1-7. はじめての本
夜。
リビングでは、母さんが仕事の資料を読んでいた。
文字だらけの、いかにも大人の本だ。
俺は床に座り、ブロックで遊ぶ“ふり”をしながら、ちらちらとページを盗み見ていた。
「……綾芽?」
気づかれた。
「なに、珍しいね。本なんて見て」
ここで魔法だの装置だのと言えば即終了だ。
だから用意していた一言だけを出す。
「字、読めるようになりたい」
母さんが、わずかに目を瞬かせた。
「もう少ししたら、絵本でいいでしょ?」
予想通り。
「絵本じゃなくてさ……説明のやつ」
「説明?」
ブロックを持ち上げ、組み替える。
「これがどうなって、こうなる、って書いてあるやつ。作り方わかんないと、すぐ崩れるでしょ」
自分で言っておいて、五歳にしては理屈っぽいと思う。
でも母さんは笑わなかった。
少しだけ、真剣な目になる。
「……どんな説明?」
「図があって、文字があって、順番があるやつ」
「難しくない?」
「うん。たぶん」
正直に答える。
母さんはしばらく俺を見つめ、ため息をひとつ吐いた。
「……今すぐじゃないけど」
内心でガッツポーズ。
「今度、本屋行こう」
「ほんと?」
「ほんと。ただし勉強用ね。遊びじゃない」
「うん!」
遊びじゃない。
それでいい。
数日後、本屋。
絵本。
ひらがな練習帳。
シール付きドリル。
全部通り過ぎる。
俺の足が止まったのは、図が多くて文字が少ない棚だった。
『はじめての しくみずかん ― どうして動くの?』
歯車。
水の流れ。
てこ。
滑車。
母さんが中を覗き、首を傾げる。
「……これ?」
「うん」
「魔法の本じゃないよ?」
「いいの」
母さんは少し考え、静かにカゴへ入れた。
「じゃあ最初はこれ一冊ね」
――そのときは、まだ知らない。
この一冊を、何度も読み返すことになるなんて。
その夜。
布団に入る前、床に本を広げる。
ページを開いた瞬間、理解した。
(あ、これ……)
歯車の図。
説明を読む前に分かる。
(魔力循環と同じだ)
回すんじゃない。
押すんじゃない。
噛み合えば、流れる。
次のページ。
水の流れ。
(通す。溜めない。詰まらせない)
布団の中で続けている呼吸と、きれいに重なる。
ページをめくる手が速くなる。
てこ。
重さの逃がし方。
(これも同じだ)
図を見て、体の内側で試す。
全部、繋がる。
「……やば」
思わず声が漏れた。
「もう寝る時間――」
部屋に来た母さんが、本と俺を見比べて止まる。
「……読めてる?」
「うん」
指で図をなぞる。
「ここ詰まると、こっち回らないでしょ」
母さんは一瞬だけ黙った。
「……そうだけど」
「だからここ細くすると、軽くなる」
ブロックを二つ使い、その場で組み替える。
母さんは何も言わなかった。
驚かない。
褒めない。
否定もしない。
ただ静かに言う。
「……今日は、そこまで」
「うん」
素直に本を閉じる。
布団に入り、天井を見上げる。
(ただの勉強本じゃないな、これ)
俺にとっては、「分かる」を形にしてくれる本だった。
翌朝。
ダイニングで本を開く。
前なら聞かれていたはずだ。
難しくない?
分かる?
でも今日は違う。
母さんはコーヒーを一口飲み、言った。
「今日は道場の日ね」
それだけ。
質問がない。
(……あ)
分かった。
もう「確認」は終わった。
これからは――結果を見るだけ。
立ち上がった母さんが、背中越しに言う。
「無理しなくていいから」
理由も、説明もない。
俺は本を閉じ、リュックを背負う。
(……大人に見せるって難しいな)
子供っぽく。
出来すぎないように。
考えることが一つ増えた。
でも――
(まあ、やるしかないか)
最初の一冊は、ただの勉強本だった。
けれどこの日から、母さんは教えなくなり、俺は隠しながら伸び始めた。




