第四話 ソルナトーン
「うー……」
エージュがジノの所属する研究室へ入ると、ソエルの唸り声がいきなり聞こえた。目を向ければ、自習用の机に向かい、何かを熱心に読んでいるソエルの背中が見えた。ソエルは頭が切れる。思考を巡らせるための知識も深く、エージュに比べて読書量は多い。同じ本でもソエルはエージュの半分以下の時間で読み切り、中身を記憶している。
頼りにはなるが、脅威にもなる。難しい問題だ。そんなソエルの頭を悩ませる参考書が、エージュには恐ろしくも感じた。
エージュも自習用に持ってきた魔導書を片手に、ソエルの隣の自席へ座る。椅子を引く音でやっとソエルはエージュに気づいた。
「あ、エージュ。遅かったねー」
「今日の教官の課題がな……」
エージュとソエルは、ジノに魔法と武器戦闘の両方を見てもらっている。今日は、魔法訓練だった。みっちりと苦手な属性の訓練を受けさせられたエージュは、正直疲労感が強い。
しかしここで根を上げればそこまでだと、自分を奮い立たせていた。ソエルはそんなエージュの苦労を一番分かっている。
「そっか。お疲れー、エージュ」
屈託なく笑うソエルにエージュは苦笑して、ちらりとソエルの拡げている本を見やった。
さっぱり分からない言語が並んでいる。思わず眉をひそめたエージュに、ソエルがああ、と小さく零す。
「人体解剖書だよー」
「またマイナー言語の参考書を使ってるな」
「そうかなー?」
首を捻るソエルにとっては、大したことはない言語らしい。
世界の数だけ言語がある。実際には、ソエルとエージュの言語も、それぞれが違う。だが、それでは仕事が出来ない。そのために、翻訳言語が監査官には常にかけられている。
といっても、全員が同じ種類の言語を理解し、使用することが出来るわけではない。個人差が大きいのは事実だ。だからこそソエルには読めて、エージュには読めない参考書がここにある。
「ソエルは、案外渉外になった方がいいんじゃないか?」
「うーん。考え中かなぁ」
ソエルは管理よりも渉外の方が向いているとエージュは思っていた。
渉外は新しい世界の言語調査も行う。つまり、翻訳言語に特化した監査官の方が向いているのだ。ソエルなら、鍛えれば一級品の翻訳言語使いになれる。
そう信じているエージュは、ソエルに渉外を薦めたつもりだった。だが思いとは裏腹に、ソエルはうーん、と唸って天井を見上げる。
「でも、私エージュの相棒だから……渉外じゃ一緒に仕事できないでしょ?」
上を向いたまま、視線だけを寄越したソエルに、エージュは言葉を失う。
ソエルは、一緒にいる事を望んでくれているのだという現実に。こんなどうしようもない、自分のために。嬉しさよりも戸惑いが先行する。
黙ったエージュに構わず、ソエルはへらっと笑った。
「それにね、管理って私にとっても憧れなんだ。だから、考え中だよー」
それにしても難しいなー、と呟いて、ソエルは参考書へ戻った。
少しだけ、エージュはソエルが羨ましくなった。エージュは、管理しか考えられない。目指す人がいるからだ。それは目標でもあって、しかし制限でもあるのかもしれない。自由な選択が出来ない、縛り付けられた心。
そんな自分の心に、エージュはまた少し感情が、黒く澱む。
◇◇◇
「はぁぁ……やっと終わった……」
扉が開くと同時に零れた疲れた息を吐き出し、ジノは戻ってきた。
「あっ、おかえりなさい教官!」
読みふけっていた参考書から顔を上げ、ソエルは明るく迎え入れる。
ジノは歩くのも億劫そうに、足を引きずるようにして自分のデスクへ向かう。椅子に身を沈めると、ジノは深く息を吐き出した。
くるっと椅子を回して、ソエルはジノへ体を向ける。
「任務だったんですか?」
「論文提出。……助教も楽じゃない……」
なるほど、と納得の苦笑を二人は浮かべた。
ジノは監査官である一方で、この魔法学園の教員でもある。非常勤のようなものだが、それでも仕事は仕事だ。
ソエルはぱっと席を立って、奥の給湯室へと向かった。ジノにお茶を入れるためだ。流石に、そういう気遣いはソエルが早い。
「そういえば、今日は任務を引き受けてないのか?」
大人しく自習していたエージュに、ジノは意外さを感じたらしい。
任務に固執してるわけではないと自負していたエージュは、若干傷付く。もっとも、否定できるわけでもないのだが。
「たまには休むのも大事だって言ったのは、教官ですよ」
せめて小さな反抗に踏み切ったエージュ。だが、ジノはエージュの反応に何故だか嬉しそうに頷いた。
「そっか。エージュも考えてくれるようになったんだなぁ」
弟子の成長を純粋に喜んでいたらしい。良心が痛む……。
「じゃあ、今回はやめとくか。休みは大事だしな」
うんうん、と一人頷いて監査官用の通信端末を取り出したジノ。その挙動にエージュはピンと来た。
「行きます!」
「え、でも」
「たまたま丁度いいレベルの任務がなかっただけですから」
嘘だった。ジノの課題に疲れて単純に休んでいただけで。
だが、任務となれば話は別だ。自分の単純さにどこか呆れつつも、エージュはジノを真剣な視線で見つめる。
ジノはそんなエージュにぱちぱちと目を瞬かせる。
「……ただの荷物持ちになる可能性大だけど、それでもいい?」
「構いません。教官がその任務を薦めようとした理由は、あるはずです」
荷物持ち、でも意味はあるはずだ。
以前、上級渉外監査官エウィンの任務に同行した時のように。その任務から得ることがある可能性は、ゼロではない。そして、得るものがあったのならば、それはエージュの目指す存在に近づく糧になるはず。そう強く思うエージュは、このチャンスを逃す気はなかった。
「……ちょっと、変わったな。エージュは」
小さく笑って、ジノは言う。
変わった、というフレーズが、エージュの中で不安に変わる。それは、良い方へ、なのか。あるいは……
「おっけ、分かった。じゃあソエルと一緒に行ってもらうかな。ああ、そうそう」
通信端末操作に意識を戻しながら、ジノは楽しげに目を細めた。
「珍しく、管理の仕事なんだ。エージュの目指す、な」