096 公表されない罪と、解消されない婚約
切り裂き魔事件の犯人は、サラ夫人だった。
犯人が女性であったという事実は、主に精鋭部隊の男性陣を激しく困惑させた。
「まさか、女性だったとは……」
「女性が、あれほど残忍な行為を?」
「母になる者だというのに……」
彼らの中に根深く息づく「女性はか弱く、守るべきもの」という、騎士道精神に近い価値観。その教えが、今回の事件は凄まじい衝撃となって突き刺さった。
一方、円卓の貴婦人たちの反応は異なっていた。
「嫉妬の気持ちから、なのでしょうね」
「男性社会から『理想の妻』であることを、押し付けられた結果でもあるわ」
「血を重んじる貴族社会だからこそ、追い詰められてしまったのね」
彼女たちは、女性だからこそ、サラが凶行に及んだその背景を、痛いほど理解しているようだった。
ただし、両者に共通していたのは、
――だからといって、犯罪に手を染めていいはずがない。
という、至極真っ当な結論だった。
サラはその後、ステア殿下たちによって逮捕された。
通常であれば、これほど世間を騒がせた大罪人は公に晒され、人々の憎悪を一身に受けることになる。しかし、事件解決後の状況は、コートニーの予想とは大きく異なる方向へと動き出していた。
◇✧◇✧◇✧◇
舞台は、ステアの執務室。
夕刻の陽光が高い窓から斜めに差し込み、磨き上げられた床に長い影を落としている。かつては深夜まで書類の山と格闘し、殺伐とした空気が支配していたこの部屋も、今日はどこか穏やかだった。
事件解決を機に、過酷な勤務体系で疲弊しきっていた書記官や捜査官たちは、我先にと定時退勤の権利を行使して去っていった。
その結果、執務室内には、かつての濡れたネズミのような体臭を漂わせていた部下たちの姿はなく、廊下からも足音ひとつ聞こえてこない。
静まり返った室内には、琥珀色の夕闇が、じわじわと侵食を始めていた。
コートニーは、机の上に広げていた切り裂き魔事件のまとめファイルから顔を上げる。
最後のページをパタンと閉じ、その上を指先でなぞった。この厚みは、ステアと捜査官たちが命がけで駆け抜けた日々の結晶だ。
(やっと、一息つけるわね……。これで私の『逃走計画書:プロジェクト・フィデリア・第二章』が始動できるわ)
だが――。
沈む夕日を背に、デスクに肘をついていたステアの口から漏れたのは、耳を疑うような言葉だった。
「切り裂き魔の犯人は、公表しないことが決定した」
「……え? 公表、されないんですか?」
にわかには信じられず、コートニーは問い返す。
「秘密にする、ということですか? その理由は……?」
「もし、この事件の犯人が、ただの市民や移民であれば」
ステアは、冷徹な響きを帯びた声で続けた。
「新聞で大々的に取り上げ、責任を個人に帰結させ、溜まった不満の捌け口として国民に差し出すこともできただろう」
「それは……差別ではありませんか」
思わず、棘のある声が漏れる。
「ああ。その通りだ」
ステアは否定しなかった。
「しかし、多くの国民は、犯人像がそうであってほしいと望んでいる」
そして、静かに言葉を重ねる。
「今回の犯人は伯爵夫人だ。それも、慈悲深いと評判だった貴婦人。そんな人物が、これほどおぞましい殺戮を繰り返していた。それを知った時、市民感情はどうなると思う?」
「……貴族を、今以上に恨むと思います」
声を絞り出すように、コートニーは答えた。
劣悪な環境で喘ぐ貧困層。
汗水垂らして働く労働者たち。
彼らの血税で豪奢な暮らしを送り、道徳を説いていた支配階級が、裏では血の海を泳いでいた。
その裏切りは、単なる憎悪を超え、猛烈な火種となるだろう。
「恨むだけなら、まだいい」
ステアは淡々と言った。
「これまで従順だった者や、社会に憤りを抱えていた者たちが、抗議行動に出れば……我が国には、修復不能な不和が生じる」
それは、決して大袈裟な脅しではなかった。
国内が混乱すれば、他国の侵略を招く。
クラスコー王国そのものが、地図から消える可能性すらある。
そして何より、過激化した市民運動は、必ず新たな死者を生む。
模範市民であるべき貴族が殺人者になること。
それは、コートニーが想像していた以上に、この国の根幹を揺るがす重大事件だった。
(正義を貫けば、国が壊れる)
重苦しい沈黙の中で、彼女は統治者の選ぶ「正義」の複雑さを噛みしめる。
執務室を支配する沈黙は、水底に沈んだかのように重く、冷ややかだった。
喉の奥には、割り切れない思いが、苦い後味として残る。
その時、開け放たれた窓の向こうから、外界の音が流れ込んできた。
遠くで響く馬車の車輪。
仕事を終え、家路を急ぐ人々の談笑。
夕暮れを告げる、教会の鐘。
それは、恐怖から解放された街が取り戻した、あまりにも無防備で穏やかな日常の音だった。
この安らぎを守るための代償が、真実の隠蔽。
ステアが選んだのは、ひとつの正義を殺し、数多の平穏を生かすという、残酷な算術だった。
コートニーは、夕闇に沈みゆくステアの輪郭を見つめる。
その背中は、クラスコー王国という巨大な建物の歪みを、一人で支えようとする礎石のように見えた。
(私がどれほど憤ったところで、この流れは変えられない……)
彼女は、自分の中にあった理想の正義を、そっと脇に置いた。
肩の重みが消えたわけではない。ただ、抗うことをやめたことで、張り詰めていた神経が、ゆっくりと凪いでいくのを感じる。
コートニーは、肺の奥に溜まっていた熱を、細い吐息とともに吐き出した。
「公表されないのであれば、今回の件はどうなるのですか?」
「おそらく未来永劫、迷宮入りだ。表向きは犯人不明のまま、捜査打ち切りとなるだろうな」
ステアの答えに、コートニーは静かに頷いた。
(事件の真相が、闇に葬られてしまうなんて……)
納得がいかない。
それでも、国を揺るがす爆弾を抱え続けるよりは、それが唯一の現実的な選択肢なのだと、彼女も理解し始めていた。
「……ハウエル卿や、サラ夫人はどうなるのですか?」
「流石に、あのような凶行に及んだ者を野放しにはできない。伯爵夫人の方は、聖マリオット精神病院で治療を受けさせることになった」
「精神病院……ですか?」
驚きとともに、コートニーの脳裏に、かつて継母ソフィアに脅された記憶が蘇る。
きっかけは、義姉リリアとの些細な喧嘩だった。
父ウィリアムが自分に話しかけた回数が一度多かった、それだけの理由。
しかし、リリアを泣かせたコートニーに対し、ソフィアは激昂した。
『あなたみたいな子は、精神病院に収容してもらうしかないわね』
治療と称して血を抜かれ、煮え湯のような風呂に入れられ、暗闇に閉じ込められる。
冷酷な笑みとともに吐き出されたその言葉に、当時のコートニーは震え上がり、数日間、彼女の言いなりになって過ごした。
(そんな恐ろしい場所に……)
一瞬、哀れみが胸をよぎる。しかし、奪われた多くの命を思えば、サラ夫人の闇はあまりに深すぎた。
相応の報いなのだと、コートニーは無理やり自分を納得させる。
「ハウエル卿に、お咎めはないのですか?」
「彼の罪は、イースト地区で非合法な堕胎を行っていたことだ。だが、長年にわたり無料で医療を施し、市民からの信頼も厚い」
ステアは、言いづらそうに一度言葉を切った。
「市民感情を考慮し、今回は従医長の座を降格させるにとどめる」
「それは……」
言葉を失う。
妻の異常性に気づきながら、保身と歪んだ情愛から目を背け続けた男に、責任がないはずがない。
「サラ夫人が、あそこまで追い詰められたのは……夫であるハウエル卿の不実も原因だと思います」
憤りが、声に棘となって滲む。
だが、ステアの眼差しは揺るがなかった。
「彼が堕胎場所の提供をやめれば、不問にすべきだという声も多かった」
「そんな……」
「妻の凶行を黙認していた罪は重い。従医長の座を追われ、マーティンの代で伯爵位は返還される。事実上の取り潰しだ」
その言葉に、コートニーはようやく小さく息を吐いた。
名誉を重んじる貴族にとって、家名の断絶は死にも等しい。
それがあるのなら、せめてもの救いだ。
「……私に、何かできることはありますか?」
抵抗というより、目の前で重荷を背負う彼を、少しでも支えたかった。
「いや、特にない」
「この件には、もう関わるな。これ以上はどうしようもない」
突き放すような声だった。コートニーにはそれが、限界まで戦い抜いた末の言葉だと分かってしまう。
夕闇に溶けかかるステアの横顔は、酷く疲れて見えた。
そこにいるのは冷徹な王族ではない。泥臭く、必死に犯人を追い続けてきた一人の男だ。
(……殿下は、戦っていたのね)
権力の限界まで足掻き、それでも届かなかった。
その諦めが、彼の沈黙に滲んでいた。
「……わかりました」
納得はしていない。
それでも今は、この静かな絶望を共有するしかない。
窓の外で、風がさわさわと木々を揺らす。
執務室は、ひどく広く、寂しい場所に感じられた。
「ところで」
不意に、ステアが口調を変えた。
「切り裂き魔の件は、これで幕を閉じた」
「ええ……まあ」
後味の悪さは残るが、事件としては終わった。
「解決はした。しかし、表向きは、解決していない」
彼は、真っ直ぐコートニーを見る。
「となると。君と僕の婚約は、このまま継続されるということでいいな?」
「…………は?」
間の抜けた声が、静まり返った室内に落ちた。
(え、ちょっと待って?事件が終われば婚約解消、私の自由が始まるはずじゃ……!?)
予想外の一撃に、コートニーは完全に思考停止したまま、瞬きすることさえ忘れていた。




