1-8. 漢字ドリルと百科事典
夜。
母さんはソファで資料を読み、俺は床で積み木を並べていた。
積み木の側面に印刷されたひらがなを一瞬だけ眺め、すぐ視線を外す。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
少しだけ考える“間”を作る。
五歳らしい間。大事だ。
「字、ちゃんと覚えたい」
母さんが顔を上げた。
「もう少ししたらね、って思ってたけど?」
俺は首を傾げる。
「……読むのは、なんとなく分かるけど」
一拍。
「書けない」
理由はそれだけにする。
母さんの視線が、俺の手元に落ちた。
「書けないの、嫌?」
小さく頷く。
母さんは何も言わず、棚から一冊取り出した。
ひらがな練習帳と鉛筆。
「じゃあ、これね」
ページを開く。
俺は声に出す前に、指で文字をなぞる。
「あ、い、う、え、お」
区切りは正しい。
詰まらない。
でも、早すぎない。
「書く?」
「うん」
鉛筆を持つ。
――利き手じゃない方で。
母さんの視線が、一瞬だけ止まった。
見本を見て、そのまま書く。
線は少し震れる。
だが迷いはない。
一ページ終わる。
「今日は、ここまででいい?」
「うん」
練習帳を閉じると、母さんが一言だけ言った。
「……無理しなくていいからね」
理由は言わない。
問いもしない。
それで十分だった。
数日後。
用事のついでに寄った本屋で、俺は迷わず児童書の棚へ向かった。
ひらがなコーナーは、もう見ない。
手に取ったのは――
「一年生の漢字ドリル」。
ぱらっと開き、すぐ棚に戻す。
次。
分厚い、こども向け百科事典。
図。
見出し。
説明文。
「……綾芽?」
母さんが気づく。
「それ、難しくない?」
「わかる」
得意げでもなく、即答でもない。
ただ事実を言う。
母さんは漢字ドリルと百科事典を交互に見て、何も聞かずにレジへ向かった。
帰り道、言われたのは一言だけ。
「質問は、しないから」
それで十分だった。
家に帰ると、すぐにドリルを開く。
今度も、利き手じゃない方で書く。
一文字。
二文字。
途中で百科事典を引っ張り出す。
例文に出てきた言葉を調べる。
ページをめくる速度が、少しずつ上がる。
母さんはキッチンで音を立てているだけ。
見ない。
聞かない。
でも――気づいていないわけがない。
夜。
ドリルは半分まで進み、百科事典には付箋が増えていた。
翌朝。
本棚の一段が、静かに空けられていた。
夕方。
母さんが段ボールを広げる。
「これ、もう捨てるやつ」
置かれたのは、古い目覚まし時計だった。
「壊れてるからね。戻らなくてもいいよ」
その言い方は、許可じゃない。
試せ。
そう言っている。
俺は床に座る。
今日は、ドライバーを持つ手も慎重だ。
ネジを外す。
並べる。
数を数える。
中を見る。
歯車。
バネ。
小さなモーター。
一瞬だけ首をかしげる。
五歳の思考時間。
それから、ゆっくり分解する。
順番を覚える。
戻す。
噛み合わせ。
締め具合。
最後に立てる。
……カチ。
針が動いた。
一秒。
二秒。
三秒。
母さんが近づいてきて、時計を見る。
「……戻せたね」
「うん。でも、まだ遅れるかも」
正直に言う。
母さんは一度だけ笑った。
「じゃあ、もう一回使おうか」
それだけ。
時計の音が、小さく部屋に響く。
俺は次を考えていた。
文字は、もう隠さなくていい。
書くのも、左手でいい。
分解して、戻せる。
(次は――中が見えないやつだな)
母さんは何も言わない。
でも、分かっている。
この日から――俺は「できるふり」を減らし、「任されること」が増え始めた。




