092 婚約破棄疑惑と、家族会議という名の公開処刑
父クレイグの書斎。
ノックもなしに扉が開かれ、母エロイーズが登場した。
(どうやらこの王城内には、プライベートという概念そのものが存在しないらしいな……)
ステアは脱力感に襲われそうになるのを必死にこらえた。
「母上、どこからお聞きに?」
ルイが、まるで自分は無関係だと言わんばかりの平然とした顔で尋ねる。
「もちろん、最初からよ。だってあなたたちが書斎で話し込むなんて珍しいんですもの」
エロイーズは悪びれた様子もなく、むしろ「当然の権利だ」と言わんばかりに言い切った。
(最初から、だと? 極秘の談義を盗み聞きしていたと、仰るのか……)
一番知られたくない、そしてこの上なく厄介な人物に内情をすべて知られてしまった。ステアは思わずこめかみを押さえ、頭を抱える。
「あなた、ステアが婚約破棄をするというのは本当なのかしら?」
エロイーズが、それはもう眩しいほど美しく微笑みながら、クレイグの逃げ場を塞ぐように詰問した。その微笑の奥にある「正解以外の回答は認めない」という圧力に、百戦錬磨の国王さえも一瞬怯んだように見えた。
「いや、私もまだ……そういう噂があると、報告を受けた段階だ」
クレイグが助けを求めるような視線をステアへ向けてくる。ステアは覚悟を決め、一歩前に出た。
「母上、僕はコートニー嬢と婚約破棄をするつもりはありません」
きっぱりと告げたその声に、迷いはなかった。エロイーズは意外そうに目を丸くし、次の瞬間、まるで待ち望んでいた答えを得たかのようにぱっと顔を輝かせた。
(嘘はついていない。心も痛まない。先日、彼女には僕の考えを……『結婚するべきだ』という結論を伝えたのだから)
もっとも、その根拠がメリットの羅列だったせいで、彼女からは「過労による判断力の低下」と切り捨てられた。それでも彼女がフィデリア国行きを選ぶのなら、それは彼女の意思だ。
だが、少なくとも自分の方から彼女を手放す選択肢は、ステアにはない。
「そうよね。やっぱりステアは私の息子だわ!」
歓喜したエロイーズは、ステアの手をがしっと掴むと、力任せにぶんぶんと振り回し始める。
(……痛い。母上、このままでは腕の関節が外れそうです)
王妃の凄まじい握力と熱量に圧倒されながら、ステアはなすすべもなく揺さぶられた。
母には逆らえない。
それは、切り裂き魔の正体を突き止めるよりも明白な、この家の絶対的な力学だ。
「ただ、コートニー嬢の元に、フィデリア国にいる祖父マイケル・スタイナー氏より手紙が届き、彼女自身もあちらの国へ渡りたいと願っているようです」
ステアは、彼女が抱くあまりに純粋な「自由への憧れ」を、少しでも理解してもらおうと現状を伝えてみた。
「まあ、なんてこと……。でもステア、あなたはコートニーと恋仲なのよね?」
「まあ、あの本の内容が少なからず、遠からず……といった感じですかね」
(嘘ではない。あの小説に描かれた異常なまでの観察眼の描写と、振り回される主役の構図は、我々の日常そのものだ。ただ、中身が『溺愛』かどうかについては、彼女ふうに言うならば、成分分析が必要だが……)
思わず泳いでしまった視線を、ルイは見逃さなかった。
「父上、母上。ステアのこの様子からすると、明らかに小説の内容と現実には、致命的な乖離があるようですね」
ルイが冷徹に断じると、ステアの背中に嫌な汗が伝った。
(兄上……! そこで『乖離』という言葉を使うのはやめていただきたい。事実ではあるが、もう少しオブラートに包んでいただきたいのだが?)
「どうして嘘なんかつくのかしら?」
母がステアの方をじっと見て、首を傾げた。その瞳は、逃亡を図る小動物を追い詰める猛禽類のような鋭さを帯びている。
「……嘘ではありません。ただ、現実は小説よりも少々、その……手続きが複雑と言いますか」
「さすがに赤裸々に国民に示す必要はないだろう」
クレイグが低い声で補足する。
「色事の詳細は、王族の品位に関わるからな」
「ええ、父上のおっしゃる通りです」
ルイが、わざとらしく肩をすくめた。
「二人だけの秘密にしておきたい、大切な思い出でもあるのでしょう。あるいは、あまりに甘すぎて、口にするのも憚られるとか?」
含みを持たせて笑うルイ。
(……助かるが、絶妙にニュアンスが違う方向に補完されている気がする)
父と兄の助け舟はありがたかったが、ステアの心境は複雑だった。
実のところ、この婚約が「期間限定」の契約であることは、家族には伏せている。
もし明かせば、この愛すべき、しかし干渉の激しい家族が総出で反対し、計画が破綻するのは火を見るより明らかだったからだ。
(だが、父上と兄上はどこで『婚約破棄』なんて言葉を拾ってきたんだ……?)
「そうよね、二人だけの思い出は秘密にしておきたいものね」
エロイーズは納得したように頷き、次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、コートニーはステアとの結婚準備をしに、フィデリア国へ行くということなのかしら?」
「いえ、その……まあ、そうかも?」
エロイーズの凄まじいポジティブ・バイアスに引き寄せられたステアは、歯切れの悪い返答を返す。
「まあ、そうなのね! でも、コートニーがフィデリア国へ渡ってしまったら、ステアは寂しくなるでしょうね。だって、あなたがついていくわけにもいかないし……海を越えた遠距離恋愛になるのね……」
頬に手を当て、心配そうにステアを見つめるエロイーズ。
「いや、僕は……」
「それで、どのくらいで戻ってくるのかしら? そう言えば、婚約はしたけれど、そろそろ結婚の時期も決めないとよね」
あまりに突拍子もない話の飛躍に、ステアは目を見開いた。
「母上、落ち着いてください。どうやら根本的な部分で勘違いしているようですよ」
ルイが、冷水を浴びせるような冷静さで口を挟む。
「勘違い?」
「はい。私が仕入れた情報によると、どうやらコートニー嬢は、フィデリア国に永住するつもりのようです」
(兄上、そこまで露骨に言わなくても……!)
ステアは、兄の容赦ない情報開示に、思わず目眩を覚えた。
「あら、どうして? 第二王子とはいえ、ステアがこの国を離れられないのは分かっているでしょうに」
エロイーズの素朴な疑問に、ルイは丁寧に、そして致命的な一撃を重ねる。
「コートニー嬢も、その点は理解しているはずです。その上で戻らないというのなら……結婚どころか、最初から婚約破棄を考えているのではないか、と父上と私は推測したわけです」
ルイの補足によって、書斎の空気が一気に張り詰めた。
ステアは、もはや母の追及から逃れられないことを悟る。
(兄上……火に油を注がないでください)
「……永住、ですって?」
エロイーズの声から、温度が消えた。
彼女はゆっくりと、獲物を定めるようにステアへ視線を戻す。
「一体、あなた達は何を企んでいるの?」
「何も……」
「正直に話しなさい」
「母上、落ち着いてください」
ルイがなだめに入るが、母は聞く耳を持たない。
紫の瞳は、もはや審問官のそれだった。
「ステアはコートニーに愛想を尽かされそうなの? それとも、あなたが彼女をいじめているの?」
(いじめる? むしろ、消毒液を噴射されたり、逃げ回られたりしている僕の方が被害者では……?)
反論を飲み込み、ステアは慎重に言葉を選ぶ。
「母上、僕は別に……」
「はっきり言いなさい! 本当に、昔から口下手なんだから!」
(話をさせてくれないのは、母上の方では……)
感情の奔流に巻き込まれるたび、女性という存在を煩わしいと感じてしまう自分を、ステアは内心で戒めた。
その時、再びルイが助け舟を出す。
「母上、ステアはコートニー嬢をいじめてはいません」
「だったら、どうして婚約破棄なんて話になるの?」
矛先は逸れない。
ステアは深く息を吸い、覚悟を決めた。
「……コートニー嬢自身が、婚約破棄を望んでいるからです。僕は、彼女の意志を尊重するつもりです」
エロイーズは目を見開いた。
「どうして? あんなに仲が良かったじゃない!」
(仲が良い……。事件の話をしている時だけなら、確かにそう見えるだろうが……)
恋や愛で結ばれた関係ではない。
だが、それを正直に告げれば、事態は悪化するだけ。
窮地に陥ったステアは、話を逸らす意味も含めて父に向き直る。
「ところで父上と兄上は、なぜ僕が婚約破棄を考えていると思ったんですか?」
「いつまでも、お前が婚約指輪を贈らないと聞いてな」
クレイグの率直な言葉に、ステアは言葉を失った。
(指輪……。契約ばかり意識して、形式を怠っていたのか)
「……確かに」
ルイも頷く。
「二人の関係があまりに淡白すぎる。例の本では熱愛のようだが、城内では噂一つ立たないと、妻のレイラも言っていた」
(義姉上まで……)
客観的に見れば、疑われるのも無理はない。
ステアは妙に納得してしまった。
「でも、ステア。彼女が嫌いじゃないんでしょう?」
「……だとしても、彼女にその気がない以上、僕にできることはありません」
彼女の自由を尊重する。
それが自分なりの、最も誠実な合理性だった。
「そう……なの?」
納得しきれない母に、ルイが静かに告げる。
「逃した魚は大きかったと、あとで後悔しないよう最善を尽くすべきだ。そもそも、一人の女性も幸せにできない者が、この国を幸せにできるはずがない」
その言葉が、重く胸に残った。
書斎の窓の外、夜の闇を見つめながら、ステアはまだ見ぬ結論を探すのだった。




