第一話
「ここも随分変わったな」
薄暗いアーケードに商店が並ぶのだが、ところどころ歯抜けになっていて、この店も平日の夕方だというのにシャッターが降りたままになっている。
「精肉の関」
埃にくすんだ赤い看板だけが、悲し気に残されたままだった。
聡子はこの店の揚げたてのコロッケが大好きだった。母にねだってようやく貰った五十円玉を握りしめ、息せき切らせてこの店によく通ったものだ。
「おばさん、コロッケちょうだい」
「おや、聡子ちゃん今帰りかい?」
そう言って、白い大きなエプロンをつけた大将が、店の奥で大きな包丁を握る様や、気立てのいい小太りのおばさんが、にっこりと笑ってコロッケを揚げてくれる様が、今もありありと聡子のなかに蘇る。
白熱灯の頼りない明かりがぼんやりと浮かび、その下に少し小さくなった聡子の母がいた。長靴をはいて、白いビニール製の防水エプロンをつけている。大きな銀のバットのなかには水が貼られて、つるつるとした豆腐が涼し気に泳いでいる。
「聡子!」
聡子の母は、聡子を見つけて嬉しそうに笑った。
「今日は仕事が早く終わって、帰ってきちゃった」
聡子はなんとなく照れくさくて、曖昧に笑った。
聡子の実家は商店街の一角で豆腐屋を営んでいる。店と住居が一体となったいわゆる一昔前の店舗付き住宅だ。
聡子はそんな昭和の風情が漂うこの場所が大好きだった。特に落ち込んだときなんかは、無性にこの場所が恋しくなる。
店の奥の和室には、年季の入った卓袱台が、今も立派に現役を続けていて、聡子はなんとなくその卓袱台を撫で、小さく溜息を吐いてその上に顔を伏せた。
「聡子、お前会社で無理しているんじゃないのかい?」
そう言って聡子の母が、聡子の前に湯のみを置いた。
「ううん、そんなことないよ。ちゃんと馴染んでうまくやってる」
そう言って聡子は曖昧に笑って見せたが、母の淹れてくれた玄米茶は優しい味がして、なんだか聡子を泣きたい気持ちにさせた。
(私はちゃんと、笑えているのだろうか?)
そう自問するが、聡子は自信がなかった。
ちんちんちんちん……。
甲高い鐘の音が店の前で止まった。
「ああ、お父ちゃんやわ」
そういって聡子の母は立ち上がり、表に聡子の父を出迎えに行った。
聡子の父は、夕方はいつも決まって、自転車で豆腐をお得意さんに配達に回る。このあたりは坂道が多く、お年寄りや体の不自由な人にとっては、買い物が億劫な場所なのだ。そんな人たちを気遣って、聡子の父は雨が降っても、雪が降っても、必ずこの配達を欠かすことがない。そんな律義な聡子の父の性格の故か、、さびれた商店街の豆腐屋ではあるのだけれど、この店のファンだと言ってくれるお客も少なからずいた。
「おう聡子、帰ってたのか」
聡子の姿を見つけ、日によく焼けた顔をくしゃくしゃにして、聡子の父が笑った。
苦労と言う名の年輪が、父の頬に深く皺を刻んで、前に会った時よりも少し老けたように感じた。
聡子はそんな両親に少し寂しさを覚えないではないが、働き者の父と母。そんな二人が、聡子にとっては大切な誇りなのだ。この二人と、そしてあたたかく聡子をを育んでくれた場所、この商店街こそが、聡子にとってのホームグラウンドなのであった。
聡子の父は気もそぞろに、急いで靴を脱ぎ捨て、テレビに向かう。
「おっ、プロ野球中継が始まったな。今日の阪神の先発は……おっ、下柳か」
こうなると聡子の父は、梃子でもテレビの前を動かない。
「お父ちゃん。野球もいいけど、身体大事にしてね」
そういって聡子は腰を浮かした。
「なに? 聡子帰るん? ご飯一緒に食べていきなさいよ」
聡子の母が、慌てて一人娘を呼び止める。
「ううん、今日はちょっと二人の顔が見たかっただけやから、もう帰るわ。帰ってから仕上げなあかん書類もあるし」
そう言って聡子は、肩を竦めて見せた。
「なんやのん。期待させてからに」
聡子の母は、ぶーたれながら愛娘の後ろ姿を見送った。
◇ ◇ ◇
「何これ、全然だめ」
昨日半ば徹夜で仕上げた企画書が、聡子に向かって放って返された。
「はあ、あの……どこをどう直せばよいのか、もう少し具体的に教えていただけないでしょうか?」
聡子がおずおずと、上司に問う。
「そんなことは自分で考えたまえ、僕だって忙しいんだ」
とりつく島もないとはこのことだ。けんもほろろに言われてしまい、しゅんと肩を落として、聡子は自分の机に戻った。パソコンのデータを呼び出すのを待つ間に、ちらりと部長に視線をやった。
「笹原くん、この企画素晴らしいよ」
先ほどとは、うってかわって色気づいた部長の声色だった。
(容姿端麗、頭脳明晰の笹原先輩じゃあ、私が敵わないのも仕方ない)
聡子はやりきれない気持ちで、深く溜息を吐いた。
聡子は入社3年目にして、ようやく企画を任されたのだけれど、禿げるほどに考え抜いた聡子の企画書はどうやらボツになるらしい。そして相変わらず、泣かず飛ばずのぱっとしないOLをやっている。
窓の外は、泣きたいほどの晴天だった。
やがて昼休みを告げるチャイムがフロアに響き、聡子は手製の弁当を持って席を立った。
(いかん、いかん。ネガティブ思考は美容の大敵だ)
気分を変えようと、聡子はフロアの廊下の端にある自販機の前に佇んだ。
小銭を投入し、缶コーヒーを買おうとした時だ。
「ぽちっとな」
横から伸びてきた手が、『おしるこ』のボタンを押した。
「ちょっと、何するんですか」
聡子が抗議の声を上げる。
「いえいえ、どういたしまして。疲れた時には糖分ですよ。眉間に皺を寄せて無理して微糖なんて飲んでいる場合ではありません」
アルマーニのスーツをセンス良く着こなした、金髪に紫水晶のような瞳を持つ、顔は美しいが、頭のネジが何本かはずれていそうな男が、この上もなくにこやかに佇んでいた。
「しゃっ……社長!!!」
聡子は驚きのあまり声が微妙にひっくり返ってしまった。
「かわいそうな子猫ちゃん。一部始終を見ていたよ。さあ、僕の胸で泣きたまえ」
アルマーニのスーツ姿のこの男は、大仰に両腕を広げてみせた。
「け……結構です」
(いかん、いかん。どうやら彼は目を合わせてはいけない人種のようだ)
聡子は警戒心もあからさまに後ずさり、一心不乱にその場を走り去った。
非常階段へと続く、重い鉄の扉を開け、ひたすらに階段を駆け上がる。
弾んだ息のもと、白けた蛍光灯の薄明かりが開け、吸いこまれそうな青が聡子を包む。
屋上に佇み、聡子は大きく伸びをした。
(私は生きている)
聡子は目を閉じて、大きく息を吸った。
(私はここにちゃんと生きているのだ)
心の中でそう呟いて、聡子は自嘲を浮かべた。
それは周囲から見ればひどく当たり前のことなのだけれど、聡子自身確認しないと、ときどき感覚が麻痺してしまう。いや、そのことを忘れてしまうのだ。
(これが本当の私)
聡子は背に流れる黒髪を、ゴムで縛った。
「よっしゃあ」
聡子は気合いを入れ、扉の横に立てかけてある、重しのついた金属バットを手にとってフルスイングした。
風を掠める音が、心地よく耳に響く。
「ヒゲ!」
びゅっ
「ズラ!」
びゅっ
「メガネ!」
びゅっ
聡子はバッドの舳先を太陽に向けて、片目を瞑った。
「お前ら全員そこで正座しろ――――!」
あらん限りに絶叫してみる。
「あ―――気持ちいい」
聡子に笑顔が戻るころ、扉一枚隔てて、アルマーニの男が微笑んだ。
「ほう、いいスイングだ」