第三話
白い紙の箱から、なんともいえない美味しそうな匂いが漂い、聡子の鼻腔をくすぐった。
それにともない、腹の虫が大合唱を始める。
(ああ、もうたまらん)
「グ……グラモンデ クラッシィの限定ランチボックスだぁ~」
聡子は涎を堪え、紙の箱の中身を眩しそうに見つめた。
「自転車を飛ばして買ってきたんだから、まだ温かいはずよ。私の脚力を甘く見ないで頂戴」
萩原女子は腰に手を当て、ポーズを決めた。モデルのようにすらりとした長身に、小さな顔。スカートから覗く足はまるでかもしかのようだ。普段ならそんな萩原女子の脚線も大好物な聡子であったが、とりあえず今は腹の虫を宥めることに集中しているらしく、ランチボックスから目を離さない。
「海の幸のミキュイ、生ハム・トマト・チーズのシンフォニー。おお~まったりとしてまさしくこれこそシンフォニーと呼ぶのに相応しい一品……今日は企画書がボツになったり、お昼ごはんを食べ損ねたり、悲しいことが色々あったけど、人生ってきっと涙の数だけ幸せがあるものなんですね。私今最高に幸せです」
フォークを握りしめ、聡子がしみじみと呟いた。
「定価千八百円でそんなに喜ぶなんて、安い女ね」
萩原さんは呆れたように笑いながらため息を吐いた。
「千八百円を笑うものは千八百円に泣くのです。萩原さん。だいたい人生なんて便秘が解消して、美味しいものが食べられたなら、八割がた成功したと言っても過言じゃないでしょう」
聡子がそう力説すると、萩原はぷっと吹き出した。
「もう、東雲さんたら安い上に単純な人ね。ほら紅茶淹れたわよ」
ウェッジウッドの淡いピンクにワイルドストロベリーの模様が可愛いティーカップだった。聡子は、湯気とともに立ち上る芳香を堪能する。
「むっ、この香りはセイロンかな? では一口。おおうっ、これはまた、香り、味、温度、どれをとっても絶妙。ああ~これが美人秘書さんにお茶を淹れてもらう幸せなのね~社長が羨ましい」
そういって聡子はティーカップを持って、机に肘をついた。
「そんなに幸せそうに食べてもらえると、こっちまで嬉しくなっちゃうわ。そこが、あなたのいいところなのかもしれないわね。みんながみんな、あなたみたいに単純だったら世の中、平和に収まるのにね」
最後に小さくため息をついた萩原を、聡子がまじまじと見つめた。
「あのう。なにかあったんですか?」
聡子が尋ねると、美人秘書は肩をばきばきと鳴らした。
「う~ん。なんだかまた寿コンツェルンがよからぬことを計画してるって噂だわ。あっ、食べ終わったらちゃんと片付けといてよね。さあ、ほんじゃあ私は仕事に戻るとするか」
そういって萩原は、聡子を残して控室を出た。
(お疲れのところ、ほんとにすいませんでした)
と聡子は心の中で、密かに萩原に詫びた。
◇ ◇ ◇
「街の再開発……ねえ」
市役所の最上階に位置する市長室で、宝生は気乗りしない風情で窓の外を眺めた。宝生は日本語はネイティブ並みに話すが、父を宝生財閥の総帥(日本人)、母をフランス人に持つハーフである。十四歳になるまではフランスで育った。
「寿コンツェルンは、この計画にいたく協力的です。寂れた商店街を取り壊し、そこに新たな大型ショッピングモールを開発するのです」
市長はえらく熱心に、市の再開発計画を宝生に語って聞かせた。
「最近は大型ショッピングモールなど、どこででも見かける。それよりも昔ながらに続く歴史あるこの商店街を保存し、梃子入れをして後世に残すことのほうが、遥かに価値があるのでは?」
宝生は対峙する市長を厳しく見据えた。
「いや、もう実際時代遅れなんですよ、商店街なんて。駐車場がない上にあちこち歯抜けになった状態で、そんなゴーストタウンのような場所に一体誰が好き好んで買いものに来るっていうのです? そんなになってもいまだに頑固に立ち退きを拒む連中もおりますが、はっきりいって迷惑以外のなにものでもない。それよりもそんな連中をさっさと立ち退かせて、過ぎた時代の産物など、きれいさっぱり取り壊してしまったほうがよっぽど体裁がいいでしょう」
市長の言葉に、宝生はため息をついた。
「少し、考えさせて貰えませんかね」
そう言って宝生は役所を後にした。
「社長、お車へどうぞ」
運転手が黒塗りベンツの後部座席のドアを開けるが、宝生は首を横に振った。
「先に社に戻ってくれ。俺は行くところがある」
そう告げて、運転手にひらひらと片手を振って見せた。
アルマーニのスーツが好奇心を背負って歩いている。まさにそんな感じだった。寂れた商店街には全くもって不釣り合いな出立ちで、宝生はすれ違う人々の好奇な視線を一身に浴びた。
「おっと、これではいかん。商店街の皆さんにいらぬ威圧感を与えかねない」
宝生は、商店街の入り口付近に位置する古着屋『りんどばーぐ』で服を購入した。Pendleton Loboシリーズの青と赤のチェック柄のウールシャツにLEVIS 501の擦り切れた青いジーンズを着用し、きちんとセットされた金髪を無造作に崩すと出来上がりである。三十歳という年齢であるが、もともと童顔なため、充分にそのへんに生息する貧乏大学生で通用する。靴はコンバースのM3310モデルの黒を購入した。まあ無難であろう。
「よお、お兄ちゃん。魚はどうだい?」
商店街の魚正の大将が宝生に声をかけた。
「見かけない顔だね。どっから来たの?」
「えっと、市内から来ました」
そう問われて、宝生は少し戸惑う。
「へえ、ちょっと遠いね。それはそうと今日は生きのいい鯵が入っているんだ、兄ちゃんどうだ?」
「買う♡」
宝生がさも幸せそうに、微笑んだ。
こんな調子で宝生は、商店街のあちこちで買い物をしまくった。
「お……重い。これでは身動きがとれん」
宝生がゼーハーと息を切らしていると、
「おやおや、お兄さん、大荷物抱えて大丈夫かい?」
豆腐屋の女将が、ひょいと店から顔を出した。
「たくさん買い物をして、随分と疲れたんじゃないかい? 家で少し休んでいくといいよ。さあさ、上がっとくれ」
そういって宝生は店の奥にある和室に通された。奥から何やら良い匂いがする。そう思ったら腹の虫が鳴った。
「おや、お兄さんお腹が空いているのかい? だったら今、おからを炊いたから、ついでにご飯を食べてお行きよ。今日は娘も帰ってくるし、どうせなら人数は多い方が楽しいしさ」
女将はニコニコと愛想良く笑って、宝生に夕飯を勧めた。
かんかんかんかん……。
毎度ながらに、鐘の音が富雄の帰宅を告げる。
「おや、母ちゃん。お客さんかい?」
店の前で自転車を止め、富雄が部屋を覗きこんだ。
「ええ、店の前で拾ったんですよ」
女将がほんわかと笑う。
不意に宝生は泣きたいと思った。それほどまでに、ここには胸が締め付けられるような優しい空気が流れていたから。