第六話 2
――数日後、次元総括管理局本部。
その日は、昇級試験も、大きな事件もなく、本部は閑散としていた。事務仕事に追われる職員以外は、談笑しながら歩いている。
エージュが立っていたのは、医務室の扉の脇。腕を組んで、壁に背中を預けて、じっと天井を見上げていた。言うべき言葉を、繰り返し思い浮かべながら。
不意に、ぱしゅ、と扉の開く音。エージュはその音に機敏に反応して、背中を浮かす。姿勢を正して、左側へ体を向けた。
やや遅れて、出てきたその姿にエージュはすかさず声をかける。
「あのっ……」
つい、と視線が向けられた。肩に青い竜を乗せた、いつもの白い法衣のクオル。その紫の瞳と目があう。
……ふと、エージュは違和感を覚えた。
「何か用ですか?」
いつもの通り付き従っていたブレンが、どこか刺々しく、エージュへ尋ねた。前回の件を、完全には許していないのだろう。
ブレンから伝わる拒絶にエージュが口を濁していると、クオルが息を吐いた。
「気持ちは分からんでもないが、少し落ち着け。今回は前回ほど酷くない」
「そういう問題じゃ、ありません」
「私は構わんが、そうやって突っぱねていると、困るのはこれ自身だぞ?」
クオルが窘め、ぐ、と言葉に詰まったブレンは渋々黙る。
何か様子が、おかしかった。いつものクオルらしくない口調と態度……雰囲気そのものが、違うとエージュは感じていた。それを言葉にするのは、難しいのだが。
冷たい笑みを浮かべて、クオルはエージュへ尋ねた。
「で、何の用だ?」
「……え……あ……」
まるでクオルではない誰かと話しているようで、戸惑うエージュに、苦笑してクオルが言う。
「悪いが、今『こやつ』は寝ているのでな。用件なら、私が後で伝えておく」
「は……?」
「用がないのなら、行くが?」
エージュはその言葉に慌てて首を振る。
クオルであってクオルではないような受け答え。理屈はよくわからないが、伝えるべきは一つだった。
「助けてもらったお礼……まだちゃんと、言ってなかったんで。ありがとう……ございました。それと……」
「それと?」
そこで一旦言葉を切って、エージュはゆっくりと、告げる。
「俺は、諦めませんから。絶対に、滅ぶ世界を見捨てたりなんか、したくない。だから、強くなって世界を助ける方法を考えます。それが……あなたに助けてもらった、俺のなすべきことだって、思うから」
クオルはその言葉に、静かに笑みを浮かべていただけだった。
肯定も否定も、賛辞もなく、クオルは問いかける。
「それが、茨の道と知ってか?」
「分かりません。俺は……きっと何も分かってないから」
「ならばそれは誰かが、喜ぶと思っての決断か?」
それにはすぐさま首を振る。クオルは怪訝そうな表情を浮かべて、じっとエージュを見据えた。
エージュは小さく笑って、そんなクオルへ返す。
「俺が、嬉しかったから。助けてくれた貴方の姿自体が、俺にとってはただ一つの、残された希望だった。だから……俺が俺であるための、我儘です」
「そうか」
それだけ答えて、クオルは踵を返して歩き出す。
納得したわけでも満足した様子でもない、ただ受け止めただけの態度だった。
ブレンは黙ってクオルに従い、歩き出す。エージュは引き止める言葉もなかった。
数メートル歩いて、ふとクオルが足を止め、横顔だけ振り向かせる。
そうして、微かに口元に笑みを浮かべ、言った。
「良いのではないか? 誰かを助けるなど、自己満足のなれの果てでしかない。それを理解しているのであれば、お前はきっと、正しく人を救える」
「……はい。あの、最後に一つ」
「なんだ?」
「貴方は、誰なんですか?」
尋ねたエージュに、クオルはつい、と視線を前に戻した。
「……イシスだ。覚えておけ」
こくりと頷いて、エージュはその背を見送る。
クオルであり、イシスであるというその姿を。
またひとつ知らないクオルがいる。少し近づけば、また突き放されるようだった。
それでも、エージュはクオルを目標とすることに、疑問を抱くことはない。
今は絶対に届かないその姿だった。だが目指すべき背中。その背中を見えなくなるまで見送って、エージュは息を吐いた。
「あー、いた、エージュー」
底抜けに明るい声が聞こえる。
振り返ると、右手をぶんぶん頭の上で振りながら笑顔で走り寄ってくるソエルが見えた。
「もう、探したよー。こんなところで何してたの?」
「ちょっとな。……それより……」
言いかけたエージュの眼前に、ソエルがずいっと通信端末を突きつける。
「近すぎて見えない」
「あはは、ごめんごめん」
からからと笑うソエルは、あんな現実を見ても、まだエージュの夢を応援してくれている。
管理を諦める、とも言わず。それはソエルの強さで、優しさだとエージュは感じていた。
だからこそ、簡単には諦められないのだ。この生き方を、支持してくれる誰かがいるのなら、迷いは捨てられる。
故郷を失った自分のような存在を一人でも減らす。その願いは、濁らない。




