1-12. 専門書、ください
夕方。
テーブルの上には、昨日しまったはずの紙が一枚だけ出ていた。
母親は何も言わず、流しで洗い物をしている。
水の音だけが、静かに響いていた。
今だ。
「あのさ、母さん」
振り返らないまま、返事が来る。
「なに?」
普通の五歳なら、ここで少し言葉に詰まる。
「えっと」とか、「その」とか。
でも、俺はもう決めていた。
「本が欲しい」
即答だった。
「絵本?」
「ちがう」
「図鑑?」
「それも違う」
水音が、止まる。
母親の手も止まる。
数秒の沈黙。
「……じゃあ、なに?」
ここだ。
「ちゃんとしたやつ」
わずかに間が空いた。
「どんな?」
俺は少しだけ考えるふりをしてから言う。
「体の中の仕組みが分かる本」
「電気とか、回路とか」
「あと、魔法少女の端末がどうやって出来てるか分かるやつ」
言い切った。
五歳の語彙じゃない。
興味でもない。
でも、もう取り繕わない。
母親はゆっくりと手を拭き、こちらを振り向いた。
その目は驚いていない。
ただ、確認している。
「……難しいわよ?」
「いい」
「今は使わない内容も多い」
「それもいい」
「すぐ全部は分からない」
「分かるとこだけでいい」
間髪入れない返答。
一歩も引かない目。
母親が、小さく息を吐いた。
「ああ……もう止まらないのね」
そんな顔だった。
「じゃあ、条件」
来た。
「壊さない」
「勝手に使わない」
ここまでは予想通り。
そして――
「分からないところは、聞かない」
少しだけ、眉が動く。
「聞かない?」
「ええ」
母親は静かに言う。
「自分で考えなさい」
それは制限じゃない。
信頼だ。
思わず笑いそうになるのを抑える。
「わかった」
即答。
その顔を見て、母親は少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、まずは――」
指を折りながら並べていく。
図が多い人体の基礎書。
電気と回路の入門書。子供向け。でも中身は本物。
機械の構造が分かる本。
「この辺からね」
内心で、静かに拳を握る。
母親は続けた。
「あと、ノートとペン」
「いっぱい書きなさい」
「頭の中だけにしないこと」
その一言に、少しだけ驚く。
分かっている。
俺が描く側だと。
「うん」
今度は五歳らしく、素直に頷いた。
母親はそれ以上何も言わず、再び流しに向き直る。
でも、もう分かる。
止める気はない。
この人は、俺が進む前提で話している。
その夜。
布団に潜り込みながら、天井を見る。
専門書、か。
ひらがなも。
出来ないふりも。
準備段階も。
全部、終わった。
ここからは――
理解して。
組んで。
形にする段階。
しかも。
母親はもう、守るために止めることをしない。
代わりに、燃えすぎないように見ている。
それが分かる。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
(……楽しくなってきた)
次に描く図を思い浮かべながら、目を閉じる。
まだ何も作っていない。
でも確実に、何かが始まっている。
この日、母親は初めて――
俺の未来を制限しなかった。
そして俺は、初めて。
自分の意思で、その未来に手を伸ばした。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
(これ、たぶん長期戦だな)
なぜかそれが、少し嬉しかった。
このとき母親はまだ知らない。
この選択が――
世界の戦い方を変えることになると。




