思う と 海
一
医師は言った。
「これは、心理療法としてのロールプレイングだよ。役割を演じことで相手の気持ちを理解しようとするものさ。子は親に親は子に、妻は夫に夫は妻にというように、まあ、もめている相手側を演じてみるってことかな。意外と有効なんだがね。本当に関係性が壊れていたり、一方的であると、そもそもこの療法に参加してくれないのさ。いじめられている子の気持ちをわかろうと、わざわざいじめている側がこの場に来ると思うかい。」
医師は私にヘッドマウントディスプレイを渡した。
「だから、MMOを利用しようと思ったわけだ。役割を演じることだけでも、視点の転換が起こる。それは意味があるのではないかと考えてね。なにより、相手がわからないのだから参加がしやすいと思わないかい。ただ、ゲームじゃないから、剣も魔法も魅力的な世界もない。ただ、今とは違った場所で何かになることができる。
君は本当に人間関係に疲れているね。暗い顔をしすぎだよ。まあ、やってごらんよ。どんな場所になるかはサーバーが勝手に決めるから、ただ、それをかぶって何かになってみるといい。操作はマウスで視点方向を決めてクリックすると歩き出す。マイクもついているから話はその場にいるかのようにできる。やめたければ、ヘッドマウントディスプレイをはずせばいい。ただ、その世界には多くの人が何かになっているから、一応はずすときは誰もいない場所ではずしてくれ。突然君が消えると白けてしまうからね。言葉を話す登場人物は誰かが役割を演じているのだということを忘れないでくれ」
私はうなずいてヘッドマウントディスプレイをかぶった。
二
海があって、岬があった。海辺の小さな港町だった。
「仕事につかれた四十代の男を演じてください」とディスプレイ上に表示され、そして消えた。
ヘッドマウントディスプレイをはずし、医師に、そのままの自分だが何か役を演じないでよいのかを聞いた。医師はそのままの役で一向にかまわないが私に何か希望の役があれば設定すると応えた。特に希望はないのでディスプレイをかぶりなおした。
私は再び港町に出現した。マウスを操作し、太陽に熱せられたアスファルトの道を歩いていた。まっすぐに伸びた道で目線の先に海が見えた。しばらく歩いていると半透明の子どもが二人見えた。
私は再度ヘッドマウントディスプレイをはずして、医師に人が半透明になっている子ども達がいるのでシステムにエラーがあるのではないかと言った。医師は自分の前のパソコンを見ながら登場人物に幽霊の姉弟がいるのでそれだろうと応えた。どんな役でも一応何でもありだと医師は言う。幽霊になりたいと思ったものが少なくとも二人いたということらしい。
私はディスプレイをかぶって港町に現れた。急に現れたので、子どもの幽霊たちも私に気づいた。
「ねえ、私が見えてるの?」と首をかしげながら半透明な女の子が私を見ていた。二人とも小学生だろうか。
「見えているよ。」と私は演じた。
「すごいね。おじさん。僕たち幽霊なのに」と男の子は言ったあと、女の子の後ろに隠れた。
「おじさんも幽霊なの?」と女の子は言った。
「いいや、違うよ。幽霊が見えるし、声も聞こえるけど幽霊じゃないんだ。おじさんはね。いつごろからだったかなあ。働き始めて十年ぐらいしたころから、自然と幽霊を見たり、話したすることができるようになったんだ。」
「そうなんだ」と女の子はいった。姉の背後から男の子はじっとこちらを見ていた。
「いくよ」といって女の子は弟の手を引っ張って去ってしまった。男の子は何かを言いたかったようなそぶりに思えたが仕方がない。男の子が手を振ったので振り返した。
二人がいなくなると私は再び歩き出した。すると一匹の白い猫が道の真ん中に歩いてきて、じっとこちらを見た。
「あんた。面白い目をしているね。」と猫が言った。幽霊がいるのだから、話す猫がいても良いのだろうと納得することにした。
「猫にはそう見えるのかい。私の目は普通のつもりだけど」と演じた。
「目の形を話しているわけではないさ」と猫は言って何事もなかったように去っていった。
どこかに、仮想世界の自分の顔を写す窓ガラスはないものかと周りを見渡すと白衣を着た半透明の中年男がいることに気づいた。幽霊になりたい者は多いのだなと思う。
白衣の中年男は私に近づいてきながら「おやおや、この幽霊の目医者が貴方は見えるのかい。」と言った。白衣なのは医者だからのようだ。目を気にすると都合よく眼科医が出てくるのは、やはり仮想世界の設定だと思うが、この眼科医も誰かが演じているのだから眼科医を演じたいと思う人が待機でもしているのだろうかと思う。
「私は目の医者だから、貴方の目が不思議なものであることがわかるんだ。貴方の目は、光の下でないものを見ることのできる目だよ。例えば私のように死んでしまった者を見ることもできる目だよ。」と目医者は言った。
幽霊とやたらと会うのは、そういう世界設定だからなのだと納得した。目医者は「この目は猫に時々現れることがあるのだけど、人の目にあるのを初めてみたよ。人だと話すこともできるんだね。驚いたよ。」と言った。
「この目は治りますか?」と目医者に尋ねたら「治したいのかい。」と応えられた。考えてみると現実ではないのだし、幽霊や猫と話せるというのは面白いような気がする。「治さないでください」と私は目医者に告げた。
目の医者に、さよならと言って道を下って行くと、海岸に出た。カモメが飛んでいると思ったら目の前の塀に止まって「おい!その目を持って海へ行くつもりなのか!」とカモメに怒鳴られた。
「どうしてこの目を持って海に行ってはいけないのかな?」と、カモメに言うと「海は生き物と死に物だらけだぞ。うるさくて目と耳がパンクしてしまうぞ」と応えた。目と耳がパンクしそうになったら、ディスプレイをはずせばいいと応えたらルール違反なのだろうと思う。私はかもめに「でも、行ってみたいと思う」とかもめに伝えた。
かもめは「自己責任だぞ」と応え飛んで去っていった。
しばらく歩くと港の端に来た。私はそのまま海へ飛び降りた。ザブーンと水しぶきはあがって、海の中に入ったものの、当たり前だが息苦しくはなかった。
海底に着いた。見上げるときれいに日光が入ってきている。浅いのだなと思う。
歩いていると、亀が泳いでいた。亀が驚いて「こんなところに、どうして人がいるんだ。まったく、こんなところまでやってくるとは面倒な存在だ」とつぶやきながら去っていった。
歩いていくと薄暗くなってきた。深くなっているのだ。すると岩陰からのっそりと現れたのは大きなタコ。さすがに不気味であった。タコはギロリとこちらをにらんで、
「去れ。去れ人よ。ここは人を捨てたものの世界。お前の目はたくさんの生き物や死に物ものを見てしまう。引き返せ。海には見えても聞けても人の身では理解できぬものが数限りなくあるのだ」
「魚の気持ちならボクわかるよ。海の中をすべてボクは知りたいんだ」とタコに応えたのは幽霊の男の子だった。いつの間にか私の後ろに先ほどの幽霊の姉弟が立っていた。
男の子は続けて「ボクが、こんな幽霊になったのも魚に夢中になり過ぎたからなんだ」と言った。
私は男の子「魚を追いかけて死んだっていうのかい」と尋ねると「そうだよ。ボクはフェリーに乗っていたんだ。海を見ていたら、たくさんの魚の群れが見えたんだ。夢中でみていると無意識に乗り出してしまって、船から落ちてしまったんだ。それを見ていたお姉ちゃんもボクを助けようと、あわてて飛び込んでしまったんだ。周りの誰も二人に気づけなかったんだ。フェリーがどんどん小さくなって、ボクたちは気づいたら幽霊になっていたんだ。」
タコは男の子に「お前がどんなに願おうと、この世界は人ならぬものしか海はわからない。去れ人の霊よ。」
男の子は怒って「ボクは海のすべてと会いたいんだ」と言った。
タコは語りかけた「人の霊よ。お前は霊になっても、その男のような光の下でないものを見ることのできる目を持っていない。海のすべてのことを見聞きすることはできないのだ。海を離れて地をさまようほうが良いぞ。」
姉はこの場を去ろうと「もどろうよ」と弟を引っ張るが弟は頑として動かない。
「お姉ちゃん。ボクはね。海の下に行こうと思う。どうしても行きたいと感じるんだ。お姉ちゃん。もうボクの手を離していいよ」
姉は「また、そういうことを言う。もどろうよ」と怒った。
そしてポツリと「ひとりはね。さびしいよ」と姉は弟につぶやいた。
弟は「知ってるよお姉ちゃん。知ってるよ。でもね、もうお父さんとお母さんのところへ行っていいよ。先に天国に行っていて、海がすべてわかったら後からいくから安心していいよ。ねっ、すぐにいくから。」
タコは二人に向かって「人はわからぬ。人はわからぬ。言ったであろう。お前は目を持たないから、本当の海は決して見えぬ。お前も姉と天とやらにいけ、そこが人の行き着く場所なのだろう」しばらく弟は黙り込んだ。 突然私を指差し「目を持つあなたに、その目は必要ですか」と言った。私は「この目は良くも悪くも私の目だよ。物を見るために必要な目だよ」と返すと「だったらボクの目と交換してください。」とサラリと言われた。
男の子は続けて「ここは不思議な世界です。あなたが交換するといえば交換できるのです」
私は思わずタコに「本当にできるの?」と聞いてしまった。タコは2本の足だけ持ち上げながら「人はわからぬ。人はわからぬ。私も昔、目を交換した、言葉を交換した。しかし、海の中では人はわからぬ。人も海をわからぬ。目でわかれば、鼻がわからぬ、口でわからぬ、手足がわからぬ」タコはおかしくなっているように思えた。ただ、交換はできるのだとわかった。
交換するか悩んでいると姉が私の服を引っ張って「交換はしないでください。目を交換したら弟と見えるものが変わってしまう。そしたら、ついていけなくなる。私たちはお互いが邪魔になってしまう。」
弟は姉へやさしく「お姉ちゃん。もう見ているものは違っているよ。ボクは海をみて、お姉ちゃんは天を見ているんだ」
姉は泣き出し「わかんない。わかんないよ。私は選べない」と叫んだ。「お姉ちゃん。わかんないから、お互い良いと思うことをするしかないよ」と弟が諭していた。姉は弟をにらんで「ずっと一緒にいたいのに、どうしてそんなこと言うの!」と言った。姉は「あなたが一人になってしまうじゃない。さびしいじゃない。」大泣きを始めてしまった。
タコは「人よ、人よ、やめておけ。その目があってもわからんよ。わからんよ。海は無限だ」
弟は「ボクは行きたい!」
タコは言うことを聞かない男の子に頭を抱えながら「どうする大人よ、どうする姉よ」と言った。
「わからない。わからない」と姉は泣き続けている。姉の額に弟はキスをした。
「じゃあね。お姉ちゃん。ボクはここで行きます。お父さんとお母さんにもすぐに行くと伝えておいてね」と弟は言った。
そして私を見据えて「その目を私にください」と言った。私は「この目を失うのが怖いな」と正直にいった。
少年は「あなたは、あなたの住む世界で『広さ』が見えているのでしょう。」と私に言った。
私は「ここは不思議な世界なのだね……いいよ、この世界での目を交換しよう。どうしたらいいか知っているかい。」と少年に問うと、少年は「目を閉じて」と言って私の目に触れた。
すると私は砂浜に立っていた。いつどのように海から帰ってきたのか思い出せない。しばらくここに立っていようと思った。
すこし海が赤く染まってきた夕暮れになったようだ。さてどこに帰ろうか。どこに戻ろうか。私はヘッドマウントディスプレイをはずすことにした。
(おわり)