04-24 美月と深月★
103話 プロローグのタイトルを引用しています。
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眩しい光の中……。
パシテーはボトランジュやノーデンリヒトでは考えられないほど真上に上がった太陽の下に立っていた。
光に圧力すら感じさせるほど暑い日本の夏……。
暑さにも驚かされたが、パシテーがいちばん驚いたのは信じられないほど平坦で黒い道と、洒落た家がたくさんあったことだ。
驚くほど正確に整地された土地と目を見張るほど高度な技術で建てられたであろう、高精度な建築物を見て、そしてその造形はパシテーも見たことがない。
太陽の上がる角度もそうだが、ここはシェダール王国ではないことが窺い知れる。
パシテーはてくてくに予告されていたことで、ここがどこかという情報をあらかじめ知っていた。
ロザリンドの記憶の中にある異世界。
兄アリエルの前世の故郷であり、スヴェアベルムなんてところから逃げ出してしまいたいパシテーが憧れていた夢の国、日本だった。
パシテーの目の前、棒っきれを持った女の子の後ろについて走っていく男の子を目で追う。
子どもたちの目にはパシテーは見えていないらしい。
黒髪の女の子に、黒髪の男の子。
ヒト族で黒髪、とび色の瞳なんて珍しいなと思った。
でも恐らくは、前を走る女の子がロザリンドの前世『常盤美月』であり、
少し遅れて女の子の後を追いかけている男の子が『嵯峨野深月』、この子がアリエルの前世だ
「まって……まってよ美月」
「深月、遅いー」
小さな男の子を置いていくほどの勢いで駆け抜けていく女の子。腰まである長髪を振り乱して走るその右手には竹刀が握られている。
ロザリンドの前身、常盤美月が剣道を始めた理由に特別なものはなかった。週に二度、近くの小学校の体育館を借りた剣道場が子供たち相手の剣道教室を開いていたことで、エネルギーのあり余っている子どもたちがそこに通うようになり、そのエネルギーのあり余った子どもの筆頭格が、常盤美月だっただけの話。どこにでもある、ありふれた光景だろう。
たまたま剣道教室がそこにあっただけだ。もしそこが少林寺拳法だったなら少林寺拳法を始めていただろうし、空手道場だったら空手家になっていたのかもしれない。
そんな美月は、小学低学年の頃、まだ剣道をはじめて間もなかったというのに、いつも年上のガキ大将たちに虐められている深月を見かね、持ってきた竹刀で暴力をふるってしまった。
ガキ大将たちが泣いて地面で丸くなっても美月は殴ることをやめなかった。それほどまでにこのいじめっ子が許せなかったのだ。
どう間違えればこうなってしまったのか、年上のガキ大将を叩きのめして以来、それまでいじめを受けていた子らが美月の周りに集まるようになり、いつの間にかこの地区のガキ大将として君臨することになってしまった。まるで下剋上を果たした戦国武将のように、それからは何度もガキ大将たちと戦う羽目になったが、その度武器を竹刀から角材に持ち替え、角材を木刀に持ち替えるなどして、厳しい戦いを勝ち抜いていった。
美月はガキ大将になんかなりたい訳ではなかった。ただ、虐められている深月のことを助けてあげたかっただけなのに、ひとたび力を振るった事で、もう後に引き返せなくなってしまったことを、今では少し後悔している。だからと言って、虐められている深月を助ける方法なんて、他に思いつきもしないのだけれど。
時間が流れるとガキ大将もなりを潜め、背の順番で並ぶ朝礼の列で、前のほうに立つようになった12歳のころ、少し前に転校してきたクラスメイトの柊芹香が深月のことを好きになったという話を聞いた。何かの間違いだと思った。何しろ深月は目立たないし冴えない。深月の良さが分かるまで、きっと5年ぐらいかかるはずなのだから。
でも柊芹香は、あろうことか深月にバレンタインチョコをプレゼントした。
柊は、いかにも深月の好きそうな、お淑やかで清楚なメガネ女子。小学6年生で170センチはあろうかという高身長に加えて、すらっとスマート。身だしなみもキチッとしていて、靴を脱いだらちゃんと手で揃えて置き直すぐらいお行儀もいい。
ストレートロングの髪はキューティクルたっぷりで天使の輪が浮かんでいるし、それを束ねる髪留めの位置決めも完璧。小学6年にして女子力で大差を付けられている。
玄関で止まらずに靴を脱ぐ『走り脱ぎ』をマスターした美月とは正反対ともいえる。
小学生のくせに手作りチョコをプレゼントするなんて、情に脆い深月なんかコロッと落ちてしまう。
美月にしてみれば『わたしの深月に何してくれんだ!』という被害者感情だったのかもしれない。
深月はクラスメイトにバレて冷やかされるのがイヤなようでコソコソとチョコを隠していたから帰りに取り上げて、全部食べてやった。
でもさすがにひとつも食べさせないと泣きそうな顔になったので、自分からハート型のチョコをプレゼントしてあげることで強引に納得させた。
「なによチョコぐらいで泣きそうな顔しないでよ。仕方ないからこれあげるわ。これで文句ないでしょ?」
駄菓子屋で買った80円のハート形ピーナッツチョコ。これでも十分に美味しいはずだ。
「これが私のバレンタインデーチョコなんだから、味わって食べなさいよね……」
柊のチョコを食べた事がバレて以来、柊との仲は険悪になったが、一軒飛び隣に住んでる幼馴染というアドバンテージがある以上は好都合。自分が深月と一緒に居さえすれば柊は寄り付いて来ないのだから。
そのまま3年と数か月がたち、余裕ぶっこいていた高校1年生の6月、まさか柊が深月に告白するなんて思ってもみなかった。高校生になって剣道部に入って、ほんの少し部活が忙しくなったスキを突かれた。
まさかと思った。
チョコ事件からずっと、何年もべったりくっついて柊なんて近寄らせもしなかったのに。あの女、ず――っと深月を狙ってたんだ。恐ろしい、蛇のような執念深さを感じる。
その日の夜、気になって、居てもたってもいられなくなり、深月の携帯に電話し、夕食のあと海浜公園に呼び出して二人ベンチに座った。深月は虫よけスプレーをしてこなかったようで、ずいぶんと蚊にまとわりつかれている。
「ねえ深月、柊に告白されたんでしょ。情報は聞いてるよ。どうする気なの?」
深月は(やっぱりその件か)と知った風な顔で言葉を濁した。
「んー、どうしよ。悩むなあ」
深月のこういう優柔不断なところがキライだった。
なんで悩む必要があるのか? なぜきっぱりと断らないのか。何の接点もない遠くから見ているだけの地味ーな女の子に告白されただけで心が揺らぐなんて信じられない。
「深月、あなた好きな子とかいないの?」
「んー、どうなのかなあ。好きなのかなあ。よくわからないんだ」
(ねえ、私のことは?……)
縋るような声がかすれて、小さくなって、深月には届かなかった。
深月がじっと見てる。じっと目を見てる。やばいな、目に涙が少し溜まってる。泣きそうになってるところ見られたかも。
「美月はどう思う? 柊ってコのこと」
「さあ、私よく知らない。だってあんまり仲良くないしさ」
「そうか、じゃあOKして付き合うようになれば、美月とも仲良くなれるかな」
えっ?
付き合うっていった?
……深月を取られる。
いやだ……。
「好きでもない子と付き合うのはダメよ、柊さんにも失礼だと思わない? 考え直して」
反射的だった。
誰もがそう思うけれど言っちゃいけない言葉が出てしまった。
自分は告白なんてする勇気なんてないのに、他人の恋路の邪魔だけはするんだ。
美月は自分の性格がひん曲がっていることを自覚した。
小学生の言葉で、根性ババ色という。俗に『コンババ女』だ。
「そっか……、そうだね。たしかにそうだよ、柊さんにも失礼だね、お断りするよ」
……っ!
それからしばらく深月の顔をまともに見れなくなった。
ホッとしている自分を、卑怯だと責めた。
家に帰ると階段を駆け上がり、部屋に鍵をかけて思いっきり泣いた。
まさか自分がこんなにも嫉妬深くて独占欲の強い、醜い女だとは思ってなかった。
もういっそ刺し殺してくれたら清々すると思った。
翌日、深月が返事をするらしい。部活を休んで海岸沿いの防潮堤の上から、海浜公園で柊芹香と会う深月を見ている。遠い、きっとあの二人にも気付かれないぐらいの距離を開けて、見つからないよう、こっそりと。我ながらストーカーまがいの事をしている自覚はあるのだけれど、気になるんだから仕方ない。
昨日のことがあって、何もできないのだけれど、自分の中で折り合いがつかなくて。
それでも、いま柊と深月が会ってるのを遠目で見ているだけなのに、心は平静を保てない。平常心では居られない。唇が震えてしまって、どうしようもない不安感に押しつぶされそう。
心の底のずっと深いところで『早く断って』と叫ぶ自分がいる。
頭がぐちゃぐちゃになりそう。
深月が背を向けて歩いていった。
柊は立ち尽くしたままずっと深月の背中を見送り、深月は振り向きもせず海浜公園を出て家の方に歩いて行ってしまった。
柊はその場に座り込みがっくりと肩を落とした。
まさか、男に告白して断られたぐらいでそこまでオーバーに失意を表現するとは思ってなかった。
物心ついたころからずっと深月の傍にいたから知ってる。
柊と深月にそんな深い接点があるとは思えない。
風がやんだ。
夕凪の海岸。
防潮堤の上、赤く染まりつつある初夏の空の下、目の前を足取り重く、トボトボと帰ろうとする柊と目が合った。沈んだ足取りにみえても、身嗜みが完璧なので気落ちしているようには見えなかった。
睨みあうというよりは、お互いに視線を外せなくなって、言葉が出ない気まずい時間が20秒ほど続いたが、口火を切ったのは柊のほうだった。
「見ていたのね。どう思った? いい気味でしょう? 私はあなたにそんなところから見下ろされるのがお似合いなの?」
気になって見に来たのは確かにそう。だけどいい気味だなんてこれっぽっちも思えなかった。
柊の告白を断るように誘導したのは自分。いまは自らが行った卑劣な行為の罪悪感に苛まれているところだ。いつもなら笑い飛ばしてやるぐらいには仲が悪いと自負しているのだが、今日はさすがに自分の性格の悪さを自覚して吐き気がしていたところだ。
口を突いて出た言葉が 「あ、ごめんなさい」 だった。
3メートル近くもある防潮堤の上からひょいと飛び降りると、一転して美月のほうが見上げることになった。身長差とは如何ともしがたい。
柊芹香の、誰が見ても美しいとしか形容できない顔を直視することが出来ず視線をそらしてしまった。
美月はそのまま問うた。
「ねえ柊、深月って、あなたにとってそんなにイイ男なの? 今までろくに接点なかったでしょ? 小学生の頃からずっと見てたのは知ってるけど、客観的に見たら深月なんて並の上ぐらいだと思うけど? もっとカッコよくて、スポーツが出来てケンカも強くて目立つ男なんて腐るほどいるのに、なんで深月なの?」
「あなたにそう言われるとは思わなかった。そうね、あなたにとってはその通りかもしれないわね……。ねえ常盤、あなた深月のこと好きなんでしょ。でもね、あなたはいずれ深月から離れていく。必ずね。だから私はあの人が私の手に戻ってくるまで何十年でも待つし、あのひとに愛されるよう努力する。どっちみち深月は私のものになるのよ。何度でもね。幼馴染の強みが発揮できてよかったわね、でもそれも今のうちだけ」
「何よ深月って呼び捨て? 馴れ馴れしいじゃない」
「当たり前よ。だって深月は私の男だもの」
それだけ言うと柊は去っていった。少し憔悴していて目に力がないことは見て取れたが、自信たっぷりに深月は私の男だと宣言したのには驚いた。
もともとあった罪悪感に加えて、心の中がモヤモヤするこの感じ。
海浜公園からの帰り道、無意識に唇をかみしめる。
「何なの、この敗北感」
頭の中のモヤモヤを引きずったまま家に帰ると、深月は家の前で買ったばかりのマウンテンバイクのチェーンに油をさしていて「美月の自転車はどう? 油さしてやろうか」って話になった。いまそんな気分じゃないのに。この男のせいでどれだけしんどい思いをしているか。ほんと何も分かってないんだから。
「美月、夕焼け見に行こうよ。いま真っ赤だろ」
考え事をしながら夕日を背にして歩いてきたので気が付かなかった。空を見上げると真っ赤な夕焼け空が広がっている。
二人、まるでその夕日の赤さに導かれるように、また海浜公園のほうに戻って、今さっきまで居た防潮堤をひょいと駆け上がり、向こう側に組まれたテトラポッドに腰かけると、視界ぜんぶが真っ赤っ赤になっていた。
少し多めの雲が遥か高いところまで真っ赤に燃え上がっている。今日は年に一度見られるかどうか? って規模のすごい夕焼けだった。
凪いでいた風がまた吹き始め、二人はテトラポッドに腰かけて、ただ夕焼けを見ていた。
何も話さずに、ただ無言で、夕日が沈んでいくのを眺めているだけだった。
太陽が沈んでも、真っ赤に焼けた空が西の空に引いて藍色が広がり、星が輝き始めるまで、ただ見ていただけだった。そう、ゆっくりと沈みゆく夕日をただ見ているだけでも思考は進む。あのとき言うべきじゃなかった言葉をずっと後悔しながら、他に何とでも言いようがあったことを悔やんでいる。
辺りはとっぷりと日が沈んで、海を行き交う貨物船の光が水平線に見え始めた頃、深月が立ち上がって尻をはたき始めた。帰り支度をしているようだ。
本当にこの男は。ひとが弱っているのを見かねてここに連れて来てくれたのだろうことは分かる。確かに慰めの言葉なんか期待しちゃいなかったのだけれど、まさか本気で一言も会話なしとは思ってなかった。無言記録更新かもしれない。
「美月、そろそろ帰ろうか」
テトラポッドの高いところに右足をかけてカッコつけポーズでキメ顔してるのが少し面白い。
そうだ、深月はいいカッコさせてもなかなか決まらない男なんだ。
立ち上がり、沈んだ太陽に背を向けると、反対側、東の空にはびっくりするほど綺麗な満月が上がっていた。息をのむその美しさに瞬きを忘れてしまうほどだった。
「今夜はスーパームーン。月がとても大きく、美しく見えるんだ」
さっきまで一言も話さなかったくせに、振り返って満月を見せた途端に饒舌になる。
深月は……、最初からこれを見せたかったんだ。
月明りの中、足元が不安定なテトラポッドの上を飛び歩く。
深月は星明りの中でもテトラポッドの上を走れるという忍者のような特技がある。本人が言うには『こんなのは海で育った男子として当然の嗜み』らしいが、そんなの無理だ。
「ほら」
深月が差し伸べてくれた手を躊躇なく掴んだ。何年ぶりだろうか手を繋いだのは。
深月の手……、暖かい。
変に意識してしまって、かあっと頭に血がのぼってるのが分かった。
深月に手を引かれてテトラポッドを渡る。
スーパームーンをバックに二人のシルエットが飛び渡る。
なかなかどうして、青春しているじゃないか。
家に帰ると父さんにちょっと怒られたけど、なんだか心が少し軽くなった気がする。
まったく、ひとが弱ってる時だけ優しくしてもダメなんだからね。
美月は枕を抱いてベッドに転がり込む。
柊に『並の上』なんて言って申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
えへへ、やっぱ深月は最高なんだ。




