たような気がする』っていう感覚だけど? みんなあるよね?」
「聞いたことないのよ? パシテーは? サオはどうなの?」
「しらないの。兄さま、姉さま、私心配なの」
「私も知らないです。そんな経験は一度も……」
この世界の人はデジャヴを知らないらしい。
この世界の人とはちょっと脳の作りが違うのか。うーん、おんなじだと思ってた。
あの、デジャヴの一瞬、クラクラっと意識が混乱する感じは嫌いじゃないんだけどね。
「じゃあ今日は俺、昼まで狩りに行ってるからみんなはハイぺリオンと遊んどいて。パシテーはサオにハイペリオンの世話を教えてあげて」
「ダメよ兄さま。必ず誰かひとり供をつけて。これも約束なの」
「じゃあ今日はてくてくを」
ハイペリオンをネストから出して、てくてくと狩りに出ることになった。
いまは気配察知で探索の範囲を広げると半径で2キロ程度まで有効に使えるので、探知できる面積は以前の4倍ぐらいにまで上がっている。なのでかなり効率よく狩りができる。ただし人が多い街なんかで気配察知範囲を広げると激しく疲れる上に精度がガタガタに下がるというデメリットがあるのだが、ノーデンリヒトはちょうどいいぐらいの生命の過疎地になっている。
獲物を察知して、その場所にてくてくを連れて行くだけ。てくてくが狩りをすると獲物に傷をつけずに狩れるから、ギルドに納品するときの減点がなくなって満額査定になる。
てくてくの狩りの仕方は簡単で、アリエルが気配を察知して接近し、獲物が見える位置にまで近づいたところで てくてくがスーッとネストから浮上するように現れ、獲物の影から闇の触手を伸ばして絡め取るだけ。エナジードレインで安楽死させるから獲物に傷をつけず、とても綺麗に狩れる。
午前中の6時間程度でガルグネージュ20頭と、ディーア8頭を狩猟。
猟果に満足し、トライトニアに戻るとサオがハイペリオンとじゃれ合って遊んでいた。
「サオ、ハイペリオンは慣れたか?」
「はいっ! ハイペリオン可愛いです。すっごく賢くて、私の言うことを聞いてくれるんですよ」
龍族は知能が高いので、当然好き嫌いもハッキリしている。
サオが現れる前まではパシテーが一番好きだったようだけど今はサオのほうがいいらしい。
昼ご飯を食べたら出発だ。コテージは残していてもよかったけど、ドアや窓、煙突部分の予備パーツがないので外して解体することにした。それもパシテーの仕事。あれだけ頑丈だったコテージがドサッと瞬時に砂になって崩れたと思ったら、まるでヘラで均すようにサッと平坦地になってしまった。
よく調べないとここでキャンプしていたことすら分からないほどうまく痕跡を消してしまったことに感心してしまった。
痕跡が消えるのはいろいろと都合がいい。今後はまた自分の首にかかる賞金が上がってしまうだろうことは明らか。冒険者ギルドにも高額な賞金が貼り出されることだろうから足跡を追う追跡者の捜索から逃れるのに、とても都合のいい魔法技術だった。
「さすがパシテーだ。これからもコテージお願いな」
「ん。でも簡単じゃないの」
「簡単じゃないモノを作って痕跡までなくしてしまうなんてすごいよ。じゃあ、出発しよう。夕方にはマローニに着けるように」
なだらかな緑の丘陵を一気に滑り降りて、風に波打つ草原を猛スピードでマローニへ向かうアリエルたち。ハイぺリオンの散歩を兼ねて移動していたら、遠くの方に3人の気配があった。だけどそこから小さくない殺気が放たれた。
クルっと方向転換し、急加速するハイペリオン。
追いかけるパシテーを振り切って、一直線に殺気を発した地点へ向かう。
アリエルの気配察知にかかる。
(あちゃあ、こんなところをウロウロ旅してる3人組ってことは……、ベルゲルミルたちか)
ドルメイ山のあの洞窟で感じた重くのしかかるような、殺気ともとれる種族的な『威圧』が500メートルほど前方から放たれた。とはいえまだまだ子どもレベル。ミッドガルドの威圧はこんなもんじゃなかったのだが……。
周囲360度、全方位に向けて放たれた威圧に、ロザリンドは眉根を寄せて警戒を強めた。
「くっ……何?……」
「ああ、誰かがハイぺリオンに殺気を当てたっぽい。たぶんベルゲルミルだと思う。それにハイペリオンが反応しただけだろう」
「見えない距離からこんな威圧が飛んでくるの? それってヤバくない? 咬みついたりしたら大変!」
サオの速度に合わせてのんびりしていたロザリンドも縮地から加速し、猛スピードで加速していく。そんなに急がなくてもパシテーが付いてんだから大丈夫なのに。
「サオ、足元が疎かになってるよ。大丈夫か?」
「は、はい、涙が出ます。あっちに行きたくないです……。でも、ハイぺリオンが怒ってるってことは、何かあったんですよね!」
サオもみんなに合わせて歯を食いしばり眦を釣り上げて加速する。[スケイト]の上達ぶりよりも、ハイペリオンの威圧をものともせず加速して行ってしまったほうに驚きがあった。
アリエルたちがハイペリオンに追いつくと、トラブルの方はすでにパシテーが制していて、街道から少し外れた丘の上には女の子座りで泣いてる魔導師が一人と腰を抜かしている爺さんが一人。
柄に手をかけながらも必死で気を抑えているベルゲルミル……か。
「申し訳ない。そちらの放った殺気にうちの子が反応したようだ」
「うちの子? このドラゴンはそっちの身内か何かか?」
「まあ、話せば長いがそんなとこだ」
「なるほど。こちらこそ悪かった。チラっと見えただけでうちの未熟な魔導師が反応しちまった。停戦の条件はノーデンリヒト領内だけだったよな。まさか俺たちを殺すために追って来たわけじゃねえんだろ?」
「俺たちはそこまで好戦的じゃないよ。マローニに行きたいだけさ。マローニじゃ知らんぷりしてもらえると有り難い」
「そいつぁ願ったり叶ったりだ。聞いただろディオネ。大丈夫だからもう泣くな。すまんな、カッコ悪いとこ見せちまった。ドラゴンは魔導師が大好物だって言うからな、ちょっと見ただけで取り乱しちまったみてえだ」
「ハイぺリオン、気配は俺が察知するから勝手に前に出ちゃダメだよ。そういう事だから入ってなさい」
―― キュイ。
しぶしぶ[ネスト]を広げて影に入るドラゴンに興味津々なのは賢者のカリスト。
さすがに高位の魔導師だけのことはある。マナの流れを察したのか、アリエルの影と重なって設置されてある[ネスト]が波打つのを見逃さなかった。
「なんと!ドラゴンまで使役しておるのか。まだ幼龍のようじゃが、これこそが召喚魔法というものじゃろうて! 初めて見たわい。影にぴったり重なるように何か施されておるのう。転移魔法陣に似たマナの波動を感じるが……」
「あ、どうもカリストさん、その節はお世話になりました。えーっと、使役って言葉があまり好きじゃないんだけどさ、この子はうちのペット。家族だよ。言葉を理解してくれる分、犬や猫よりも通じ合えるんだ。あと、できることならこのことは内密にお願いします。いろいろ面倒なことになりそうなんで」
「ほっほっ。お主にかかるとドラゴンですら犬猫と同じかえ。魔導師が単独でドラゴンを召喚したなんぞと言ったところで誰にも信じてはもらえんよ。召喚魔法なぞ口伝にあるだけで教会の蔵書にも記載がない都市伝説のようなもんじゃからな。どうせ戦に負けた責任を逃れるための作り話と言われるのがオチじゃよ。のうベルゲル」
「ああ、言えねえ。もう何を言っても信じてもらえねえ。俺もうこのまま離反してどっかに逃げてしまいてえ。……ああ、日本に帰りてえなあ……」
……っ!!
日本……だと??




