第一話
――ごう、と唸り声のような音を孕んだ湿った風が、爆風となって襲いかかる。
エージュは胃がひっくりかえるような、生ぬるい匂いが混じった風を極力吸わないようにしながら、疾走していた。再びエージュの背後から強風が迫る。
エージュは、身を伏せることで耐え、風が収まるのとほぼ同時に、低い体勢のまま、前へ。風にあおられ、エージュの栗色の髪が激しくはためいた。
生い茂る木々の間を駆け抜けるエージュの瞳は、冷静だった。追われているという自覚を持ちながらも、前方を見据え、転倒リスクを避けるコースを走る。
どすっ、と数瞬前までエージュが居た空間に、巨大な生物がその太い体幹で襲いかかっていた。その衝撃は激しく、離れていたはずのエージュでさえ振動でバランスを崩す。だが咄嗟に、勢いを受け流すために前転して転倒を回避。タイミングを取って、体を向き直らせる。
エージュは何の装備もない……丸腰だった。武具類もほとんど身に着けていない、その辺りを散歩していたところを襲撃されたかのような身軽さ。だがその瞳は、敵意をむき出しに、『それ』を睨み付けていた。
黒い毛並みの、巨大な二本の足。そこから上……つまり上半身は、緑の皮膚をした武骨な筋肉質な身体。表面は何やら粘液で滑り、降り注ぐ光を不気味に反射する。
(見てるだけで、気持ち悪いな……)
そんな感想を抱きながら、エージュは敵を見据える。頭部は二本の角があり、口を強くへの字に曲げた赤ら顔。
「合成種の魔物か……面倒だな」
エージュはぽつりと呟いて、右手を軽く振った。その手には、空気中から取り出したかのように、武器が握られている。青白い刃を持つ、槍だ。
「だけどっ!」
短く叫んで、エージュは地面を蹴った。
――ガァン!
とても体に打ちつけた音とは思えない甲高い音が、異形の腕を突いた槍から響き渡る。
だが、音を立てただけで、異形の表面には傷一つつかなかった。のったりとした動作で、槍を掴もうと手を伸ばす魔物。エージュはすぐさま飛びのいて、距離をとる。
硬い。硬すぎる。あれで動きが早ければ、とうにやられていた。
エージュの頬を、冷たい汗が一筋、伝い落ちた。恐ろしく遅いスピードで、エージュを掴もうとした手を確認する異形。隙だらけ、だった。
しかしその硬すぎる表皮は、それだけでエージュの行動を制限する。じりっ、と本能的に後退し掛けたエージュの耳へ。
「諦めるには早いよ、エージュっ!」
緊迫した空気を切り裂く、高く明るい少女の声が響いた。それにわずかに遅れて、異形の足元に白い魔法陣が浮かび上がる。
『拘束の呪詛』……その術を、エージュは良く知っていた。
異形は白い魔法陣に足元を縫い付けられ、身動きが取れず悲痛な咆哮を上げる。その様子に、エージュは再び敵意を練り直す。
「……お前は居るべきところへ帰るんだよ」
ぽつりと呟いて、エージュは口元に笑みを浮かべる余裕さえ出来た。手にしていた槍が、薄く光を帯び、形状を見る間に変えていく。
鋭さを失い、先端に球体のついた……青白い杖へと。目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えて意識を集中する。赤く、灼熱のイメージをはっきりと浮かべる。
集中が高まると同時に、魔物の咆哮が遠ざかる。灼熱の炎が、エージュの意識を照らす。
そして、エージュは目を開き……
「燃え落ちろッ‼」
業火が、異形の悲鳴さえ飲み込む様に炸裂した。
◇◇◇
「やった、さっすがエージュだねっ!」
全身で称賛を表現するソエルが跳ねる度に、そのツインテールがぴょんぴょんと舞う。薄手のパーカーに、ショートパンツスタイルのソエルも、エージュと同じく軽装この上なかった。ソエルがくるりとエージュの前で回転して、消し炭になった異形を見下ろす。遠心力で回るソエルの茶髪が、ぱさっ、とエージュの顔面を直撃しかけ、エージュは咄嗟に手で阻んだ。
「……ソエル、少し髪切れよ」
「え、やだよー。この長さが気に入ってるんだもん」
ぷいっとそっぽを向いたソエルの横顔に、エージュはため息をついた。ソエル・トリスタン。先ほどエージュを援護した『拘束の呪詛』を発動させたのもソエルだ。エージュは異形を一撃で燃やし尽くす魔法を使いこなす。
ソエルの年齢はエージュと同じ十六。しかしこと戦闘能力にかけては、同年代の少年少女とは一線を画したレベルにある。
もっとも……、『組織では』周囲より少し秀でているレベル、という扱いの二人でもある。
「あ、いたいた。ソエル、エージュ」
ぱっと二人は声のした方へ顔を向ける。鬱蒼とした木々の間から、彼は姿を見せた。ぞろりと長い紺色のローブを羽織り、男性にしてはやや長い緑の髪。
肩口でわずかに跳ねた毛先が邪魔らしく、鬱陶しそうに除けながら、慣れた足取りでやってくる。見た目は、ソエルやエージュとそれほど年が変わらないように見えるが、二人にとっては『教官』だ。
「教官ー! やりましたよー!」
ぶんぶん大きく手を振ってソエルが告げる。彼は苦笑いを浮かべながら、小さく頷いてみせた。
「分かったから。仕事も終わったんだし、帰るぞ」
「りょーかいですっ」
どこまでも楽しそうなソエルに、エージュは呆れた表情を浮かべる。教官はそんなエージュに微かに笑って、ひらっとローブの裾を翻した。
この場に存在しない香りが、教官を中心にふわりと漂い……次の瞬間、三人の姿は幻だったかのように、消え去った。
――ひゅぉっ、と風が吹き抜け、異形だった灰が舞い上がりその存在の証を連れ去っていった。