序章:世界に語り継がれる英雄譚 【挿絵】
2018/0308 挿絵入れてみました。目が光ってるっぽいのはリリス。その右側の闇に紛れてるのがアシュタロスです。
2021 0717 手直し
2024 0206 手直し
……暗い。
空には幾重にも積層した分厚い雲が覆い、太陽はもう半月も顔をのぞかせることなく薄ぼんやりとしていて、真昼間だというのに肌寒く、人々に色濃い影すら落とさせないほどに、その光も放出する熱量も弱々しく衰えている。
この暗雲は世界の残滓。
焼き尽くされた大地を構成していたすべての物が灰となり、空に舞い上がって太陽の恵みを遮っている。
いまこの世界は滅びようとしていた。
13年前の戦いで多くの犠牲を払い、やっとの思いで倒した悪魔たちが……また復活してしまった。
性懲りもなく、また世界を滅ぼそうとしているのだ。
この世界の敵……。
滅ぼす者。滅亡の悪魔。
それは不死の権能を持つことで、莫大な犠牲を払い、たとえ倒せたとしても、いつの間にか世界のどこかで復活を果たし、人も動物も、魔獣も、畑も村々も、森も山も、目に映るものすべてを灰にして焼き尽くす。世界を終焉に導く深淵の悪魔、名をアシュタロス。
世界を守護し、そこに暮らす人々の平和な暮らしを守るため多くの神々が行く手に立ち塞がったが、そのことごとくを手にかけた神殺し、鬼神ヤクシニー。
闇の魔女でありながら光の権能を持ち、命を芽吹かせるほどの強力な治癒魔法を使う反面、高出力の熱光学魔法で広範囲を焼き払う灰燼の魔女リリス。
この三位一体の攻撃がとにかく厄介であった。
惑星規模の大破壊を繰り広げる3つの悪に対抗するため、戦力は枯渇し、世界は生き残るために有効な手段を失っていた。倒しても倒しても復活してしまうアシュタロスの恐ろしい魔力に対抗できず、敗戦続きで世界はすでに七割の土地が失われた。ある国は焼き尽くされ、ある国は大地が消滅し……、海に沈んでしまった。
人々の生活も、命も失われ、子どもらの明るい未来も、この空に立ち込める暗雲のように薄暗いものになってしまった。
この季節には、一斉に咲き誇る草花が目を楽しませてくれる丘も、緑が一斉に芽吹く森も灰に埋もれていて、いまも小雪のように、しんしんと灰が降っている。
この世界は、四つある世界の三番目、かつて神々に愛された祝福の地、スヴェアベルム。
いや、もう言うまい……。この世界にも滅亡が近づいているのだから。
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否!
神々はまだ負けたわけではない。
スヴェアベルムにある北の大陸、かつて栄華を誇ったソスピタという大国のはずれ、一面に灰が降り積もっていて薄ら白くうねる丘陵地帯、アルゴルを決戦の地と定めた。
かつてここは大穀倉地帯として酪農が主産業だったアルゴル、のどかな風景も、いまはもう見る影もない。点在する農村が織りなす和やかな情景はすでに失われて久しいが、アシュタロスの侵攻を食い止めるため、過去何十年も戦ってきた神々が得た教訓から、この見晴らしのいい丘陵地帯が選ばれたのだ。
最終決戦に集まった各国、各種族の連合で集まった戦士たちは、世界が灰に埋もれたせいで食糧難に陥り、ろくに食ってもいないというのに、それでも士気は高かった。隣にいる兵士と声を掛け合い、戦争が終わったら好きな女と結婚するんだとか馬鹿な話をしているぐらいだ。
生暖かい風が吹くと、とっくに枯れ野になってしまった丘に音もなく灰が降り積もる。
息をひそめ、戦いの時を待つ12万もの戦士たちも、肩や背に灰の粒は降り、やがて積もる。
後ろを守る戦士が前に立つ兵士の肩に溜まる灰を払って落とす。こうやって自分たちは決して灰に埋もれないという絶対の意思を示すのだ。
もうこの世界は死にかけている。これ以上アシュタロスたちの侵攻を許すと、世界そのものが灰と黒雲に閉ざされてしまう。背水の陣などというのも生ぬるい、この戦いに敗れたらこの世界そのものが滅亡してしまう。自分の死イコール、愛する家族の死、人類の滅亡なのだ。
緊張感に支配された戦場では灰の降る平原の少し小高い丘から見下ろす大柄な男が檄を飛ばしていた。
「神兵たちよ! 恐れるな。今こそアシュタロスとリリスを滅ぼし、平和な世界を取り戻すのだ。神兵たちよ! この地こそ決戦の地。最終決戦に打ち勝って、今度こそアシュタロスを滅ぼすのだ」
男は拳を振り上げ、大声で神兵たちを鼓舞する。
ここアルゴルを決戦の地と定め、愛する者に未来を遺すため最後の戦いが始まろうとしていた。
「わが手に勝利を! 平和を! 未来を!」
「「「「 うおおおお――――――っ!! 」」」」
「「「 勝利を! 平和を! 未来を!! 」」」
「「「 勝利を! 平和を! 未来を!! 」」」
「「「 勝利を! 平和を! 未来を!! 」」」
戦士たちは一斉に剣を振り上げ、盾を打ち鳴らし鬨の声を上げた。
すぐそこまで迫っている最後の戦いに備えて、陣に別れ、隊列を組み、考え得る万全の状態で『人類の敵』の侵攻を待ち受ける。
ある者は武者震いを隠し、ある者は歯を食いしばることで体の芯から来る震えに歯が鳴るのを誤魔化す。
またある者は出身の村に残してきた妻子を思って祈りを捧げる。
ここで悪魔たちを倒さねばこの世界に未来はないのだ。
小高い丘の上、灰の降る薄暗い昼下がりでもはっきりその存在感を示す、目の覚めるような金髪と、二重でくりっとした青い目が年齢不相応に見える童顔の男がいた。
身長は高くもなく低くもない、かといって筋肉質でもない整った顔立ちの美丈夫。最終決戦の指揮を任されたたのは、十二柱の神々、序列九位に座す。
名をクロノスという、国を持たぬ男神だった。
いまより13年前の戦いでアシュタロスの眷族、鬼神ヤクシニーを打倒して以来、英雄の二つ名をいただき、英雄クロノスと呼ばれるようになったが、クロノスは英雄と呼ばれるたび、ヤクシニーを倒したのは神々の総合力であり、自分ひとりの手柄ではないなどと言い、謙遜するような男であった。
クロノスは風もなく小雪のように舞う灰の向こう側、宿敵アシュタロスの侵攻を、瞑目したまま腕組みをして、息を殺しひたすら待っていた。
この戦場を抜かれるともう後はない。
この戦に敗れると次に戦う戦力も失われてしまう。
人類が滅亡するか、それとも生き延びるかの決戦なのだ。
戦意を鼓舞し、気勢を上げる戦士たちとは真逆であった。
英雄と呼ばれし、誉れ高き戦士クロノスは静かにその時を待つ。
しばらくして、
戦場の最南端、薄暗く先が見えない区画を監視する物見櫓から叫ぶ声がした。
「南から瘴気! 距離およそ300メルダ!」
いきなり瘴気が報告された。しかも第一報で300メルダとは近すぎる。
おそらくは光の権能を持つリリスが像を歪め、物見兵の視覚を阻害していたのだろう。
クロノスは奥歯をギリっとかみしめた。
数日前、アシュタロスの居場所を掴んだ戦友たちから奇襲攻撃をかけるという報せをうけていた。
しかし奇襲をしたはずの仲間が戻らず、瘴気が先に来た。
その意味は言わずもがな。
奇襲は失敗し、戦友は死んだということだ。
クロノスはゆっくりと目を開けた。
南側の丘の上に現れたのは影。
いや、闇か。
噴き出す漆黒の闇のような瘴気の向こう側……何かいる。
光学的に実像が歪められ、正確な位置がつかめない。だがしかしその姿を凝視してはいけない。
直視できない、何か生理的に嫌悪感を感じる、ただ縁起の悪い "それ" は眼下に待ち受ける12万の大軍に怯むことなく、ゆっくり、ただゆっくり近づいてくるのを感じる。
そして闇が丘を越えて近付くにつれ、溢れ出す瘴気が津波のように戦場になだれ込み、神兵たちを飲み込みはじめた。
最前線を預かる指揮官が怒声を上げる。
「耐闇障壁を最大魔力で展開せよ! ……くるぞっ! 風術師は前へ。瘴気の流入を食い止め横にいなせ。炎術師は最大火力で攻撃を集中! くれぐれもリリスを視界に入れるなよ」
瘴気に沈んだ波の奥、ぼんやりとした人型のようなモノがキラッと光った。
ただ光っただけだ。
いまの時間帯が夜でなければ少し眩しいと感じる程度の光だが、夜間、瞳孔の開ききった目には、その光を防ぐ手立てはなかった。
光には情報が書き込まれていた。
情報とは魔法の起動式だった。
その光を目で見ただけ。たったそれだけで命を落としてしまう。
これこそが灰塵の魔女と呼ばれるリリスの光魔法。
その光を直視した者は網膜に致死魔法の起動式が書き込まれ、己の魔力で望まない魔法が起動する。
つぎの瞬間には身体中から血を吹き出し、背中が割れ、背骨が飛び出すほどの人体破壊を起こす。
一撃だった。
たった一撃の魔法で前線は崩壊した。
そリリスの放った、わずか一つの魔法攻撃で、実に数万の神兵が命を散らし、その圧倒的な戦闘力を見せつけたのだ。
崩壊した前線の攻撃部隊を預かる指揮官は口惜し気に次の指示を飛ばす。
「ええい、リリスを見てはいかんと言ったではないか……。障壁部隊は臨機応変に張り替えよ!」
ゆっくりではあるが確実に近づいてくるアシュタロスたちを炎の魔法で狙っていた炎術師に目標を見るなというのも酷な話である。なにしろ攻撃部隊の中でも、とりわけ遠隔攻撃に長けた炎術師の半数以上はここで屍をさらしたのだから。
こういった魔法攻撃には、攻撃術者の魔法攻撃力と、受けたほうの魔法防御力がせめぎあい、障壁や防御魔法の有無など様々な要因はあるが、だいたいは単純な引き算の計算式で結果が算出される。
どれほど有能な魔導師であっても、人の体を瞬時に治癒不可能な状態にまで破壊してしまうことはできないのだが、リリスの超越した魔法攻撃力のなせる業なのだろう、最前線を担っていた戦士や魔導師を、ひかりの魔法ただ一撃で数万の命を刈り取られてしまう。
リリスと戦い、手の内を知っているものはほとんどいなかった。
なぜならリリスと対峙した時点で命はないからだ。前線を預かる戦士たちも当然リリスの光に関する情報は伝わっている。それでも初見で光を見ただけで死ぬという攻撃を避けるのはほとんど不可能だった。
そしてリリスは圧倒的な魔法攻撃力を見せつけ、戦場を恐怖に陥れた。
手を伸ばせば届く距離にいるはず、だが瘴気が濃すぎてアシュタロスとリリスの姿が判別できない。人の形を維持しているのかどうかも分からないほど視界が歪んで見える……。
或いはそこに実在しているのかすら怪しく思えるほどに。
しかし蠢く悪魔たちは確かにそこにいて、いままさに12万の戦士たちの生命を、まるで大鎌で薙ぎ払うかのように刈り取ろうとしている。
瘴気の中、そしてこの暗雲立ち込める薄暗がりの中、視線を外して対峙する戦士たちにも リリスのぼんやりと薄赤く光る眼がその位置を知らしめた。
そのときクロノスは後頭部の毛が逆立ち、背筋に冷たいものを感じた。
それは千里眼でも持っているのではないかというリリスの索敵にかかり、捕捉されたときに上書きされる殺気そのものだ。
リリスの眼光は丘の上に陣を敷く英雄クロノスをしかと見据え、わずかに進行方向を左にとると、クロノスのパートナーであるイシターのもとへと、一直線に最短距離を歩く。
あっさりと最前線を抜き、せきも慌てもせず、ただ瘴気を吹き出しながらゆっくり侵攻してくるアシュタロスたちに対し、弓兵たちを預かる体長がここぞとばかりに指示を飛ばす。
標的が矢の届く距離に入ったのだ。
「いまだ! 矢を射よ!」
幾百、幾千もの矢が放たれ、空を覆う暗雲のごとく飛来する多くの矢。
瘴気に覆われる戦場では命中しているのかどうか?すら分からないが、射手は命尽きる前に矢筒からすべての矢を射る覚悟を見せた。それが最低限の仕事であり、命中して手傷を負わせたのなら最大限の仕事である。
盾を組み合わせて隊列を組む騎士たちの陣から檄が飛び、防御の構えをとる者たちが次々と瘴気に飲まれてゆく。闇は侵攻を止めることがなかった。
クロノスまだ動くべきではないと考えていたが、そうも言ってられなくなった。、
「ちいっ!」
クロノスの舌打ちと同時だった。リリスの頭上に光輪が顕現する。
「熱光学魔法だっ!」
光輪は急速に大きく広がり、薄くなって霧散すると一瞬の溜めのあとキラリと一閃する。
前方にあるもの総てが薙ぎ払われ、前線を預かっていた司令官オコーナルと弓兵隊長を務めるヘイローは今まで立っていた地面に影だけを残し、いなくなってしまった。
熱光学魔法は連射できない。
まずは戦線を立て直し、有利な状況を作り出さねばならない。
丘陵を盾に身を伏せていたクロノスが被害の状況を確認する。
「ヘイロー、大丈夫か! オコーナル被害状況を知らせろ! 被害状況を!」
そこに居合わせたのはクロノスと同じく目の覚めるように鮮やかな金髪と碧眼、身長もえらく小柄なせいで少女に見えるが……対アシュタロス戦争でクロノスと同じく主戦力となる、十二柱の神々で序列第7位、イシターという女神だった。
要塞の女神と呼ばれるほど強固な防御障壁を展開する術に長けていて、いまもリリスの熱光学魔法対策に耐熱障壁を何重にも張り巡らせていたのだが、それをあっさりと抜かれてしまい、ショックを隠せず狼狽している。
クロノスに言われるまでもなく被害状況を確認するためすぐさま熱光学魔法が直撃したヘイローに駆け寄ったが、近づいて確認することもないだろう。さっきまで檄を飛ばしていた部下たちは、リリスの熱光学魔法射線上にいたせいで、その身を蒸発させてしまったらしい。
地面に残る影のような焦げ跡、それがヘイローだというのか。
愕然とするクロノス。
状況的にリリスは英雄クロノスたちのもとへと繋がる一筋の道を作っただけだ。
虐殺が目的なら熱光学魔法を横に薙ぐように発射すれば、あれほどの高威力なのだから、陣を敷いて待ち構える戦士たちなど一撃で全滅させることができたろう。
だがしかし、リリスはそうはしなかった。
自分が放った魔法で命を落とした者が大勢いることになど、まるで興味が無いといった風にアシュタロスはリリスに手を引かれ、熱光学魔法でこじ開けた道を急ぐでもなく、走るでもなく、ただゆっくりと歩いた。
その姿は瘴気のドレスを纏って血塗られたレッドカーペットを歩くように優雅に見えただろうか。
あるいは灰を巻き上げてさえいなければ、その姿を見ることができたのかもしれない。
周囲にいる戦士、神兵、魔道兵たちにその進行を止めようとするものなど、もう誰一人としていなかった。ただただ、恐れをいたき、歯をカタカタと鳴らしていた。
ただ立ち尽くすもの、その場にへたり込むもの。
圧倒的な力を見せつけられた兵士たちは、滅びを受け入れようするまで追い込まれていた。
それほどまでに圧倒的だった。
耐熱障壁を張っていたにもかからわずそれを容易く抜かれ、仲間を守れなかったイシターは近付いてくる本物の脅威に狼狽する姿を見せた。
「ねえクロノス、リリスは13年前よりも強くなってる。今度は……まずいわ。ニュクスたちは失敗したの? 兵士たちでは足止めにもならない。もう戦意を失ってるよ。引かせないと皆殺しにされてしまうわ」
目前に迫ったアシュタロスとの最終決戦を前にして、クロノスは革靴のひもを締めなおしたり、装備品の最終チェックをしている。何とも遅すぎるチェックだが、これはルーティーンのようなものだ。逸る気を抑え込んで、頭脳はいつも冷静さを失ってはいけない。
装備品のチェックを終えたクロノスはおもむろに立ち上がり、イシターの正面に立って覚悟を口にする。
「ダメだイシター。弱気になるな。この世界が滅亡してしまうというのに、引いてどこに逃げろというんだ。どっちにしろアシュタロスを倒せなかったらおしまいじゃないか。さあ、私の背後について守ってくれ、作戦通りだ。治癒魔法を持ってるリリスから倒すぞ!」
その瞳にはどこから出てくるのかわからないが、確かな自信がたたえられていた。
その言葉を受けたイシターはあきれ顔で応える。
「まずはアシュタロスに近付けないってのに、ほんと簡単に言ってくれるわね……。せっかく苦労して倒しても、どうせまたすぐに復活してくるし、この土壇場で瘴気を纏って格段にパワーアップしてる。ホント悪夢。私たち……勝てないかもしれないわね」
「そうだな。悪い夢でも見ているかのようだよ。でも弱気になっちゃダメだ。ここで私たちが倒れたらもう終わりなんだ」
「弱気にもなるよ……」
英雄クロノスと、要塞の女神イシター。
二人の装備する防具はまるで旅装のように身軽であった。
剣と盾を装備するクロノスは革グローブと革のブーツを装備しているが、イシターに至っては素手に普段着のような布の服。加えて町娘が履くような、白いリボンのついた革靴である。
無謀などではない。
バカなことでもない。
アシュタロスとリリスを相手にするのに、防具など意味がないことを知っているからこそ、スピード重視を徹底し、ほぼ普段着のような格好で戦場に出てきた。
これも緻密に練られた作戦の一つだ。
しかしイシターはそんなクロノスの身を案じている。
クロノスは不安そうに肩を震わせ、敗北を予感するイシターを気遣い、勇気づけながらその覚悟を口にした。
「私たちは13年前ヤクシニーをうまく封印できたことで過信してしまったんだ。自分たちの力であの悪魔どもを倒せるなんて思い上がりだった。もう私たちの力で勝利するには異世界に封印するしか手はない。うまくできたらいいけど、たぶん私の権能じゃ力が足りないな。イシター。キミの力も借りなきゃいけないけど……。そうだな私たちの身体が灰になって永遠の死が訪れたとしても、アシュタロスとリリスを封印できればこの世界の勝利だ」
「……そうね、世界を救うためだったらいいよ。あなたと一緒に死ねるのなら、望むところ」
「すまんイシター。私はお前と、もっともっとたくさん、いろんな話をしたかった。こんなひどい戦争の話ばかりするよりも、もっとくだらない話をしたかった。もし戦争のない世界に生まれ変わったら……、そうだな。一緒にどこか、美しいところをのんびりと旅行しながら、つまらない冗談を言って笑いあおう」
「あははっ、そうね、私もうそんな感覚とっくに忘れてしまってたわ。じゃあ来世で。約束だからね。絶対だからね」
先ほどまで鬨の声を上げて戦意を奮い立たせていた神兵たちも、リリスの力を垣間見せられただけで戦意を失い、瘴気から逃れようと我先に逃げ出そうとするものまでいる始末だ。
阿鼻叫喚の叫びとパニックの中、ゆっくりと、目を閉じたまま、それでも目標を少しも見失わず、まっすぐ、ただまっすぐに、アシュタロスとリリスは神兵たちの間を割って近づくと、丘の上に立つクロノスとイシターの目にも、瘴気に歪むその姿がようやく見えるようになってきた。
深淵の悪魔の姿は、誰もが想像するものとは違っていた。逃げ惑う兵たちも、その姿を見たものは恐らくはまさかと思っただろう。
アシュタロスは年端もゆかぬ少年だった。
リリスは美しく可憐な少女の姿をしていた。
服装はとても粗末なもので、まるで穀物を詰める麻袋に穴を空けて頭からかぶった物に、帯を締めただけのようにも見えた。それはこの世界では最もみすぼらしい貧民の着衣だった。
アシュタロスは目が見えないのだろうか、目を閉じたまま杖をついていて、リリスに手を引かれながらようやくクロノスたちの待ち構える小高い丘まで差し掛かると、何事もなかったかのように話し始めた。
「なあ、妻が戻らないんだ。何日か前、俺を訪ねてきた奴らに聞いたら、お前が倒したというじゃないか。だから今日はここに真偽を確かめに来たんだが。んん?」
目を閉じたまま首をかしげるアスタロス。
そう、アシュタロスが言う妻とは、13年前にクロノスたちが総力を挙げ、やっとの思いで倒したヤクシニーのことだ。そして何日か前に訪ねて来た奴らとは、5日前、奇襲をかけると言って打って出た二人の仲間のことだろう。
そう簡単に倒せるわけがない。奇襲をかけたのは、この世界でも一、二を争うほどの強者だった戦神メルクリウスに、闇の権能を持つ夜の女神ニュクスが付いていながら夜襲に失敗するとは思えない。
メルクリウスとニュクスが帰らず、アシュタロスとリリスがここに立っているということは、奇襲に成功しておきながら、それでも倒せなかったということだ。
予想はしていた。
しかしいまそれがはっきりと分かった。
改めてクロノスはまた苦楽を共にした戦友を失ったことに、無意識だったのだろう、奥歯をかみしめて、きしむ音がイシターの耳にまで届いた。
「メルクリウスとニュクスは倒されたのか……」
「んー、倒れたというか……爆発したな。そんな事よりも妻は? まさか本当に倒されてしまったのか?」
クロノスは手の震えを強引に抑え込むと、丘の上から戦友の仇をギラリと睨みつける。
目を閉じたままでいるアシュタロスとは対照的だった。
腰に差した剣をスラッと抜いて構え、剣気を放つと共にアシュタロスの問いに答えた。
「そうだ。ヤクシニーが帰ることは未来永劫ない」
一呼吸したか。しばらくの沈黙のあと、目を閉じたまま、耳だけをクロノスのほうに向けてアシュタロスは答えた。その表情は苦渋を舐めるかのように口惜し気だ。
「くっ…‥‥。妻に仇なすような者が未来を語るか。もはやお前には語る未来などないというのに……」
アシュタロスは仇敵クロノスを前にして、閉じていた目をゆっくり開くと視界のすべてが炎を噴き上げた。神兵たちは言うに及ばず、草木まに至るまでアシュタロスの視界に入った物はすべての生命が火柱を上げて炎上し、爆散したあと……、音もなく灰になっていく。
この炎はアシュタロスの攻撃によるものだが、源は攻撃を受けた側の魔力である。
そう、アシュタロスは人の肉体に宿る、魔力の根源であるマナに火をつけて人体発火を起こさせる。
「ヘリオスの僕クロノスよ、よくも妻を……。お前は念入りに殺してやる。後ろにコソコソ隠れてる女も殺して我が妻への手向けとしよう」
盾で半身を隠すクロノスも激しい炎を纏った。もはやアシュタロスの前では、生きとし生けるもの総てが燃え上がり、灰となってこの世界を覆う暗雲となる。
暗雲はやがて大地に堆積し世界を滅ぼすのだ。
「恐ろしい魔導だな、アシュタロス。私の力ではお前を倒すことはできなかった。……だが、止めねばならん。この世界に生きる命のため、子らの未来のため!」
クロノスの気合と共に剣気が放たれ、最後の戦いが始まった。
―― ドゥオオオオォォォンンンン!!
―― ドドドドオオオオオンンン!!
そして激しい大爆発が起こる。
アシュタロス最大の攻撃魔法、これが爆破魔法だ。
爆破魔法はファイアボールの魔法に見えて、着弾すると大爆発を起こし、一切合切を吹き飛ばす。直撃しなくとも周囲にいる者は衝撃波で大ダメージを負うという恐ろしい魔法である。
いまアシュタロスが使った爆破魔法は小さな規模であるから戦士たちが十数人吹き飛ばされるだけで済んだのだが、自らの身が致命的なダメージを受けることを厭わなければ、爆破魔法は一発で山すら吹き飛ばし、地形を変え、地図を書き換える必要があるほどの威力に高めることができる。
更にリリスは光の権能を持っている。
つまり高位の治癒魔法を使えるのだ。
アシュタロスにいくら手傷を負わせたところでリリスが瞬時に治癒させてしまう。
この悪魔たちのコンビネーションを崩すには、まずリリスから倒す。これは必須であった。
しかしことはそう簡単ではない。いかにクロノスといえど、アシュタロスの視線を受け、身体から炎が噴き出してしまうと、死の宣告を受けたようなもの。長時間戦うことはできないからこそ、短期決戦でまずはリリスから倒す必要がある。
自分たちの背負う人の未来が重くのしかかる。
人の住める土地がどんどん少なくなっているし、戦える男の数も、もうこの世界にはほとんど残っていない。
戦闘は長くはかからなかった。
クロノスとイシターは分析では二対八と分が悪かったものを、重い防具を捨てて極限まで機動力を高めたことで互角以上に戦闘を巧く運び、運も味方につけたことから、ついにアシュタロスとリリスは倒れ、もう二度と復活することのないよう、神々が用意した"小さく閉じた輪廻の輪" へと封印することに成功した。
この四世界を支配する十二柱の神々は、その主神のうち七柱と、この世界の七割を失うという甚大な被害を受けながらもこの戦争を辛くも勝利したが、巻き上げられた灰の暗雲は季節風に乗って世界を巡り、空は何年も晴れることはなかった。
太陽が陰り続けたことで多くの草木が枯れ落ち、作物も育たず、この世界に生きる民たちは飢えて次々と命を落としていった。最初こそ勝利の美酒に酔いしれていた神々も、世界規模の大災害を受け、民たちが飢えるのを止められないと知るや、早々にこの世界を見捨て、別世界へと去っていった。
ここは神々に捨てられた世界、スヴェアベルム。
だが生命力は深淵の呪いを凌駕した。
幾度となく空を洗う雨が堆積した灰を流し、昼なお暗い大地では岩に苔が生むし始めると、やがて世界は再び光を取り戻し、天空に蒼穹が戻っても神々は戻らなかった。
またアシュタロスが復活するのを恐れて、別世界への門を全て閉ざしてしまったのだ。
あれから何千、何万の年月が過ぎただろうか。辛うじて生き残った人々が細々と生命を繋ぎ、やっと生活を取り戻したこの世界で太古の神話が語られる。
滅亡と戦った神々の物語が英雄譚として語られる。
物語の中でアシュタロスは破壊神の名を戴き、リリスは灰燼の魔女と高らかに歌い上げられた。
物語を締めくくるクライマックスシーンでは、悪の破壊神といえども情けなく涙を流しながら、クロノスに倒されたリリスを抱いて、背中で庇うように何本もの槍で刺し貫かれた後、英雄クロノスの剣により首を跳ねられて止めを刺されるという、破壊の限りを尽くした悪魔の最期としてはありがちな、とてもみじめな結末で描かれた。
ある時は子どもの寝物語に聞かせる童話に、ある時は劇場で観られる大活劇に姿を変え、人々の記憶からアシュタロスの大災厄が忘れられても、物語は英雄譚として語り継がれた。
時が終わりに向かって流れるように、物語は終焉に向かって何度でも動き始める。
滅亡へ向かって動き始める。
そう、何度でも。
終わりに向かうために、物語は始まる。