097 好きだから、引き止めない
切り裂き魔事件は、すっきりとはいかずとも一応の解決を見た。
一件落着、これでようやく普通の生活に戻れる。そう安堵したのも束の間、ステアが予想外の爆弾を投下した。
デスクに肘をつき、沈む夕日を背負ったステアの口から漏れたのは、あまりに不穏な言葉だった。
「今回の幕引きでは『逮捕』というプロセスが公には踏まれていない。……つまり、契約はまだ継続中であると解釈すべきだ」
「はあ!?」
コートニーの口から、淑女にあるまじき声が漏れた。
「……殿下の理論でいくと、切り裂き魔は永久に『逮捕』されません。だとしたら、私たちの契約も一生解除されないということになっちゃいませんか?」
「僕は別に君さえ良ければそれで構わないと思ってる」
「つまりそれって、殿下は私と結婚したいということですか?」
単刀直入に突きつけると、ステアはすっと視線を逸らした。
椅子を回し、夕日に照らされた壁の肖像画を凝視し始める。
「……まぁ、そう取ってくれて構わない」
コートニーは、目の前の信じがたい光景に呆然としつつ思う。
(なんで壁に向かって喋ってるわけ? 殿下の威厳が夕闇と共に霧散していくんだけど……でも、待って。この不自然な挙動、まさか、まさか……)
「ステア殿下って、私のことが好きなんですか?」
「……」
沈黙が落ちた。
赤く染まった執務室の中で、彼の背中が微かに強張る。
「もし、そうだとしたら……君は僕と結婚してもいいと言ってくれるのか?」
ステアが背を向けたまま、絞り出すような声で問いかけてきた。
その声を聞いた瞬間、コートニーの心臓は不規則に跳ね、指先まで熱が走った。
「ど、どうなんでしょう」
コートニーは、掠れた声で曖昧な返事を口にした。
(恋愛はしてみたいけど、結婚は……)
愛が歪めば、あれほどの惨劇を生む。
事件を経た今、結婚という制度そのものが彼女にはまだ怖かった。
(もし私がお母様のように強く、なれなかったら?)
貴族と結婚すれば、必ず『跡継ぎ』という生物学的かつ政治的な義務がのしかかってくる。
けれどコートニーは、愛人という存在に人生を掻き回されてきた当事者として、家のためだからと割り切り、夫が愛人を作るのを許容するような自己犠牲の精神を持ち合わせていない。
コートニーは、頑なに壁を向いているステアの背中に向かって、静かに声をかけた。
「いずれ誰かと結婚できたらいいなと、思っています。でも今は無理です」
「は?」
椅子が回転し、ステアが正面を向いた。
「君という人間は……」
ステアは呆れたような、それでいて少し毒気を抜かれたような複雑な表情を浮かべると、目にかかる髪を乱暴に払った。剥き出しになった、宝石のような紫の瞳と視線がぶつかる。
「相変わらず、自意識過剰だな」
「ですよね」
コートニーは素直に認めた。
(だって、その方が楽だもん)
自分の勘違いで済むなら、その方がいい。傷つかずに済むし、何より「愛」という名の執着に囚われて自分を見失わずに済む。そう自分に言い聞かせ、逃げ道を作る。
「僕が君を好きだなんて、自意識過剰以外の何者でもない」
(だから、わかったってば)
コートニーは内心毒づく。
「けれど、まぁ、君のように奇想天外な令嬢を扱えるのは、世界広しといえども僕くらいだろうけどな」
突き放すような彼の態度に、コートニーの中に小さな意地悪な火が灯った。
「じゃあ、殿下は私のことが好きではないってことですよね?」
彼を困らせ、慌てふためく様を見たい一心で飛び出した問いかけだった。
今までのステアなら、また壁を向くか、さらに屁理屈を重ねて逃げるはず。そう思っていたのに、不意に空気が変わった。
ステアは視線を逸らさず、それまでの強がりが嘘のように、突如として真剣な眼差しでコートニーを真っ直ぐに見つめてきた。
「……好きだ」
観念したような、それでいて心の底にある本音を全て叩きつけるような重みのある響き。真っ直ぐな紫の瞳に射抜かれ、今度はコートニーの方が言葉を失い、固まる番だった。
(え、今の流れで、どうしてそんなに真面目な顔で言うの……!?)
あまりにもストレートな告白が頭を埋め尽くし、処理が追いつかない。
急激に顔が熱くなるのを感じ、コートニーは耐えきれずに俯いた。
そんな彼女の動揺を気にも留めない様子で、ステアは言葉を続ける。
「だが、君がフィデリア国に行きたいと願う気持ちを、止める権利が僕にはない」
「え、あ……はい」
「だから……フィデリア国に行けばいい」
突き放すような言葉とは裏腹に、その声には隠しきれない寂しさが滲んでいた。なんとなく「やっぱり行くな」と引き止めてほしい自分に気づき、コートニーはさらに意地悪く畳み掛けた。
「本当に行っても、いいんですか?」
「いいと言っているだろう。そもそも僕は、君がフィデリアに行く件に反対していたわけではない。むしろ、賛成していたくらいだからな」
ステアは吹っ切れたような声で言い切った。
(確かに、そうだったわ)
彼は最初から、コートニーの意思を尊重し、常に彼女自身に決定権を委ねてきた。それは彼の深い優しさなのだろう。同時に、ふりかかる厄介な選択から逃げているだけのようにも感じられた。
(その態度のままじゃ、本当に欲しいものなんて手に入らないのに)
「賛成して、くれるんですね」
「何度も言わせるな」
不貞腐れた声が返ってくる。彼が認めてくれている事実は確かだが、コートニーが今聞きたいのはそんな事務的な確認ではなかった。
「……でも殿下は、私が好きなんですよね?」
再度、確認するように問いかける。
認めがたいが、心のどこかで「行くな」と言ってほしい自分がいる。
(そっか……)
こんなふうに、しつこく食い下がってしまうほどには、彼を好ましく思っているのだと、ようやく自覚する。
同時に疑問が湧き上がる。
好きな人が目の前からいなくなることがわかっていて、あえてその背中を押せるなんて、それは本当の「好き」なのだろうか。
(殿下の『好き』は、私の思っているような恋愛感情とは違うんじゃ?)
勘違いの好きを真に受けて、あとで独りよがりの傷を負うのは御免だ。
コートニーは火照る頬を抑えながら、この不器用な男性の本心を慎重に見極めようと、じっと彼を凝視した。
「たぶん、君が考えるよりずっと、僕は君のことが好きだよ」
まるでコートニーの疑念をすべて見透かしたかのような、重みのある響きだった。
「でも君は、飛び立ちたいのだろう?」
その言葉に、彼女の胸の奥がチクリと疼いた。
ああ、そうだった――と、これまでの自分の歩みを思い出す。
(私は、カモメになろうとしてたんだった……)
それは、監禁されたタウンハウスの自室で、フィデリア国の絵葉書を眺めていたときに気づいた、すべての始まり。
窮屈な貴族社会、身勝手な家族、そして自分を縛るあらゆるものから逃れ、自由を掴み取ろうと決意したあの日の情景が鮮明に蘇る。
「君はもう、僕の側から飛び立つ準備を始めている。だから、僕はそれを応援したいと思う」
ステアは椅子から立ち上がると、コートニーの目の前まで歩み寄り、静かに立ち止まった。
「君は、僕に遠慮などせずに自分の進みたい道を進めばいい」
大きな手が、コートニーの頭にそっと置かれた。
不器用ながらも慈しむようなその感触に、コートニーは思わず目を細める。
ステアは「好き」だからこそ、彼女を檻に入れるような真似はしない。
(そっか……いつも殿下はそうだったわ)
その徹底した尊重が、今はひどく切なく感じられた。
「でも……やっぱり、少し寂しい気持ちがしてきました」
自分でも驚くほど素直な、最後の悪あがきのような言葉が口をついて出た。それを聞いたステアの瞳が、わずかに揺れる。
「それは、僕も同じだ」
ステアはそう言うと、いっそ愛おしそうに彼女の頭を優しく撫でた。
「だから、君がフィデリア国に旅立つ前に……一度、二人で出かけないか?」
引き止めてはくれない。けれど、離れるその瞬間まで、彼女を大切にしようとする。ステアが差し出した最後の契約外の誘いに、コートニーは高鳴る鼓動を隠せぬまま、その提案にゆっくりと頷いた。




