095 正解のない罪
「もしかして……マーティンがジェーンさんに、正式な愛人にならないかと持ちかけたから、犯行を再開してしまったのですか?」
コートニーは、時期的な整合性から、彼女が最後の犯行に及んだ理由を推測して問いかけた。しかし、サラの答えは予想を裏切るものだった。
「いいえ。それが直接の理由じゃないわ。ジェーン・ミーハンは、妊娠が発覚した途端、主人の愛人にはならないし、子も堕胎すると……そんなことを言い出したからよ」
衝撃の事実が円卓に投げ出され、一瞬にして場が静まり返る。
(ジェーンさんは、お腹に宿った命を消すかどうか、その瀬戸際で揺れていた……悩んでいたのは、そういうことだったのね。)
「堕胎するなんて、どうしても許せなかった。私はエレノアのように、いつかその子を受け入れようと……愛人の子であっても、我が子として育てる努力をしようと決めていたのだから」
サラが吐き出した悲痛な決意に、今度はマーティンが耐えきれなくなったように声を絞り出した。
「それは……彼女が望んだことじゃない。彼女は私以外とも関係を持っていた。だから私がジェーンに告げたんだ。『君の面倒を見る代わりに、一度、体を元の状態に戻してくれ』と。……私が、言ったんだ」
マーティンが打ち明けた真実の重みに、出席者たちは石化したように固まった。
「……それは、ジェーンさん自身が望んだことなのですか?」
気づけばコートニーは、自分でも驚くほど低く冷ややかな声で尋ねていた。
(母親本人が悩むのは、その身体の持ち主として、人生の当事者として理解できる。けれど、他人が『堕胎しろ』と命じるのは、決して許されることではないわ)
コートニーの瞳には、マーティンを射抜くような鋭い色が宿る。
「私には『考える時間が欲しい』とだけ。だから彼女がどうしたかったのか、真意はわからない。だが、イースト地区で父親不明の子を産み落としても、待っているのは不幸だけだ」
マーティンは苦しそうに目を伏せた。
「そうですか……」
コートニーは短く相槌を打つ。しかし、胸の内では激しい憤りが渦巻いていた。勝手すぎる。あまりに自己中心的な論理だ。
(けれど……イースト地区。あそこが、ただ呼吸をして生き延びることさえ困難な場所だということも、事実。女性が一人で赤子を抱え、あの劣悪な環境で生きていける確率は……)
計算上、最悪の結果が導き出されることはわかっている。それでも、他人が強制的に命の選別を迫ることへの違和感に、コートニーは「正解」という言葉そのものが、意味を失いそうになるのを感じていた。
「ハウエル伯爵を庇うわけではないが」
沈黙を守っていたステアが、苦悶を滲ませた表情で口を開いた。
「城壁の外で暮らす者は、夢や希望などはとっくに手放し、肉体だけが生きようと足掻いている状態だ。そんな環境下で、女性が一人で生きていくのは、なかなかに難しい。堕胎は非合法であり、罪に問われるべき行為だ。しかし、あの地区に住む者すべてに『産め、育てろ』とは……とてもではないが、私には言えない」
ステアの告白は、王族として、またこの国の現実を知る一人の男としての、悲痛な限界点を示していた。
コートニーは、隣に座るステアの横顔を、じっと見つめる。
(殿下……。正論と、救いのない現実の狭間で、あなたもまた、毒に侵されるように苦しんでいらっしゃるのね)
円卓の上には、誰の答えも「正解」にはなり得ない、この国の深い闇が、濃縮されたかのように漂っていた。
「私はイースト地区の民の暮らしを正したい。だからこそ、望まぬ妊娠をした者に堕胎手術を行っている。それが幸せに繋がるわけではない。しかし、少なくとも現状維持はできるだろうから」
マーティンが吐露した言葉は、医師としての使命感と、逃れられない絶望とが混ざり合った、歪な響きを帯びていた。
「でも……それは、あなたのエゴではないんですか?」
コートニーは、抑えきれない感情のままに口を挟んでいた。
イースト地区が苛酷な場所であることは理解できる。しかし、だからといって、これから生まれてくる命の幸福や不幸を、第三者が勝手に天秤にかけ、摘み取っていいはずがない。
どうしてもその気持ちが拭えなかった。
「確かにそうかもしれない。だが、あなたがそう思えるのは、本当の地獄を知らない貴族だからだ」
マーティンの言葉には、一片の迷いもなかった。
それは、幾百もの「地獄」を目の当たりにしてきた者だけが持つ、冷徹な説得力に満ちていた。
(私がこの目で見てきたものは、まだ濾過された後の、ごく一部の不純物でしかなかったというの?)
突きつけられた現実の重みに、足元が揺らぐような感覚を覚える。
「そう……なのかもしれません」
何とか声を絞り出すのが精一杯だった。
家を飛び出した時、自分はこの世で一番不幸な境遇にいるのだと、思い込んでいた。けれど実際は、自分が守られた階級の、ごく狭い温室の中で嘆いていただけだったのだと、突きつけられた気がした。
(世の中の上辺しか見ていなかったのは、私がそれ以外の部分を、見ずに済む場所にいたから。疑問を抱くことすら、贅沢だったのね……)
世界の広さと、その奥底に澱のように溜まる闇の深さに、コートニーは己の未熟さを痛感し、打ちのめされていた。
「あなたがイースト地区のために努力しているのは、知っていましたわ。でも、それでも、私の恨みは消えませんの」
サラが、凪いだ声で、悲しそうに呟いた。その言葉は、もはや夫に向けられたものではなく、自分自身の心を確認する、儀式のようでもあった。
重苦しい沈黙が円卓を支配する中、コートニーは震えそうになる指先を膝の上で強く握りしめた。そして、逃げることなくサラの瞳を真っ直ぐに見つめ、ずっと避けてきた最後の確認を口にした。
「……ジェーンさんを殺害したのは、サラ夫人、あなたなのですか?」
祈るような、それでいて事実を確定させようとするコートニーの声が、静かに響く。
サラは一瞬、コートニーの瞳の中に亡き友・エレノアの面影を見たのかもしれない。彼女は否定も言い訳もせず、ただ静かに深く頷いた。
「ええ、そうですわ。あの方が妊娠しなければ……私は彼女を殺す必要はなかった。皮肉なことですわね」
サラの瞳は、どこか寂しげに遠くを見つめていた。その視線の先には、決して手に入らなかった幸福な未来があるのか、あるいは共に笑い合ったエレノアとの日々があるのか。
(結局、お母様が遺してくれた魔法も、剥き出しの現実の前では、無力だったということかしら……)
コートニーには、サラの瞳に宿る真意を解き明かす術はなかった。ただ、円卓を囲む空気の中に、取り返しのつかない喪失感だけが、重く沈殿していくのを感じていた。




