009 王子に捕まる
――近い。
いつ隣に来たのか、まったく気づかなかった
薄汚れていない茶色いコートに、襟元には暖かそうな黒いマフラー。男は寒いのか、顔を隠すようにフロックコートの襟を立て、両手をポケットに突っ込み、肩をすくめていた。声の感じからすると若そうで、値踏みするような、それでいてどこか面白がっているような光を瞳に宿している。
周囲の男たちは、こちらを一瞥しただけで、すぐに興味を失った。
誰も、このやり取りに割って入る気配はない。
「……あ、あの、なんのことだい?」
慌てて少年の声音を作り、コートニーは裏返りそうになる声を抑えた。
リュックの口を素早く締め、証拠となる「逃亡計画書」を奥へ押し込む。
「男装姿の娼婦って、わりと流行ってるらしいけど、君もそうなんだろ?」
「娼婦?」
「知ってるくせに。例の切り裂き魔、ミッドナイト・テイラーの話だよ」
その名が出た瞬間、空気が一段、冷えた気がした。
(ミッドナイト・テイラー!王都を騒がせている連続殺人鬼のことね)
確かに、王都では娼婦が連続して殺害される事件が起きている。
最近警察から開示された情報によると、事件は必ず「真夜中」から夜明け前の静寂の中で行われ、犯人は単に被害者を殺害するだけでなく、遺体に刃物で執拗に傷をつけるのが特徴らしい。
名前の由来は、とある新聞の見出し。
『真夜中の仕立屋が、あなたのサイズを測りに来る』
そんなセンセーショナルな見出しが市民にわかりやすく定着した結果だ。
「……何のことか、さっぱりわからないな」
コートニーは震える指先を隠すようにリュックを強く抱きしめた。
少年の振りをしているのに、男の言葉は明確に自分を「女性」だと決めつけている。
「切り裂き魔に襲われるのは娼婦だ。だから彼女たちは最近、男装して客引きをしている。男に見間違えられれば、切り裂き魔に襲われないって理由でさ。君も、そうなんだろ?」
男は、声を落とした。
まるで秘密を共有するように。
男性はさりげなく腰をずらし、コートニーに近づいてくる。
逃げ場が、少しだけ狭くなる。
「僕は男性だけど」
「またまた。君はどう見たって女性じゃないか。しかも、まだ若いだろ?」
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねた。
(……私の変装、意味をなしてないってこと!?)
コートニーは慌ててハンチング帽の縁を掴み、さらに深く被り直した。
だが、男の視線は容赦なく、彼女の喉仏のない首筋や、ジャケットの上からでも隠しきれない華奢な肩のラインを正確に捉えている。
「で、君はいくらなの?」
値段、という単語が出た瞬間、背筋が粟立った。
「だ、だから、僕は違います。悪いけど、他を当たっていただけますか?」
「やだね。今日は寒さのせいか、他に適当な子が見当たらない。それに今は、お貴族様がシーズンで王都に集結してるから、可愛い子はみんなそっちに取られちゃうんだよねぇ」
男性の言葉に、目を丸くする。
もちろん、貴族男性が女遊びのために、そういう場所に通うことがある――という噂くらい、コートニーも耳にしたことがある。
(けど、何というか……)
第三者から赤裸々に聞かされると、話は別だ。複雑な心境を通り越して、無性に腹が立ってきた。
「だからさ。一晩、付き合ってよ」
「無理です。僕は始発に乗るので」
「まだ三時間以上あるよ? 俺、わりと淡白だし」
(タンパクとは、私が淑女教育の過程で習った、たんぱく質のこと?)
なぜ急にそんな話になるのか。
首を傾げつつ、コートニーはあくまで冷静に、知識を反芻するように言葉を返した。
「動物性とか植物性とか、その、たんぱく質ですか?」
「そうだねぇ。いつもは動物的だけど、今日は君、時間がないみたいだし。植物性で、あっさりめにするけど?」
「あっさりめですか……」
全く意味がわからない。
「あなたは、僕を娼婦だと勘違いした」
「勘違いじゃなくて、そうだよね?」
違う、と念入りに否定したい気持ちを堪え、状況を整理するため、次なる疑問を挙げる。
「それで、なぜたんぱく質が出てくるのか。それが僕にはわからない」
「いいんだよ。わからなくて。それより寒いだろ?とにかく一度、酒場に――いてて」
突然、たんぱく質について会話を交わしていた男性の耳が、何者かにねじ上げられた。
「だ、大丈夫ですか?」
コートニーは、新たな問題の発生に慌てて、途中参加してきた厄介な人物の顔を見上げる。
すると、どこかで見たことのある紫色の瞳と、しっかりと視線が交わった。
「……また余計な騒ぎを起こしているな。今夜は『あれ』が動くと踏んでいたが――」
鋭い視線で、不満げに呟く男性。
「ヒスコック伯爵家の長女、コートニー・ヒスコック。君は、こんな時間にこのような場所で、さらに言えば、一体なぜそのような格好をしているのだろうか。詳しく説明を求める」
目の前の人物が誰なのか。
それを思い出す作業を放棄し、本能的に立ち上がった。
脱兎のごとく、待合室の扉へ向かって走り出す。
「おい、待て!マイロ、その娘を捕まえておいてくれ」
(マイロって何?)
疑問に思った瞬間、コートニーの目の前に、ぬっと大きな壁が立ちはだかった。
「申し訳ございません」
謝罪の言葉が頭上から降り注ぎ、視界が急に宙を舞う。
気づけば、がたい良い赤髪の男性の肩に担ぎ上げられていた。
「近衛兵もびっくりだわ……って、あ!!」
口から飛び出した「近衛兵」という言葉に刺激され、先ほどコートニーの名をすらすらと口にした謎の男の正体に思い至る。
「プラチナブロンドの髪に、紫色の瞳。それに、性格に難ありっぽい、嘘くさい微笑み……なんで、こんなところにステア殿下が!」
「うるさい、だまれ」
ステアらしき男性に、きつく睨まれた。
「私に向かって『嘘くさい』とは、無礼な令嬢だ」
低く、どこか楽しげですらある声が、宙を舞うコートニーの鼓膜を震わせた。ちなみに、眉の間に皺を寄せた彼が握る紐の先は、先ほどたんぱく質について語り合った人物の腰へと繋がっている。
この状況から察するに――。
「私も、逮捕されちゃうってことですか?」
「連行しろ」
「えーーーっ!!」
コートニーはじたばたと足を動かしたが、マイロの筋肉は鉄塊のようにびくともしない。
「うるさい。これだから女は嫌なんだ」
(なんてこと……!)
ステアは、コートニーに対して、いや、全人類の女性に対して、暴言を吐いた。
全ての民にとって模範的であるべき王子が、決して口にしてはいけない言葉を、はっきりと耳にしてしまった。
(これは、大スクープだわ)
浮足立つが、今はそれどころではない。
「殿下、始発の時間までには戻れますよね?」
コートニーは、素朴で、しかし、極めて重大な問いを投げかけた。
「君は、馬鹿か?」
あろうことか、ステアは、またもや大スクープ級の暴言を吐き出したのであった。




