1-21. 協会にて
ラボに通うようになって、ひとつだけ決めたことがある。
――ここでは、自重しない。
学校と家では年相応。
でもここは、研究する場所だ。
遠慮して理解を遅らせるくらいなら、最初から全力で吸収する。
おかげで最近は。
分厚い専門書を抱えて歩いても、誰も止めない。
測定器を触っても、悲鳴が上がらない。
専門用語を口にしても、「綾芽だし」で流される。
慣れって怖い。
今日もラボへ向かう途中、受付の前を通る。
「おはようございます、綾芽くん!」
受付のお姉さんがやけに嬉しそうだ。
……嫌な予感しかしない。
「今日も研究?」
「うん」
「偉いねぇ〜」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。
子供扱いは合理的なので受け入れる。
すると、お姉さんが少し身を乗り出してきた。
完全に雑談モード。
「ねえねえ」
小声。
「真咲さんの子なんだよね?」
来たな。
「うん」
お姉さんは周囲を確認して、さらに声を落とす。
「ここだけの話なんだけどね」
(絶対ここだけじゃない)
「真咲さん、昔――魔王って呼ばれてたの」
思考が止まる。
……まおう?
「紫の魔王って有名だったんだよ」
止まらないタイプだ、この人。
「出動しただけで現場が静まるし」
「味方からも敵からも“来たら終わり”って言われてたし」
「しかもほぼ無傷!」
(それ、完全にラスボスの挙動では?)
「撤退寸前の現場に現れて、全部片付けて帰るの」
「伝説?」
「伝説!」
断言された。
俺は少しだけ遠くを見る。
(……うちの母さん、何してたんだろう)
お姉さんはさらに続ける。
「最近ね、協会でちょっとした噂になってるの」
聞きたくない。
でも聞く。
「紫の魔王が子供を連れて歩いてたって」
あー。
「しかもその子、普通にラボ出入りしてるって」
あー……。
「将来やばいんじゃないかって!」
やばいのは噂の広がり方だ。
「もうね、“次期魔王”って呼ぶ人もいる」
「……俺が?」
「うん!」
うん、じゃない。
俺は少し考えてから聞いた。
「俺、なにかした?」
即答だった。
「してない!」
「してないのに怖いのが一番怖いの!」
理不尽すぎる。
「ラスボス第二形態(少年型)って言ってる人もいるし」
進化前提はやめてほしい。
小さく息を吐く。
でも、悪い気はしなかった。
母さんがそれだけすごかった、という話だ。
お姉さんが最後に言う。
「でも安心して?」
「なにが?」
「顔が可愛いから、今はマスコット寄り!」
それはそれでどうなんだ。
そのとき。
後ろの空気が、すっと静かになった。
振り向かなくても分かる。
誰かが通った。
受付のお姉さんの背筋が伸びる。
「お、お疲れ様です!」
声が硬い。
振り向く。
母さんだった。
私服。
装備もない。
ただ歩いているだけ。
それだけなのに、周囲の音が少し遠くなる。
(……なるほど)
理解した。
この人、本当に“そっち側”の人間だ。
母さんは軽く会釈するだけで通り過ぎる。
俺にも気づいているはずなのに、止まらない。
いつも通りだ。
だから俺も、何も聞かない。
聞いたら、たぶん答えてくれる。
でも――今じゃない。
ラボへ向かって歩きながら、ぼんやり考える。
紫の魔王。
次期魔王。
ラスボス第二形態。
(……肩書き、多くない?)
まだ何もしていないのに。
でも、少しだけ口元が緩む。
悪くない。
こういう勘違いは、放っておくに限る。
訂正する理由もない。
むしろ、期待は利用できる。
ラボの扉の前で立ち止まる。
(よし)
研究しよう。
噂がどうなろうと関係ない。
俺は俺のやることをやるだけだ。
協会ではすでに、
――「まだ何もしていない、最も危険な存在」
らしいけど。
……解せない。
でもまあ。
ちょっとだけ、気分は悪くなかった。




