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第二話

振り返ると金髪が、聡子の弁当をむさぼり食らっていた。

「君ふぁ、いいすふぃんぐしてるほね」

 口にものを頬張りながら、金髪が聡子を見つめる。

「ちょ……ちょっと、あなたなに勝手に人のお弁当食べちゃってるんすか! あーあーあー頑張って、早起きしてせっかく作ったマーマレード焼きチキンのホットサンドがぁ……」

聡子の腹の虫が、きゅるきゅると切なく鳴いている。

金髪は律義に手を合わせ、『ごちそうさま』と言った。

「うまかったし」

しかし不意に見せた金髪の笑顔は、反則だと聡子は思った。

それは秋の澄みきった真っ青な空に走る、一筋の飛行機雲の鮮やかさで、くっきりと聡子の脳裏に焼き付いてしまったのだから。

赤面してしまいそうになる顔ごと、聡子は金髪に背を向けた。

「もう、もう、もう!」

怒気に任せた振りをして、聡子は階段を駆け降りた。

心臓がバクバクいっている。


時計の針が無情にも昼休み終了まで、あと5分を告げていた。

(コンビニに何かを買いに走るのは無理か)

聡子は腹の虫を宥める為に、鞄に忍ばせたカロリーメイトをとりあえず齧った。


東雲(しののめ)くん? 東雲聡子くん?」

「あっ、はい。なんでしょうか? ()禿(はげ)部長」

聡子は空腹のために朦朧とする意識を必死に呼び戻し、訝し気に聡子の顔を覗きこんできた矢禿部長を見返した。

矢禿部長はその名のごとく髪が薄い。典型的なバーコードである。しかしだからといって心優しく愛嬌のあるバーコードなわけではなく、小柄ではあるがその眼力は鋭い。自身も完璧主義者でありながら、他者にもそれを強要する地獄の鬼のような男だった。しかしだからこそ彼の仕事はいつも完璧で信頼できた。

「なんだい? 東雲くん。居眠りをしていたわけではなかったんだね」

「はい、いや、まあちょっと……空腹のためにあっちの世界に旅立ちかけてはいましたけど……」

 ばつの悪そうな顔をして、聡子が人差し指で頬を掻いた。

「東雲君、第二応接室に至急お茶を持っていって欲しい。我が宝生(ほうしょう)グループのライバル社、寿(ことぶき)コンツェルンの営業マンが来ている。くれぐれも粗相のないように」

そう言った矢禿部長の曇り一つない磨きこまれたメガネが、きらりと鋭い光を放った気がした。


『お茶くみ』を馬鹿にする人もいるけれど、聡子はそれも立派な仕事の一環だと思っていた。聡子の母が淹れてくれるお茶が優しく美味しいように、それは『おもてなしの心』で淹れるべきなのだ。聡子はお客様用の茶器にジノリを選んだ。今の季節に相応しい紅葉の図柄。そして茶葉は玉露を選んだ。お茶も豆腐と同じシンプルな食品。だからこそほんの少しの加減で大きな差が生まれるのである。

聡子は水道水をヤカンに汲んで、手早く沸かした。ミネラルウォーターを使うより、汲み立ての水道水のほうが空気を多く含んでいるから、お茶のジャンピングがいいのだ。温度加減も重要である。沸騰したお湯をそのまま入れては、玉露本来の風味を損ない、苦さだけが強調されてしまう。一旦お湯を茶器に注ぎ、少し冷ましたところで急須に茶葉とお湯を注ぎ入れた。急須のなかで踊る茶葉を想像すると楽しい。

そうしている間に聡子は、栗羊羹を切り分けて器に並べた。

ノックの後で、聡子は来客者の服装について、相手にそうとは気取られないように密かに観察した。グッチの黒スーツに派手な柄シャツ。極めつけが紫のネクタイときている。高価なのかもしれないが、センスがよくない上に軽薄さが鼻につく。

(グッチに土下座して詫びろ)

聡子は心の中で毒づいた。

社長はまだ姿を見せておらず、寿の営業マンは第一秘書の萩野女子に何かの自慢話を延々と聞かせているらしかった。しかしこの営業マンの素質事態は悪いものではなく、まあイケメンの部類に入るのであり、萩原女子もまんざら気がないわけでもないらしかった。

「お茶をお持ちいたしました」

聡子は目礼して、寿の営業マンにお茶を出した。

「でさあ、俺、野球やってんの。っていうかうちの会社の野球チームなんだけど、最強でさあ。あっ、俺これでも高校の時県でベスト十六位までいったんだぜ」

(微妙な数字だ)

と聡子は思った。すごいと言えばすごいのかもしれないが、大したことないといえば大したことない。男は機関銃のようにしゃべりまくり、その相の手に聡子が淹れたお茶を一口飲んだ。

「美味い。これ君が淹れたの?」

寿の営業マンが聡子をまじまじと見つめた。

「あっ、はい」

 聡子はこくりと頷いた。

「へえ、きっといい嫁さんになれるよ。あっそうだ、君も是非おいでよ、来週の日曜日に野球の試合をするんだ。ギャラリーが多い方が俺は断然燃えるしね。まあ相手がししょぼい商店街のおっさんばっかりなんだけどな」

 そういって寿の営業マンは、ソファーの上で足を組んだ。

「もう、そんなこと言って。東雲さんもいい迷惑じゃない。若い女の子が野球なんて興味ないわよ」

 萩原女子が聡子に代わってやんわりと断りを入れた。

聡子は萩原に、暗に来るなと釘を刺された気がした。世知辛いこの世の中をうまく泳ぎきるには、まず同性を味方につけなければならない。決して出しゃばらず、さりとて決して足を引っ張ってはならないのである。感情のアンテナを常に張りめぐらし、空気を読んで、相手の裏の裏を読んで。そして己の色を消すのだ。無色透明、『私はあなたの害いには決してなりません』って、そんな存在でなくてはならない。

「すいません。日曜日は予定がありますもので」

曖昧に笑って、聡子が席を外そうとしたその時だった。

「ふーん。日曜日予定あるんだ。東雲さん。ひょっとしてデート?」

金髪が不機嫌そうに聡子の背後に立っていた。

「は?」

ぽかんと開けた聡子の口に、フォークに突き刺した栗羊羹を放りこむ。

「美味しい?」

小首を傾げて微笑んで見せるその顔は、凶悪に美しく、お客様用の栗羊羹を条件反射で、もぐもぐとやりながら、聡子は目を瞬せた。

「しゃ……社長?」

顔面蒼白になってその光景を秘書の萩原女子が見つめている。

「うん、僕がさ、東雲さんのお昼ごはんを食べちゃったもんだから、きっとお腹を空かせているだろうと思ってね。そうだ、萩原さんひとっ走り行って、『グラモンデ クラッシィ』の限定ランチ買ってきてよ」

 金髪はしれっと、美人秘書に使いッパシリを頼んだ。

(大手宝生グループの社長付き第一秘書。もちろん容姿端麗、頭脳明晰は言うまでもなく、まっしぐらにエリート街道を突き進んできた彼女に、ショボイ窓際三流OLのランチを買いにパシらせるだぁ? バカ野郎! 空気読めこのすっとこどっこい!!!)


聡子は金髪に向かってそう絶叫したい衝動に駆られたが、なんとか耐えた。


「けけけけ……結構です。私なんぞはカロリーメイトでほんと充分なんで」

けけけって……別に笑っているわけではない。

聡子の盆を持つ手が情けなくも震えていた。


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