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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第十章:合理的王子は、彼女を手放す覚悟ができない
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089 合理的に考えた結果、求婚されました

 ステアと二人きりの個室では、食後の静寂が訪れていた。

 そのタイミングで、コートニーは罪悪感に突き動かされるように核心へ切り込んだ。


「で、今日ご馳走してくださるのは、どんな訳があってのことですか?」


「ん? 何か用事がないと、君を誘ってはいけないのか?」


「そうじゃありません。ただ、不思議に思って」


 コートニーはナプキンの端を少しだけ弄り、意を決し、顔を上げる。


「正直なところ、今日のこのお誘いは、エロイーズ王妃殿下に頼まれたからですよね?」


 円卓の貴婦人たちは、コートニーの様子がおかしいことに気づき、明らかに気を揉んでいた。特にエロイーズは「ステアめ!」といった感じで、息子の不甲斐なさに腹を立てている様子だった。


(それは、私と殿下が婚約者だから)


 二人は、期間限定で販売されるクリスマスコスメのような、特別で、しかし季節が変われば別のものに取って代わることが決まっている婚約関係を結んでいる。


(エロイーズ殿下も、周囲の皆様も、私たちの関係が本物だと信じ込んでいるからこそ、心配してくださっているのよね)


 いずれ終わりが来る関係であることを隠しているコートニーは、まるで偽のブランド品を最高級の本物だと偽って売っているような、そんな罪悪感に襲われている。


「殿下、私たちって、切り裂き魔が逮捕されたら本当に、その……できるんですかね?」


 個室とはいえ、壁に耳あり。

 コートニーは核心を濁して尋ねた。


「何をだ?」


「婚約破棄、ですよ」


 察しの悪いステアに、コートニーは身を乗り出し、ささやくように告げた。


「ふむ。その件なのだが……」


 ちょうどデザートを運んできた店員が部屋を立ち去るまで、ステアは深い思案に耽るふりをして沈黙を守った。


 扉が閉まり、完全に二人きりになると、彼が静かに口を開く。


「君はまだ、フィデリア国に行きたいのか?」


「はい」


 コートニーは即答した。


「しかし、そうなると君が執筆したアレ……小説を楽しんでいた読者を裏切ることにならないか?」


 ステアのちらりと意味ありげな視線に、言葉を詰まらせる。


「そ、それは……」


「いいか、よく考えてみろ。現在、君が当初掲げていた家出は、成功したと言える状況だ」


「確かに、そうですけど」


「だったら、わざわざフィデリア国を目指す意味は?」


 目的を問われたコートニーは、濁りのない真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。


「人生を長期的に考えた場合、新たな地に行く必要があるからです」


 コートニーの若草色の瞳が、意志の強さを宿す。


「どういう意味だ?」


「つまり、この国にいる限り、条件の良い結婚相手を望めない、ということです」


 コートニーは秘めたる思いを、ここぞとばかりに吐き出した。


 初めて参加した舞踏会での失敗から始まり、現在に至るまで。人生を濃縮したような日々は、あまりに色々ありすぎた。


 それに、どんな事情があれど、一度でも婚約破棄をすれば、クラスコー王国では傷物扱いされてしまうというのが、社交界の常識だ。


(私の美貌や資産というスペックをもってしても、まともな良縁は望めない。それがこの国の古い倫理観が導き出す、冷徹な理屈らしいし)


 だからこそ、新天地フィデリア国で迎える再出発は、彼女にとって生存戦略としても有効だった。

 しかし、その先にある「未来」を思い描いたとき、コートニーの冷静な分析に、年相応の感情が混じり始める。


「私はまだ、これからの人生の方が長いと信じています。だから何というか……」


 そこまで口にして、コートニーは急に喉が熱くなるのを感じた。


「今まで、その、家柄や義務ばかり押し付けられて、苦手意識があった恋愛……とか、結婚だって、やっぱりいつかはしたいというか……」


 声は次第に小さくなり、最後には消え入るような尻窄みになってしまった。


(ああ、もう! 殿下相手に、何を口走っているの!?)


 コートニーの顔はみるみるうちに、熟した林檎のように真っ赤に染まっていく。


(恥ずかしいわ。穴があったら入りたい。いえ、穴があったら地質調査のふりをして隠れる方が、ずっと有意義に過ごせそうだわ)


 扇で顔を隠すことすら忘れ、耳たぶまで熱くした彼女は、視線を泳がせて、手元のプリンが乗った皿をじっと見つめた。


 しばし気まずい沈黙が流れる中、紅茶カップを見つめたまま、ステアがぼそりと告げた。


「……僕がいるだろう」


「は?」


「君さえ良ければ、僕は君と結婚してもいいと思っている。そういうことだ」


 スプーンでゆっくりと紅茶をかき混ぜるステア。


(私の耳の機能不全かしら。それとも殿下の言語中枢にエラーが発生しているの?)


 コートニーの記憶が正しければ、彼はいま、砂糖すら入れていない紅茶カップをかき混ぜているという状況だ。


「……殿下、熱でもあるのですか?」


 咄嗟に侍女として気遣う言葉をかけながら、コートニーは目の前のステアをじっくりと観察する。


 そういえば、最近のステアは以前にも増して挙動不審だし、顔色が赤くなったり青くなったりと、まるでリトマス試験紙のように忙しい。


(それに、あの目の下の隈)


 あれは明らかに良質な睡眠が取れていない証拠だ。さらに、いつもは高純度のプラチナのようにきらきらと輝くシルバーブロンドの髪色も、今日はなんだかくすんで見える。


 ステアに異常を確認したコートニーは、再び侍女として進言する。


「殿下、睡眠をきちんと取られていますか?」


「熱もないし、睡眠時間は意識して取るようにしている。ただ、ベッドに入っても色々と考えてしまい、眠れなくなるだけだ」


 ステアは少し疲れた様子で、重たいため息をついた。


(ああ、やっぱり。それはきっと、PTSDの症状ね……)


 コートニーは、ステアが突飛な提案を口にした理由に、密かに納得する。


 彼女自身も、あの凄惨な殺害現場を目撃して以降、夜一人になるのが怖くて何度も鍵を確かめ、鏡すら直視できない日々を送っている。


 さらに目の前の彼には、切り裂き魔の捜査を任された一国の王子としての重圧がのしかかっているという状況だ。


 ステアは現在、吹けば飛ぶようなボロボロの精神状態なのだろう。


(だから、私と結婚するだなんて、突飛な解決策を思いついちゃったのね。それは、殿下の判断力が低下している何よりの証拠だわ)


 コートニーは、ステアに向かって心からの労りを込めた視線を送った。


「大丈夫ですか? 無理はなさらないでくださいね」


「ありがとう」


 ステアは短く答え、どこか遠くを見るような目で、紅茶カップの端を指先で弄んだ。その仕草があまりに儚げに見えたため、コートニーの「過労死・精神衰弱アラート」が脳内で激しく鳴り響く。


(ああ、見ていられないわ。優秀な第一王子が、未解決事件の重圧でついに『結婚という名の現実逃避』を選ぼうとするなんて……。これは相当深刻なセロトニン不足だわ。あるいは、慢性的睡眠不足による前頭葉の機能低下ね)


「殿下、いいですか。今夜は帰ったら、すぐにカモミールティーを飲んで、最低でも六時間は泥のように眠ってください。明日お持ちする差し入れには、滋養強壮に効くハーブも配合しておきますから」


「……コートニー嬢、私は別に病んでいるわけではないのだが」


「自覚がないのが一番恐ろしいのです。いいですか、脳は疲労すると正常な判断ができなくなります。私との婚約継続なんて、正気の沙汰ではありませんわ」


 断言する彼女に対し、ステアは呆れたような、それでいて悲しそうな、複雑な苦笑を漏らした。


「君なりの優しさで、僕を心配してくれていると取っていいのだろうか?」


「そうですね。私は殿下が心配ですわ」


(切り裂き魔を捕まえられなくなっちゃうし、私だって職を失うわけにはいきませんから)


 本音を隠し、コートニーは自信満々に胸を張った。そんな彼女を眩しそうに細めた目で見たあと、ステアは意を決したように背筋を伸ばし、声を一段低くした。


「僕と君を取り巻く状況を合理的に考えた場合、今のままでいる方がいいと思わないか?」


 そこで一呼吸置き、ステアは淀みなく言葉を続ける。


「僕と結婚すれば、君は最大の悩みである『結婚相手の問題』がクリアできる。アレの読者も悲しまない。僕はといえば、わざわざ悪評を立てて婚約破棄する手間が省けるし、夜会で気のない令嬢の相手をしなくて済む。そもそも切り裂き魔が捕まっても、事件は日々起きるし、仕事は山積みだ」


 息継ぎもせず、まるで議会で法案を通すような勢いで、婚約を続けるメリットをステアは羅列した。


「以上のことから、君は僕と結婚するべきだと思う」


 消去法。

 効率化された事務手続きの延長にある結婚。


 あまりに淡々とした「メリット提示」に、コートニーは圧倒されつつ尋ねる。


「な……なんでまた、そんな結論になるんですか?」


「いや、だから、たった今、僕は懇切丁寧に説明したじゃないか」


「確かに合理的かもしれませんけれど、根本的に何か間違っている気がするんですけど」


「まぁ、政略結婚だと思えばいいさ」


 コートニーは、ステアをまじまじと見つめた。


(……この人、やっぱり末期だわ。あまりの多忙に、人生の重大な決断を『在庫整理』と同じ棚に放り込むつもりなんだわ)


「殿下……。今、ご自分ですごく恐ろしいことを仰った自覚はありますか?」


「恐ろしい? 私は極めて現実的で、双方に利益のあるプランを提示したつもりだが」


 ステアは澄ました顔で紅茶を口に含んだ。


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