1-28. 若葉弓道場
八歳になった。
体の軸が、ようやく安定してきたのが分かる。
走ってもブレない。
踏み込んでも崩れない。
呼吸も乱れにくくなった。
だから、次に進むことにした。
「母さん、弓をやりたい」
夕食のあと、そう伝えると、母さんは箸を置いてこちらを見た。
「理由は?」
いつもの確認。
「姿勢と呼吸。あと、集中」
少し考えてから続ける。
「剣道は瞬間。空手は流れ」
「弓は――止まる力が要ると思う」
母さんは数秒黙って、それから小さく頷いた。
「いいと思う」
反対はしない。
この人はいつも、止めるより先に見極める。
「若葉さんのところに連絡しておくね」
こうして、空手、剣道に続く三つ目の道場が決まった。
若葉弓道場。
道場に入った瞬間、空気の違いが分かった。
静かだ。
物音が少ないわけじゃない。
弦の震える音。
足袋が床を擦る音。
遠くで誰かが息を吐く気配。
それでも――静かだった。
音が消えているんじゃない。
余計な動きだけが、消えている。
ここでは、急ぐこと自体が浮く。
「綾芽!」
声の方を見ると、りおなが手を振っていた。
相変わらず柔らかい笑顔。
「待ってたよ。今日からよろしくね!」
「よろしく」
隣に立つと、不思議と空気が緩む。
昔からそうだ。
道場主に挨拶を済ませ、弓を持たせてもらう。
――重い。
剣とは違う。
殴る道具でもない。
引くための重さだ。
重さが、手ではなく背中に来る。
「最初は形だけでいいからね」
りおなが小声で言う。
「弓は力じゃないよ。骨で支えるの」
骨で支える。
頭の中で、その言葉をなぞる。
足を開く。
床の感触を確かめる。
背筋を伸ばす。
肩の力を抜く。
呼吸。
吸う。
胸ではなく、腹。
止めない。
流す。
吐く。
どこかで覚えたリズムが、自然と体に馴染む。
弓を構える。
――止まる。
空手のように次を考えない。
剣道のように間を読むわけでもない。
ただ、そこにいる。
世界が、少しだけ遠くなる。
「……いいね」
道場主がぽつりと言った。
「動かない子だ」
褒め言葉かは分からない。
でも、悪い響きじゃなかった。
弦を引く。
腕じゃない。
背中。
肩甲骨が寄る。
体の中心が、一本の軸になる。
さらに引く。
空気が張る。
そして――離す。
パァン。
乾いた音が、道場に響いた。
矢は的の外に刺さった。
でも、不思議と悔しくない。
今の一射で、分かったことがある。
弓は、当てる競技じゃない。
整える競技だ。
隣でりおなが、小さく笑う。
「初めてでそれだけ立てれば十分だよ」
「難しいな」
「うん。弓はね、誤魔化せないから」
誤魔化せない。
いい言葉だ。
帰り道。
腕は少しだけ震えていた。
剣の疲れとも、空手の疲れとも違う。
内側の筋肉を使った感覚。
「どうだった?」
母さんが聞く。
少し考えてから答える。
「向いてるかもしれない」
母さんが、わずかに笑う。
「珍しいね。即答しないのに」
「まだ分からないから」
でも、一つだけ確信している。
弓はきっと――
俺の“土台”を、もう一段強くする。
空手が流れを作り。
剣道が間を教え。
そして弓が、静止をくれる。
三つが揃えば、たぶん。
もっと、崩れなくなる。
空を見上げる。
風が静かに流れていた。
焦る必要はない。
強さはいつも――
静かなところから積み上がる。




