表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第十章:合理的王子は、彼女を手放す覚悟ができない
91/101

091 聖者の指に残った、血の指輪

 ステアは、父である国王クレイグの書斎特有の、重厚な革と古い紙の匂いに包まれながら、胸の内に渦巻く焦燥を押し殺していた。


 ここには現在、クレイグと、兄である王太子ルイ、そしてステアの三人しかいない。国政の心臓部とも言えるこの場所で、いま一人の貴族の運命――ひいては国家の威信を揺るがす問題が議論されていた。


 母である王妃から託されたのは、コートニーの母の形見とされる指輪。それが、最悪の形で、「切り裂き魔」の捜査線上にハウエル伯爵マーティンの名を浮上させたのだ。


(解剖学や外科学に通じた高度な知識……。これまでの凄惨な手口から犯人像を絞り込んできたが、まさか、その条件に最も合致する人物が、身内に等しい存在だったとは)


 捜査は苛烈を極めていた。すでに七十六軒もの肉屋や屠殺業者を虱潰しに当たり、二千人以上の事情聴取を経て、八十人以上を拘束し、釈放してきた。それでも尻尾を掴めなかった怪物の影が、今、最も高潔とされる人物の背後に重なっている。


「父上、ハウエル伯爵の犯行が真実であるかどうかを確かめることは重要です」


 ステアは、祈るような心地でクレイグを見つめた。真実を暴きたいという執念と、どうか間違いであってほしいという微かな願望が、彼の声をわずかに震わせる。


「しかし、ステア。彼は我が国においてかなりの地位を保持している上に、イースト地区においては、弱者を救うヒーローとして多くの者から慕われているようだぞ」


 兄のルイが、懸念を口にする。クレイグと同じ黄金色の髪を揺らし、ステアと同じ紫の瞳に深い影を落としていた。


「そうだな……。昔からマーティンは、医療の知識を活かし、恵まれない者へ施しを与えてきた。貧民街の見回りまでこなす献身的な男だ。そんな彼が、あのような残忍な犯罪を犯すなど、私にもにわかには信じ難いのだがな」


 クレイグは、前髪をくしゃりと握り込みながら深いため息を吐いた。長年の友人でもある伯爵への信頼が、王としての理性を鈍らせているのが見て取れる。


(……父上にとっても、この国にとっても、彼が犯人であることは最大の悲劇だ。だが、現実は残酷なまでに形を成している)


「しかし、最新の被害者であるジェーン・ミーハンのものと思われる指輪を、彼の妻であるサラ夫人が所持していたのです。しかも彼女の証言によれば、それは夫であるハウエル卿から、結婚記念日に贈られたものだと……」


 ステアは一歩踏み出し、断腸の思いで言葉を継いだ。


「さすがに、これを見過ごすことはできません」


(もし、あの聖者の仮面の下に怪物が潜んでいるのだとしたら。そして、コートニーが危惧したように、微細な血痕がその「絆」の証拠として残っているのだとしたら……。僕は、彼を裁かねばならない)


 重苦しい沈黙が書斎を支配する。

 ステアの脳裏には、先ほどまで向かい合っていたコートニーの真剣な瞳と、彼女が暴き出そうとしている「隠された真実」が、鮮明に焼き付いていた。


「ふむ。その件については、本人に裏を取ったのか?」


 クレイグの鋭い視線が、射抜くようにステアを捉えた。


「いいえ、伯爵家が絡むことですので、まずは父上にお知らせしてからにしようかと」


 ステアが答えると、クレイグは「そうか……」と重苦しく呟き、視線を落とした。


「王族の侍医長である彼を、犯罪者として有罪にすることは、大変な政治的影響を及ぼすだろうな」


 兄のルイが険しい表情で危惧を口にする。その言葉を聞いた瞬間、ステアは無意識に眉をひそめていた。


(地位や名声が、真実を覆い隠す盾になるというのか。万が一、彼が本当にあの凄惨な現場に立っていたのだとしたら……証明されたところで裁けないなど、あってはならないことだ)


 胸の内に湧き上がるもどかしさを、ステアは奥歯を噛み締めて堪えた。クレイグは深いため息をつき、重苦しい表情でルイを見つめる。


「そうだな、私もそのことを考えている。伯爵は長年にわたり我が国に奉仕してきた忠実な臣下だ。しかし、証拠は彼を指し示している。私たちは、この難問をどう解くべきか決断せねばならん」


「ですね。……とりあえず、アリバイは?」


 ルイの問いに、ステアは淀みなく現状を報告した。


「最後の犯行日以外は、不明です。ただし、今回亡くなったジェーン・ミーハンと顔見知りであり、定期的に逢い引きをしていた。その事実は間違いなく裏取りが取れています」


「ふむ。マーティンには跡取りがいない。ジェーン・ミーハンという娘に子を産ませようとしていたのだろう。こればかりは、彼を責めるわけにはいかんだろうな……」


 クレイグが低い声で唸るように言った。


(跡取りのためなら、身分の低い娘を囲うことは貴族の常識かもしれない。だが――)


「しかし、それで罪を犯していいわけがありません」


 ルイの真っ直ぐな言葉が書斎に響く。兄の意見にステアも深く同意した。どれほどの事情があろうと、人命を損なう免罪符にはなり得ないからだ。


「ステア、最後の日以外ということは、ジェーン・ミーハン殺害時に、マーティンには、アリバイがあったということなのか?」


「実はジェーンの殺害推定時刻、ハウエル卿は『ホワイツ』に顔を出していたことが判明しています」


「だとすると、ハウエル卿は容疑から外れるのではないか?」


 ルイがすかさず疑問を呈したが、ステアは首を振った。


「私も最初はそう思いました。しかし、王都の質屋を回ったところ、問題の指輪の売買記録がどこにも見つからないのです」


「闇市……でも、さすがに買わないか」


 クレイグが顎に手を当て、思考の海に沈む。


「だとすれば……ハウエル卿はどうやってその指輪を手に入れたというのだ?」


(そこだ。質屋に流れておらず、売買記録もない。被害者が身につけていたはずの指輪が、なぜハウエル卿の手を経て、サラ夫人の指に渡ったのか。……現場にいた者から直接手に入れたとしか考えられない)


 ステアはため息をつきたい気持ちを抑え、クレイグへと視線を向けた。


「父上、そういうわけで、もはや本人に確かめるしかなさそうな状況なのです」


 クレイグは一度目を閉じ、深く深呼吸をしてから、ゆっくりと瞼を開けた。


「そうだな。確かに一番合理的な方法は、本人に確かめることだろう」


 三人は重々しく頷き合った。ようやく一歩前進したと、ステアが安堵の息を漏らしたのも束の間だった。


「ところで、不穏な情報を入手したのだが。ステア、お前はコートニー嬢と婚約破棄をするつもりなのか?」


(――なっ!?)


 あまりに唐突なクレイグの質問に、ステアの思考が一瞬ホワイトアウトした。


「……なぜそれを?」


 クレイグに言葉を返したのは、ルイだった。


(なぜ、父上だけではなく、兄までもが僕の内密な情報を知っているのか)


 最悪の予感がステアの背筋を走った。そして、その予感は完璧なタイミングで的中する。


「ちょっと、いいかしら」


 バタン、と勢いよく扉が開かれた。振り返るまでもない。その凛とした、それでいてすべてを見透かしたような声音の主。


 予想通り、母である王妃が入室してきたのである。


(母上……つまり、この話はもう、家族全員の共通認識だということか……!)


 ステアは、これから始まるであろう「別の意味での厳しい尋問」を予感し、目の前が暗くなるのを感じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ