1-9. 母の視点
最初に違和感を覚えたのは、「質問が減った」と気づいた時だった。
子供は普通、分からないことを聞いてくる。
これは何?
どうして?
なんで?
でも綾芽は、ある時期から聞かなくなった。
聞かない代わりに、一度だけ手を止めて――
次の瞬間には、動いている。
考えている時間が、短すぎる。
ひらがな練習帳もそうだった。
初日は、まあ普通。
線をなぞって、少し歪んで、五歳らしい字。
二日目。
利き手じゃない方で書いていた。
三日目には、書き順を間違えない。
教えていない。
見せてもいない。
なのに、迷いがない。
私は、その時点で質問するのをやめた。
聞いたら、壊れる。
そんな勘があった。
今日の時計も、同じだ。
分解していい、と言ったのは試しだった。
戻らなくてもいい、と言ったのも本音。
普通なら――
・ネジをなくす
・順番を忘れる
・途中で飽きる
どれかが起きる。
でも綾芽は違った。
分解の前に、確認をしていた。
ネジの数。
位置。
並べ方。
あれは遊びじゃない。
作業だ。
しかも厄介なのは、知っている顔をしていないこと。
分かっているのに、分かっていないふりをしている。
迷うふり。
考えるふり。
五歳の速度に、自分を落としている。
少しだけ、怖い。
理解が速い子は見てきた。
天才肌も、器用な子も。
でもこれは違う。
これは、理解の段階を一つ飛ばしている。
普通は――
見る → 教わる → 真似る → 理解する。
綾芽は――
見る → 理解する → 真似る。
しかも、必要な情報だけ。
だから質問しない。
だから無駄がない。
だから、説明を待たない。
あの子は、「分からない」状態に長く留まれない。
時計の音を聞きながら、考える。
このまま、何でも与えたらどうなるだろう。
答えを全部渡したら。
たぶん、歪む。
だから私は決めた。
教えない。
説明しない。
理由を言わない。
代わりに――
壊していいものを渡す。
結果だけを見る。
危ないところだけ止める。
それ以外は、見守る。
綾芽は、私に似ている。
いいところも、悪いところも。
でも一つだけ、決定的に違う。
あの子は、自分が普通ではないと、もう気づいている。
だから隠す。
だから段階を踏む。
その慎重さが、一番厄介で――
そして何より、安心できる。
私は立ち上がり、夕飯の準備に戻る。
包丁の音が、静かに響く。
ふと、思う。
あの子はきっと、急がなくても進む。
なら私は――
燃えすぎないようにする役でいい。
守るでもなく。
導くでもなく。
ただ、折れない場所を用意する。
(……ほんと、とんでもない子)
小さく息を吐く。
それでも。
鍋の火を弱めながら、私は少しだけ笑った。
あの子が、私の子でよかった。




