088 捜査中ですが、今はディナー中です
「サラ夫人から提出されたあの指輪、警察の鑑定によると、ダイヤモンドを縁取った細工の微細な隙間に、拭いきれなかった血痕が残っていたとか……」
コートニーは、艶のある白磁の皿に盛られた、スズキのタプナード焼きを見つめながら、声を潜めて告げた。その仕草は、今年デビューしたばかりの慎ましやかな深窓の令嬢そのものである。
(顕微鏡があればもっと詳しく調べられるのに。あの台座の彫り込みなら、繊維の一本だって逃さず絡め取っているはずだわ。犯人の不手際を、この目で確認したいのに……)
スズキにナイフを滑らせながら、彼女は内心で溜息をついた。
仕事を終えたコートニーは、現在、ステアに誘われるまま、彼が薦める店で食事を楽しんでいる最中だ。
表面を飾るハーブと微細な塩の結晶が、銀色の皮の上で繊細に踊っている。鮮やかなキャロットのピューレが添えられたその一皿は、まるで一枚の絵画のようだ。
「ほかに、新たにわかったことはあるんですか?」
「特にない」
ステアは短く応じ、手元のワイングラスに視線を落とす。その落ち着いた声音とは裏腹に、わずかに眉間に皺が寄せられた。
「やっぱりハウエル卿に事情聴取をすぐにすべきです。指輪が夫人の手元にあった経緯も、あの血痕の由来も、彼なら説明できるはずですから」
コートニーは熱を込めて身を乗り出したが、ステアは溜息を吐いて彼女を制した。
「……コートニー嬢、食事時くらい、その話はやめないか?」
彼はもう聞きたくないとばかりに、重々しくフォークを皿に置いた。その瞳には疲労の色が濃く滲んでいる。
「あ、すみません……つい」
彼女は慌てて背筋を伸ばし、しおらしく目を伏せておく。
(しまった、また調子に乗ってしまったわ)
確かに、黄昏時を思わせる照明のきいた優雅なレストランで、血痕や尋問の話をするのは無作法極まりない。
「このお魚料理は本当に、素晴らしいですね」
取り繕うように、コートニーはスズキの美しい白身をフォークで小さく切り分けながら告げた。
「脂が乗っていて、それでいてレモンの風味が爽やかで……。このお店を教えてくださって感謝します」
正直なところ、ジェーンのあの惨状を目撃して以来、コートニーは、大好きだったはずのステーキを見るとどうしても事件現場が重なってしまう病に悩まされていた。
(今日のお店が魚料理の名店で、本当に救われた気分だわ)
レモンの酸味と、絶妙な塩加減が彼女の舌を癒していく。
白いクロスで整えられたテーブルの向かい側では、ステアも同じように魚料理に舌鼓を打っていた。彼の端正な横顔は、見ているだけで視線が安らぐ。だが、その奥には、確かに疲労の陰が差していた。
(もしかして、殿下も肉を避けているのかしら? でも、事件の話をするなと釘を刺されたばかりだし、この推測を口にするのは流石に野暮よね。我慢、我慢……)
事件の話を封じられたコートニーは、自分に言い聞かせるように小さく息を吐いた。しかし、一度火がついた好奇心と正義感は、そう簡単に鎮火できるものではない。
コートニーは再びフォークを置き、今度は真剣な眼差しをステアに向けた。
「……やっぱり、早く犯人を捕まえたいですよね?」
(私の充実した食生活と安眠のためにも)
切実な悲鳴は、喉の奥に飲み込み、もっともらしい本音を漏らす。
「特権身分を持つ貴族は、司法においても特別な手続きが必要となりますわ。ましてやハウエル卿ともなれば……」
「『早急に』と言ったところか。まぁ、ここのところ捜査官の士気は高いし、私も動くつもりだ」
ステアはコートニーの言葉を遮るように言い、小さく息を吐いた。
「それは頼もしいですね」
静かに微笑みつつ、コートニーの脳裏には、彼女を悩ませる別の問題が浮上した。
(頼もしいのは結構だけど、最近、執務室に集う一部の方々から、なんていうか……『濡れたネズミ』のような香りが漂っているのよ)
あの何とも言えない臭いは、犯人逮捕に向けて湯浴みの間も惜しんで働いているという、たゆまぬ努力の証だ。
ただ、コートニーにとっては、どうしても耐え難い部分があるのも確かだった。
いい機会なので、こっそりステアに伝えたい。
けれど、みんなが必死な時に言い出しにくい。
(ああ、私の鼻がもう少し鈍感だったら良かったのに)
一人ジレンマに陥っていると、ステアが訝しげに目を細めた。
「……今、失礼なことを考えているだろう?」
「いいえ、全く」
鋭すぎる指摘に、コートニーは完璧な淑女の微笑みを浮かべて即答する。
(危ない危ない。まさかこのタイミングで『部下の方々が少々獣臭いですわ』なんて言えないもの。でも、あの匂いの成分を化学的に分析したら、疲労物質の蓄積度合いが可視化できるんじゃないかしら。それはそれで興味深いけれど……)
「また、よからぬことを考えてるだろう?」
「いいえ、全く」
コートニーは笑顔のまま、魚にナイフを入れる。
「それより、スズキという魚についてですが、とある国では、成長するにつれて呼び名が変わる出世魚と呼ばれているそうですよ」
「出世魚か。それは今の私には、少々皮肉に聞こえるな」
ステアは自嘲気味に口角を上げ、白ワインで喉を潤した。
「このままでは、不名誉な隠居生活が待ってるかもな」
「殿下ともあろう方が、弱気なことをおっしゃらないでください」
コートニーは優雅に首を振った。
(出世魚……成長。そうよ、変化が必要なの。今の執務室に必要なのは、鋭い洞察力だけじゃない。清潔感と、何より徹底的な除菌よ!)
「ところで、殿下」
コートニーは、ふと思いついたように、小首をかしげて見せた。
「捜査官の皆様の士気を高めるために、私からささやかな差し入れをしてもよろしいでしょうか?」
「差し入れ? 菓子でも持ってくるつもりか。あいにく、男ばかりの職場だ。甘いものよりは、強い酒の方が喜ばれる気がしなくもないが……」
「いいえ。もっと実用的で、かつ皆様の身も心も……文字通り『清める』ものです」
コートニーの脳内では、すでに「即効性消臭・除菌ミスト(プロトタイプ)」の配合比率が完成していた。
アルコールをベースに、リフレッシュ効果のあるペパーミントと、殺菌作用の強いティーツリー、そして執務室の重苦しい空気を浄化するユーカリを少々。
(あの濡れたネズミ臭の主成分である脂肪酸の酸化を抑え、雑菌の繁殖を食い止める)
「これを「聖水」か何かだと偽って、執務室の四隅に振り撒けば……」
「聖水、だと?」
コートニーは、思わず口に出していたらしい。ステアが不審そうに眉を上げた。
「……それを部屋に振りまくつもりなのか?」
「ええ、まあ、そのようなものです。捜査が行き詰まっている時は、神の御加護……いえ、環境の改善が必要かと存じまして。明日、特製の『清めの香水』をお持ちいたしますわ。部下の方々のジャケットや、お部屋の換気口付近にお使いいただければ、きっと頭も冴え渡るはずです」
コートニーの微笑みは、聖母のように慈愛に満ちていた。 だが、その背後に「不衛生な環境は科学的捜査の敵」という執念が見え隠れしている。
「……勝手にすればいいさ。実害がないのであれば、止めはしないよ」
ステアは諦めたように溜息をつき、最後の一切れとなったスズキを口に運んだ。
「ありがとうございます。では、明日は早めに伺いますね」
コートニーは、目的達成を密かに祝い、満足げに頷いた。




