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ショート・スリーパー

掲載日:2026/11/02

 ある法廷で、離婚裁判がおこなわれていた。


 原告は妻、被告は夫。

 ふたりは、結婚して三十年になる。

 近所でも評判の仲のいい夫婦で、休日にはかならず並んで散歩をし、買い物にも旅行にも、いつもふたりでそろって出かけた。

 喧嘩をしているところを見た者はいなかった。


 その妻が、ある日とつぜん、夫を訴えた。

 理由は浮気である。


 法廷には、夫と妻、裁判官と医師がいるだけで、傍聴人はいなかった。


 開廷が告げられると、まず原告である妻の証拠が提出された。

 段ボール箱が運びこまれ、中には写真がぎっしりと詰まっていた。


 居酒屋、公園、カラオケ。

 夜のホテル街。

 始発前の駅のホーム。


 どの写真にも同じ男が写っており、そのとなりには、いつも同じ女が写っていた。

 一枚一枚に、日付と時刻が記されている。


 裁判官は何枚かを手に取って目を通し、それから原告席のほうに顔を向けた。


「この写真に写っているのが、被告と、その相手の女性ですね」


「はい、そうです」


 裁判官は手元の書類を見てから、被告席のほうを向いた。


「被告は、この女性と会っていたことを認めますか」


「認めます」


 夫はあっさり答えた。


「では、不貞行為を認めるのですね」


「いいえ。浮気ではありません」


 夫はしゃきんと背筋をのばすと、声高に宣言した。


「わたしは、ショート・スリーパーなのです」


 法廷がしずかになった。


 夫はかまわず続けた。


「わたしは、一日に三時間しか眠らない。しかし、妻は八時間以上、寝ております」


 妻はあっけにとられていた。


「妻が寝ているあいだ、妻の意識は不在であり、わたしは独身なのです。だから不貞ではない」


 妻が口をひらきかけたが、それより先に、裁判官が相槌を打った。


「なるほど。ショート・スリーパーですね。となると少し話が変わってきます」


「……はい?」


 妻は思わず声を出した。

 裁判官はそれには応じず、書類をめくり、落ち着いた声で話しはじめた。


「それでは、争点を整理しましょう。問題は、被告が女性と会っていたかどうかでは、ありません。婚姻関係が、配偶者の睡眠中にも継続するかどうかです」


「継続するに決まっているでしょう」


「それを、これから確かめるのです」


 証人として、医師が呼ばれた。

 脳神経医学の専門家で、白髪の、いかにも睡眠博士といった風貌の男だった。


「被告は、医学的にショート・スリーパーと認められますか」


「認められます。本人の申告と、本人がつけてきた睡眠記録によれば、被告は一日三時間の睡眠で、なんの問題もなく暮らしております」


 夫が満足げにうなずくのを見て、医師は得意げに言いそえた。


「かく言うわたしも、ショート・スリーパーなのですが、八時間も眠るより、すこぶる調子がいい」


「医学的にも、根拠があるということですね」


 裁判官はそこまで前置きすると、本題へ入った。


「では、睡眠とはどういう状態なのか、説明してください」


 医師は眼鏡に手をやって、睡眠博士らしい身振りで、こたえた。


「睡眠とは、ひとことで申しますと、未来への移動です」


「移動、ですか」


「夜に目を閉じた人間は、次に目をひらいたとき、朝におります。本人にとって、そのあいだの時間は存在しません。意識は、夜から朝へ、一瞬で移動、わかりやすく言えばタイムスリップしているのです。したがって、眠っているあいだ、その人の人格は、現在にはおりません」


「からだはベッドの上にあるのに、ですか」


「肉体の所在と、人格の所在は、同じではありません。これは学界の定説です」


 裁判官はこっくりと深くうなずくと、机の資料になにか書きこんでから、説明を加えた。


「法律にも、似た考え方があります」


 今度は夫と医師が、黙ってこっくりとうなずく。


「行方の知れない人間は、一定の期間がたてば死亡したものとみなされます。現在に存在しない人間との婚姻を、いつまでも続けさせるわけにはいかないからです。その期間が七年であろうと、一晩であろうと、根本的に原理は変わりません」


「変わります」


 妻があわてて叫んだが、裁判官に制止された。


「静粛に」


 かわって、夫が発言をもとめた。


「わたしは三十年間、妻を裏切ったことは一度もありません。妻との時間を、一秒たりとも削ったことはないのです。しごとで職場にいる以外、散歩も、買い物も、旅行も、すべていっしょでした。わたしがあの女性と会ったのは、妻が現在にいない時間だけ。わたしは、誓って――」


 夫はそこで言葉に詰まった。

 こんな疑いを向けられて心外だ、とでも言うように、わざとらしく嗚咽をもらした。


 妻はあきれて裁判官のほうへ目をやった。

 すると、裁判官の首が、こっくりこっくりと前後に揺れていた。


 医師が、しずかに告げた。


「現在、裁判官は不在です」


 裁判官の背後にある、大きな柱時計の振り子が、規則正しくゆらゆら動いていた。

 しばらくしてから裁判官ははっと顔をあげ、ひとつ咳ばらいをした。


「失礼。少し、未来へ行っておりました。わたしも、こう見えてショート・スリーパーなもので」


 裁判官は椅子に座り直すと、夫のほうを向いた。


「被告は、はじめからどうぞ」


 夫は同じことを、はじめからもう一度言った。


「……ですから、わたしは誓って、不貞はしておりません。妻の人格が存在しないときにしか、会ってはいないのです」


 裁判官が、こっくりとうなずく。


「それで、奥様が眠っていたことは、たしかですか」


「たしかです。妻は毎晩、八時間以上、ベッドの上におりました。わたしが出かけるときも、帰ってきたときも、同じ姿勢で、横になっておりました」


 医師が補足した。


「成人の標準的な睡眠時間です。奥様の人格はそのあいだ、現在に存在しなかったと考えられます」


 つまり、と裁判官は言った。


「被告が女性と会っていた時間、原告は現在におらず、婚姻関係にある一方の当事者が欠けていた。当事者のいない時間に、婚姻の効力は当然、及びません。ここまでの議論では、そういう整理になります」


「なりません。浮気でしょう、どう見ても」


 妻が、ぶっきらぼうに言った。

 裁判官は、気の毒そうに妻を見た。


「お気持ちはじゅうぶん、わかります。しかし、それは一日に八時間眠る人の感覚です。眠る時間の長さは、人それぞれ。少ない睡眠で足りる人の時間を、多く眠る人の基準でしばるのは、むしろ悪平等、とても公平とはいえません」


 夫と医師が繰り返し、こっくりこっくりとうなずいた。

 言い終わってから、裁判官は書類をそろえて持つと、端を机の上に当て、とんとんと鳴らした。


「それでは、当法廷の見解を述べます。婚姻とは、同じ時間に存在する二人の人間のあいだの関係であります。被告の行為は、すべて原告の不在中に行われたものであり、必然、婚姻中の出来事にはあたらず、これを不貞と認めることは――」


「ひとつ、よろしいでしょうか」


 妻が言った。


 裁判官は不機嫌になった。


「なんですか」


 妻は、夫のいるほうから目をそらしたまま、続けた。


「じつはわたしも、ショート・スリーパーです」


 ふたたび、法廷がしずかになった。


 夫の顔から、ゆっくりと血の気がひいていった。

 椅子に深くもたれると、そのまま気を失うかのように脱力し、いびきをかいた。


 医師は証拠資料のファイルから妻の睡眠検査記録を取り出して読んでいたが、やがて納得したように、こっくりとうなずいた。

 そして大きなあくびをして、顔から机に突っ伏した。


 裁判官は、段ボール箱の中の写真を、ぼーっと眺めていた。


 23:05

 0:21

 2:50

 5:30


 印字された撮影時刻を眠たげに読み上げ、妻のほうへ顔を向けた。


「この写真を撮ったのは、あなたですか」


「ええ。全部、わたしです。寝たふりをして、あとをつけました」


「ということは、つまり、この時間ぜんぶ、存在、いや起きていたと」


「はい。いちにち二十一時間、起きています。ショート・スリーパーですから」


「眠くならないんですか」


「なりません。ショート・スリーパーですから」


 裁判官は信じられない、という顔をした。

 それから、深呼吸して、姿勢を正した。


「では、判決を申し渡します」


 妻は安堵して、ふうっと息を吐いた。


 しかし、いくら待っても、続きの言葉は聞こえなかった。

 不思議に思って目をやると、裁判官の首が、こっくりこっくりと前後に揺れていた。


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