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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第十一章:引き止めない恋
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095 正解のない罪

「もしかして……マーティンがジェーンさんに、正式な愛人にならないかと持ちかけたから、犯行を再開してしまったのですか?」


 コートニーは、時期的な整合性から、彼女が最後の犯行に及んだ理由を推測して問いかけた。しかし、サラの答えは予想を裏切るものだった。


「いいえ。それが直接の理由じゃないわ。ジェーン・ミーハンは、妊娠が発覚した途端、主人の愛人にはならないし、子も堕胎すると……そんなことを言い出したからよ」


 衝撃の事実が円卓に投げ出され、一瞬にして場が静まり返る。


(ジェーンさんは、お腹に宿った命を消すかどうか、その瀬戸際で揺れていた……悩んでいたのは、そういうことだったのね。)


「堕胎するなんて、どうしても許せなかった。私はエレノアのように、いつかその子を受け入れようと……愛人の子であっても、我が子として育てる努力をしようと決めていたのだから」


 サラが吐き出した悲痛な決意に、今度はマーティンが耐えきれなくなったように声を絞り出した。


「それは……彼女が望んだことじゃない。彼女は私以外とも関係を持っていた。だから私がジェーンに告げたんだ。『君の面倒を見る代わりに、一度、体を元の状態に戻してくれ』と。……私が、言ったんだ」


 マーティンが打ち明けた真実の重みに、出席者たちは石化したように固まった。


「……それは、ジェーンさん自身が望んだことなのですか?」


 気づけばコートニーは、自分でも驚くほど低く冷ややかな声で尋ねていた。


(母親本人が悩むのは、その身体の持ち主として、人生の当事者として理解できる。けれど、他人が『堕胎しろ』と命じるのは、決して許されることではないわ)


 コートニーの瞳には、マーティンを射抜くような鋭い色が宿る。


「私には『考える時間が欲しい』とだけ。だから彼女がどうしたかったのか、真意はわからない。だが、イースト地区で父親不明の子を産み落としても、待っているのは不幸だけだ」


 マーティンは苦しそうに目を伏せた。


「そうですか……」


 コートニーは短く相槌を打つ。しかし、胸の内では激しい憤りが渦巻いていた。勝手すぎる。あまりに自己中心的な論理だ。


(けれど……イースト地区。あそこが、ただ呼吸をして生き延びることさえ困難な場所だということも、事実。女性が一人で赤子を抱え、あの劣悪な環境で生きていける確率は……)


 計算上、最悪の結果が導き出されることはわかっている。それでも、他人が強制的に命の選別を迫ることへの違和感に、コートニーは「正解」という言葉そのものが、意味を失いそうになるのを感じていた。


「ハウエル伯爵を庇うわけではないが」


 沈黙を守っていたステアが、苦悶を滲ませた表情で口を開いた。


「城壁の外で暮らす者は、夢や希望などはとっくに手放し、肉体だけが生きようと足掻いている状態だ。そんな環境下で、女性が一人で生きていくのは、なかなかに難しい。堕胎は非合法であり、罪に問われるべき行為だ。しかし、あの地区に住む者すべてに『産め、育てろ』とは……とてもではないが、私には言えない」


 ステアの告白は、王族として、またこの国の現実を知る一人の男としての、悲痛な限界点を示していた。


 コートニーは、隣に座るステアの横顔を、じっと見つめる。


(殿下……。正論と、救いのない現実の狭間で、あなたもまた、毒に侵されるように苦しんでいらっしゃるのね)


 円卓の上には、誰の答えも「正解」にはなり得ない、この国の深い闇が、濃縮されたかのように漂っていた。


「私はイースト地区の民の暮らしを正したい。だからこそ、望まぬ妊娠をした者に堕胎手術を行っている。それが幸せに繋がるわけではない。しかし、少なくとも現状維持はできるだろうから」


 マーティンが吐露した言葉は、医師としての使命感と、逃れられない絶望とが混ざり合った、歪な響きを帯びていた。


「でも……それは、あなたのエゴではないんですか?」


 コートニーは、抑えきれない感情のままに口を挟んでいた。


 イースト地区が苛酷な場所であることは理解できる。しかし、だからといって、これから生まれてくる命の幸福や不幸を、第三者が勝手に天秤にかけ、摘み取っていいはずがない。


 どうしてもその気持ちが拭えなかった。


「確かにそうかもしれない。だが、あなたがそう思えるのは、本当の地獄を知らない貴族だからだ」


 マーティンの言葉には、一片の迷いもなかった。

 それは、幾百もの「地獄」を目の当たりにしてきた者だけが持つ、冷徹な説得力に満ちていた。


(私がこの目で見てきたものは、まだ濾過された後の、ごく一部の不純物でしかなかったというの?)


 突きつけられた現実の重みに、足元が揺らぐような感覚を覚える。


「そう……なのかもしれません」


 何とか声を絞り出すのが精一杯だった。

 家を飛び出した時、自分はこの世で一番不幸な境遇にいるのだと、思い込んでいた。けれど実際は、自分が守られた階級の、ごく狭い温室の中で嘆いていただけだったのだと、突きつけられた気がした。


(世の中の上辺しか見ていなかったのは、私がそれ以外の部分を、見ずに済む場所にいたから。疑問を抱くことすら、贅沢だったのね……)


 世界の広さと、その奥底に澱のように溜まる闇の深さに、コートニーは己の未熟さを痛感し、打ちのめされていた。


「あなたがイースト地区のために努力しているのは、知っていましたわ。でも、それでも、私の恨みは消えませんの」


 サラが、凪いだ声で、悲しそうに呟いた。その言葉は、もはや夫に向けられたものではなく、自分自身の心を確認する、儀式のようでもあった。


 重苦しい沈黙が円卓を支配する中、コートニーは震えそうになる指先を膝の上で強く握りしめた。そして、逃げることなくサラの瞳を真っ直ぐに見つめ、ずっと避けてきた最後の確認を口にした。


「……ジェーンさんを殺害したのは、サラ夫人、あなたなのですか?」


 祈るような、それでいて事実を確定させようとするコートニーの声が、静かに響く。


 サラは一瞬、コートニーの瞳の中に亡き友・エレノアの面影を見たのかもしれない。彼女は否定も言い訳もせず、ただ静かに深く頷いた。


「ええ、そうですわ。あの方が妊娠しなければ……私は彼女を殺す必要はなかった。皮肉なことですわね」


 サラの瞳は、どこか寂しげに遠くを見つめていた。その視線の先には、決して手に入らなかった幸福な未来があるのか、あるいは共に笑い合ったエレノアとの日々があるのか。


(結局、お母様が遺してくれた魔法も、剥き出しの現実の前では、無力だったということかしら……)


 コートニーには、サラの瞳に宿る真意を解き明かす術はなかった。ただ、円卓を囲む空気の中に、取り返しのつかない喪失感だけが、重く沈殿していくのを感じていた。

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