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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第十一章:引き止めない恋
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099 王立植物園と、守られる自由

 馬車は走り続け、ついには視界一面に瑞々しい緑の丘が広がる絶景へと辿り着いた。


「なんだか、領地を思い出します」


「それは、良い意味でかな?」


 ステアの問いかけに、コートニーは深く頷いた。


「ええ、とても」


 ステアはどこかホッとしたような表情を浮かべると、視線を窓の外へと戻した。


 コートニーも彼に倣い、豊かな自然が広がる景色を見つめる。

 ヒスコック伯爵領は、亡き母との思い出が保存されている場所だ。タウンハウスのように人間関係が冷たく塗り替えられることもなく、今でも働く母を知る古参の使用人たちは、彼女を温かく迎え入れてくれる。


(あそこなら、悲しいことがあっても空の広さが相殺してくれるし、森へ一歩足を踏み入れれば、リスやウサギ、植物たちが打算のない歓迎をくれる……)


 コートニーが故郷と慕うあの場所には、傷ついた心を、そっと隠しておける「逃げ場」が至る所に用意されている。だからこそ、彼女にとって領地は、数少ない肯定できる記憶の場所だった。


 馬車はようやく目的地に着いたらしくゆっくりと停止した。


 ステアのエスコートで馬車を降りる。すると、目の前には、白壁が陽光を反射して輝く、威厳ある巨大な建物がそびえ立っていた。


「ここは……」


「王立植物園だ」


 ステアが爽やかな笑顔で告げる。


「僕がエスコートしても?」


 差し出された手に、コートニーは迷いなく自分の手を重ねた。その手をステアが優しく握り返し、二人は吸い込まれるように建物の中へと足を踏み入れた。


 二人の跡を、数人の近衛が一定の距離を保ちながら追随する。


 一歩入った途端、外気よりも濃厚な、湿り気を帯びた植物の芳香が鼻腔をくすぐる。

 視界を埋め尽くす色とりどりの花々に、コートニーはまるで別世界に迷い込んだような錯覚に陥った。


「もしかして、植物園に来るのは初めてかな?」


  「ええ。母が亡くなってからは、少々出不精になってしまいましたので」


 コートニーは淡々と、もっともらしい理由を述べた。しかし、脳内にある真実の記録は、別の事実を告げている。


(実際は、お母様が亡くなってから家族の行楽というリストから、私の名前が抹消されただけだけど……)


 最初は、父ウィリアムもコートニーを家族行事に同伴させようとしていた。けれど、リリアがそれを執拗に嫌がったのだ。


「お父様の手が二本しかないから……」


 思わず独り言が漏れる。


 コートニーを連れて行けば、父の二本しかない隣の席を奪い合うことになる。普通なら、大人であるソフィアが片手を娘に譲るという選択肢もあったはずだ。


(でもあの人は、一度奪われたものを取り返すことに固執しているから、父の隣を絶対に手放そうとしないものね)


 ソフィアから影で「気を遣え」と叱られ、出先でもあからさまに、リリアと対応の差をつけられることに嫌気がさしたコートニーは、一緒に出掛けることを放棄した。

 最近では、むしろ置いていかれるその時間こそ、一番の平穏を感じる瞬間になってしまったくらいだ。


「君の父親に、手が四本も五本もあったら、解剖学的に見ておかしいだろう」


 コートニーの脈絡のない呟きに、ステアが真面目な顔で、至極真っ当な科学的指摘を返した。

 そのあまりの生真面目さに、思わず笑いが溢れ出す。


「ふふっ……確かに、おかしいですね」


 目尻に浮かぶ笑い涙を、指先で拭いながら返す。


「君は、そんなふうにも笑えるんだな」


 ステアの言葉に、コートニーは笑顔のまま硬直した。


(しまった。つい本能的な反応を見せてしまったわ)


 淑女教育で、家庭教師から「歯を見せて笑うなど言語道断」と骨の髄まで叩き込まれたことを思い出し、慌てて表情を引き締める。


「ご……ごめんなさい。あまりに殿下の返しが正確だったものですから」


 慌てて口元を覆う彼女に、ステアは柔らかな眼差しを向けた。


「いや、いい。むしろ僕はその方がいい」


 ステアは慈しむような視線を向けると、繋いだ手を離さずにゆっくりと歩き出す。


 二人は温室のさらに奥、一般の来園者が立ち入ることのできない重厚な鉄格子の扉の前へと辿り着いた。扉の横には、一人の老人が静かに控えている。


 使い古された茶色のエプロンを身につけ、節くれだった指を持つその男は、ステアの姿を認めると深々と頭を下げた。


「お待ちしておりました、殿下。本日は例の『特別区画』をご覧になると伺っております」


「ああ、鍵を頼む。……彼女は私の特別な賓客だ。カイル、君の管理能力なら安心だろう?」


「もちろんでございます。殿下がお連れになった方ならば、この庭を荒らすような真似はなさらないでしょう」


 カイルと呼ばれた老管理人は、腰に下げた大きな鍵束から一際古めかしい銀の鍵を選び出すと、厳重な錠前へと差し込んだ。ガチリ、という重厚な音が静かな空間に響き渡る。


「……あの、殿下。ここは一体?」


 コートニーが尋ねると、ステアは悪戯っぽく微笑んだ。


「王家が代々、秘密裏に保護している絶滅危惧種の温室だ」


「秘密裏……!」


「左様でございます、お嬢様」


 カイルが扉を左右に押し開きながら、誇らしげに胸を張った。


「この中に咲く花は人の声や気配に非常に敏感でしてな。本日は特別に近衛の皆様にもここで待機していただき、お二人だけで中へお入りください。その方が、花も機嫌を損ねますまい」


「配慮に感謝する、カイル」


 ステアはそう告げると、扉の向こうに広がる、他とは明らかに「空気の密度」が異なる空間を指し示した。


「さあ、行こう。君の尽きない好奇心を満たす準備はいいかな、コートニー?」


 コートニーは高鳴る鼓動を抑えきれず、まるで未知の惑星へ降り立つ探検家のような面持ちで、その禁断の緑の深淵へと足を踏み入れた。



 ◇✧◇✧◇✧◇



 重厚な扉の先、コートニーを包み込んだのは、温室特有の湿り気を帯びた芳醇な大気の香りだった。天井まで届く巨大なガラス屋根からは、計算され尽くした角度で陽光が降り注ぎ、異国の珍しい花々が、まるで宝石を散りばめたような極彩色で咲き誇っている。


「……素晴らしいですね」


 コートニーは感嘆のあまり、繋がれた手の温度も忘れて立ち尽くした。


「ここにあるコレクションの三割は、東方大陸の未踏地から運ばれたものだそうだ。君なら、学名を聞くよりも先に、その構造に興味を持つと思ってね」


「構造どころか、この空間全体の生態系バランスに圧倒されています。見てください、殿下! あの奥にあるのは……もしや、数千年に一度しか開花しないと言われる『銀嶺(ぎんれい)(しずく)』ではありませんか?」


 彼女はドレスの裾が翻るのも構わず、吸い寄せられるように展示区画へと近づいた。


(この微細な花弁の重なり……フラクタル構造の極致だわ。まるで数学的に記述された美しさが、そのまま有機物として受肉したみたい!)


 コートニーの瞳は、もはや妖精というよりは、新発見に挑む若き学者のそれだった。彼女は夢中で観察し、時にその形状の合理性についてブツブツと独り言を漏らし始める。


 ステアはそんな彼女の様子を、困ったような、それでいて深い慈しみを湛えた眼差しで見つめていた。


「……やはり君をここに連れてきて正解だったみたいだな」


「え?」


 我に返ったコートニーが顔を上げると、ステアがすぐ近くに立っていた。 逆光を背負った彼のプラチナブロンドが白銀のオーラのように輝き、深い紫の瞳が、彼女の存在そのものを慈しむように細められる。


「切り裂き魔の事件以降、君の笑顔に翳りが差しているようで、気が気ではなかったんだ」


 ステアの言葉に、コートニーは思わず息を呑んだ。 事件の恐怖、犯人と対峙した際の血の匂い、そして社交界で囁かれる心ない噂。それらを知識という盾で必死に防ぎ、日常の皮を被って過ごしてきたつもりだったが、彼の瞳を欺くことはできなかったらしい。


「殿下……。私は、その……」


「無理に笑わなくていい。ただ、今日は少しでもその重荷を下ろしてほしいと思ってね。……ここは王族の私有地でもある。君を脅かすものは何一つ、この硝子の壁を越えては来られない」


 ステアは一歩踏み出し、彼女の視線を塞ぐように、けれど優しく包み込むように立った。


「君は、少し一人で背負いすぎる。……時々は、私を頼ってもいいんだぞ? たとえ私が君の言う『ルクス』や『フラクタル』を完全に理解できなくても、君を守ることに関しては、この国の誰よりも自信がある」


 その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも強く、コートニーの強張っていた心を解かしていった。


(だめだ。この人は、計算式では決して導き出せない『優しさ』という変数を持って私の脳内演算を狂わせてくる……)


 コートニーは視線を落とし、淡い若草色のドレスの裾をぎゅっと握りしめた。 目元が熱くなるのを誤魔化すように、彼女はあえて早口で言葉を紡ぐ。


「…………ずるいです。そんな風に言われたら、私がただの、守られるだけの非力な個体になってしまいます。でも……ありがとうございます。少しだけ、本当に少しだけですけど……光合成が捗りそうな気がします」


「それは光栄だ」


 ステアは低く笑い、今度は彼女の指先に、そっと自分の指を絡めた。 それはエスコートという形式を超えた、体温を分かち合うような触れ合いだった。


「さあ、案内してくれ。君を熱中させる『銀嶺の雫』の素晴らしさを。……君の解説なら、どんな難解な講義よりも楽しめそうだ」


「……ふふっ。覚悟してください。 私の解説は、一度始まると分類学から土壌の酸性度まで、非常に長距離なマラソンになりますけど?」


 コートニーは湿った睫毛を瞬かせ、ようやく、いつもの彼女らしい挑戦的な、それでいて心からの笑顔を浮かべた。


 二人は並んで歩き出す。 背後で控える近衛たちは、もはや仕事というよりも、あまりにも絵になる二人の光景を邪魔せぬよう、そっと息を潜めていた。

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