090 夜風に紛れた、ほぼ告白
「……嫌です」
「は?」
ステアはコートニーの拒絶に、意外そうに目を見開いた。
「だって、私たち、愛し合っていないじゃないですか」
コートニーは当たり前のことだと言わんばかりに、冷めかけた紅茶を啜った。
「それは……確かにそうだな……」
彼女の指摘に、ステアは気まずそうに目を逸らす。
「でも、僕は君を嫌だとは思わないんだが」
「え?」
コートニーは思わず紅茶カップを持ったまま、固まった。
それからすぐに、弾かれたように尋ねる。
「嫌ではない? それって、どういうカテゴリーの感情なんですか?」
「だから……その……」
ステアは珍しく歯切れが悪く、口ごもる。
彼の頬は、夕闇に灯るガス灯のように、淡く、けれど確かに赤く色づいている。
(え、どうしたの? まるで恋する乙女みたいな、その反応は……な、なに?)
正直、彼から「嫌だと思わない」と言われたことは有り難い。
けれどそれは、有能な部下を重宝するような、功利的な信頼に近いものだろう。
「えっと……なんだか私たち、会話が噛み合っていない気がしますわ」
「……どこがだ?」
「私は、殿下が私を愛していないから結婚は嫌だと申し上げたんです。でも殿下は、私が嫌ではないからいいと仰ったでしょう?」
「ふむ」
「そもそも、殿下のその『嫌だと思わない』というお気持ちは、愛とか恋の類なのですか?」
沈黙が落ちた。ステアは視線をさまよわせ、ようやく、吐くように言った。
「僕の人生において、君以上に僕の知的好奇心を刺激し、なおかつ、平穏と不測の動揺を同時にもたらす個体は、他に存在しない」
(個体!? ちょっと今、私を個体って呼んだ!?)
コートニーは絶句し、悲観的な予測システムが警報を鳴らし始めた。
自分の最大の武器は、母から受け継いだ莫大な遺産金。
美貌や慎ましさは所詮「借り物のメッキ」だ。
中身に至っては、フレデリックいわく、理屈っぽいオタクとのこと。
(消去法で考えれば、経済的援助が目的。そう考えるのが最もしっくりくるけど……)
違和感を覚え、目の前に出されたプリンを見つめる。
プリンが乗せられているのは、縁に繊細な金彩が施された白磁の皿だった。
よく見ると、黄金色のカラメルが鏡のように光を反射している。スプーンを差し入れるのがためらわれるほど、そのプリンは気高く、そして恐ろしく高級そうに見えてきた。
(これほど贅沢な一皿を出すお店に、ただの侍女を誘える王家が、金欠なはずがない。つまり、この提案の裏に隠された動機は、経済的メリットではないということ? でも……)
思考が混線してきたコートニーは、プリンから目を逸らすと、ステアの紫色の瞳を正面から見据えた。
「もしかしてステア殿下は、お金に困っていらっしゃるんですか?」
単刀直入に質問をぶつけた。
「困ってない」
ステアは、食い気味に返した。
「ですよねー」
コートニーはあっさり納得して、肩の力を抜く。
そもそも、クラスコー王国の第一王子が金銭難に陥っているとなれば、それは国家存亡の危機だ。
コートニーは目の前の豪華なプリンの表面を、スプーンの背で軽く叩いた。ぷるん、と弾力のある抵抗が返ってくる。
「金銭問題でないとなると、いよいよ殿下の『判断能力の著しい低下』説が濃厚になってきましたわ。いいですか殿下、現在、国家存亡の危機ではありませんが、殿下の正気存亡の危機が迫っています」
「……なぜそうなる」
「だって、おかしいじゃありませんか。お金に困っていない王家が、わざわざ私のような『中身が理屈っぽいオタク(実兄談)』の女を、一生の伴侶に選ぶなんて。もっとこう、美しくて、話が弾んで、死体や血痕の話をデザートの最中に始めない、わきまえた令嬢が山ほどいるはずです」
コートニーは、まるで他人の論文の不備を指摘するかのように、淡々と自分自身の欠陥を並べ立てた。
「それに、殿下が仰った『個体』という表現。あれは学術的な分類であって、愛の告白に使う言葉ではありません。つまり殿下の感情回路は今、過労によってショートし、私を『便利な多機能ツール』か何かと誤認なさっているのです」
「……コートニー嬢」
「今すぐその結婚案を白紙に戻し、十分な糖分と睡眠を摂取してください。さあ、このプリンを半分差し上げますから」
彼女は宝石のようなプリンを潔く半分に割り、ステアの皿へ押しやった。
ステアは差し出されたプリンと、鼻息荒く自分を救おうとしているコートニーを交互に見た。
そして、ふっと力なく笑い、こめかみを押さえた。
「……君は、自分の価値を低く見積もりすぎている。それとも、私の好みがそれほどまでに信じられないのか」
「後者です。殿下はもっと……まともだと思っていました」
「手厳しいな。いいか。僕が君を『個体』と呼んだのは、君が他の誰とも代替不可能な、唯一無二の存在だと言いたかったからだ。……確かに言葉選びを誤ったかもしれないが……まあ、そこは謝ろう」
ステアはコートニーが分けたプリンを一口食べ、表情を和らげた。
「うまい……」
目を細め、無意識にこぼれたその一言。ステアの表情は、初めて菓子を与えられた子どものように無防備なものに変わっていた。
(……っ! 今の「うまい」は反則だわ! ズルすぎる。あんなに理詰めで『結婚のメリット』なんて並べておきながら、こんなに可愛らしい反応を見せるなんて。私の胸の動悸が不整脈のカテゴリーに分類されてしまうじゃない!)
そんなコートニーの激しい動揺に気づく様子もなく、彼は再び真剣な眼差しをこちらへ向けた。
「まあ、今すぐ決断を下せとは言わない。だが、僕は君と結婚してもいいと思っているし、できたら君も、僕との結婚を前向きに考えてくれると有り難い」
「はぁ……」
コートニーは、生返事をするのが精一杯だった。
舌の上で広がるプリンの極上の甘さと、脳内を駆け巡る複雑怪奇な結婚方程式。二つが混ざり合い、彼女のキャパシティを優に超えていく。
(前向きに、って言われても……。冷静に考えて、未来の王妃になるなんて、『自由な家出計画』とは対極にある未来だし。でも、あの無防備な顔を独り占めできる権利が含まれているとしたら、それは……意外と悪くない投資先、なのかもしれないけど)
逃げるように次のスプーンを口に運んだコートニーだったが、もはやプリンの味は、自分の心拍音にかき消されてよく分からなくなっていた。
◇✧◇✧◇✧◇
無事に食事を終え、二人はレストランの外へと足を踏み出した。
夜の冷たい空気が、先ほどまでの甘くも奇妙なプロポーズの熱を、物理的な「対流」によって奪い去っていく。
コートニーは大きく息を吸い込み、肺胞の隅々まで新鮮な酸素を行き渡らせた。
「ふう、生き返る。やはり密室での議論は二酸化炭素濃度が上がって、思考にバイアスがかかりますね」
「……君は、あんな感動的な、あるいは、絶望的な話をしていた最中も、酸素濃度のことを考えていたのか」
隣でステアが、呆れたように笑う。その足取りは、先ほど店内で見せていた儚げな様子とは打って変わり、どこか吹っ切れたような力強さを取り戻していた。
「当然です」
「コートニー嬢」
突然、ステアが足を止め、彼女を呼び止めた。
その声音があまりに真剣だったため、コートニーは隣に並ぶ彼を見上げる。
街灯のぼんやりとした光が、ステアの長い睫毛の影を頬に落としていた。
彼は何かを言い淀むように視線を彷徨わせたあと、意を決したようにコートニーと目を合わせる。
「先ほどの話……君が『嫌だと思わない』という私の言葉に、愛の成分が含まれているのかと尋ねた件だが」
(あ、まだその話、引きずっていらしたのね。言い過ぎちゃったかしら?)
コートニーが口を開こうとした、その瞬間。
ステアの手が、わずかに力を込めてそれを制した。
「今の私に言えるのは……君が目の前からいなくなると想像するだけで、胸の奥が冷える。それだけは、確かなんだ」
一拍置いて、彼は静かに続ける。
「これを科学的に『エンドルフィンの減少』と呼ぶのか、それとも『愛』と呼ぶのかは、君の鑑定に任せよう」
それだけ言うと、ステアは少し照れたように視線を逸らし、馬車の扉を開けて彼女を促した。
「さあ、行こう。君の言う通り、まず僕たちに必要なのは睡眠だからな」
コートニーは、差し出された彼の手を見つめながら、一瞬だけ硬直した。
(胸の奥が冷える、ですって? 今の言葉、愛の告白に近いものがあったような気がするんだけど……)
頬がじわりと熱くなるのを自覚しつつ、彼女はその変化を、「夜風による急激な温度変化のせい」と、強引に意味づけしておいた。




