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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第十章:合理的王子は、彼女を手放す覚悟ができない
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087 私は、それを許せない

 円卓の上で語られる言葉は、いつも正しかった。


(でも、感謝しているからといって、夫が愛人に贈ったかもしれない指輪を、自分に与えられてそれを甘んじて、受け入れるなんて……)


 コートニーは、サラの献身的すぎる――あるいは、歪んでしまった愛情の深さに、言葉を失った。


「サラ様……」


 ケイト夫人が沈痛な面持ちでサラを見つめる。その瞳には、同じ貴族社会に生きる女としての共感と、やりきれない同情が滲んでいた。


「だから、主人がジェーンさんを愛人として囲ったとしても、それを許すつもりでしたの。だって、私が彼の妻としてできることは、それくらいしかありませんもの」


 サラ夫人は力なく微笑み、「それに」と言葉を継いだ。


「私たちの敬愛するエリノア様だって、ソフィア様を許したでしょう? 私も、彼女のように強くなりたい、そう思うのです」


 不意に亡き母の名を呼ばれ、コートニーはびくりと肩を揺らした。


「そうね。でも、普通は愛人の存在に嫉妬するし、許せなくて恨んでしまうものだわ。でも、それを恥じることはないと思うの」


 エロイーズが、包み込むような声音で続ける。


「今の社会では、男性の保護や援助なしに生きていくことはあまりにも困難よ。どんな事情があれど、たとえ夫側に非があっても、配偶者の元を去る女性は『ふしだらで社会不適合者』という烙印を押されてしまう」


 一拍置き、王妃は静かに告げた。


「だから私たちは、エリノアのように強くなるしかない。理不尽に耐える。それしか生きていく道はないの」


 その言葉は、王妃という至高の座にありながら、一人の女性としてこの時代の歪な構造に縛られている窮屈さを、痛いほど物語っていた。


 サラ夫人の瞳から、堰を切ったように感情が溢れ出す。


「結局、夫の要求を拒めない環境に置かれた私たちは、イースト地区の女性たちと、何も変わらないのかもしれませんわ」


 震える声で、続ける。


「生きるために、自分を殺さなければならない。残念だけれど、女性が一人で生き抜くことは、このクラスコーでは……あまりにも難しすぎるのです」


 エマ夫人が深く吐息をつき、サラの震える肩にそっと手を置いた。


「確かに、この歳になって一人で生きていくのは過酷だわ。愛人の存在を飲み込まなければならない時もあるでしょう」


 そして、静かに釘を刺す。


「……ただ、愛人が産んだ子は、愛する夫の子でもある。それだけは、忘れてはいけないわ。母親を憎んだとしても、生まれてくる子に罪はないのだから」


 その言葉が、胸に突き刺さる。


「ええ、わかっていますわ……だから、彼女の存在を受け入れるつもりでしたの。それなのに――」


 サラは声を詰まらせ、膝の上で拳を握りしめた。


「悪魔は、また私から子を抱く機会を奪っていったのですわ」


 涙に濡れた頬を伏せるサラの姿を前に、コートニーの脳裏では、エロイーズの言葉が執拗に反復していた。


(……生まれてくる子に、罪はない)


 理屈では理解できる。知識としては正しい。

 けれど、感情がそれを拒絶する。


 コートニーは、愛人に子を産ませた父ウィリアムも、その後釜に座ったソフィアも、心の底から嫌っている。


(もし、ソフィアが王妃殿下やサラ夫人のような人だったなら……私にも、彼女を受け入れる未来があったのかしら)


 伯爵家に跡取りを残した功労者として、敬意をもって「母」と呼べる可能性さえ――。


 だが、現実は綺麗事では片付かない。


(ソフィアが私に向ける、あの剥き出しの憎悪こそが……人間の本能だわ)


 今は亡き母エリノアも、目の前のサラのように葛藤し、悩み抜いた末に、ソフィアを認めようとしたのだろうか。


 あの誇り高き母が、血の滲む思いで「強さ」を演じていたのだとしたら。


(いったい、どうしたら愛人なんて許せるというの?)


 まだ恋の熱さえ知らないコートニーには、その自己犠牲の論理が、どうしても理解できなかった。


 愛ゆえの忍耐か、それとも生きるための妥協か。

 その答えは、彼女の持つどの辞書にも載っていない。


「とりあえず、この指輪についてはステアに相談してみましょう」


 エロイーズはそう言うと、円卓の中央に置かれた「エリノアの形見」を、清廉な白いハンカチで静かに、しかし確かに包み込んだ。


 それは、単なる証拠品の確保以上に、ひとつの儀式のように見えた。


「確かに、今の社会制度では女性の自立は厳しいわ。でも、変革は始まっている」


 王妃は一度言葉を切り、円卓を囲む淑女たち一人ひとりを見渡した。


「国教会派女子修道会を中心に、女性の人権に対する啓蒙活動が進められている。高度な教育を受け、自立した精神を持ち、地位向上のために闘う女性たちも、確実に増えています」


「そうね。探偵の真似事だと主人からは馬鹿にされますけれど、このお茶会だって、ある意味では社会への抗議活動ですものね」


 ケイト夫人が、微笑みながら深く頷いた。


「だからこそ――」


 エロイーズの瞳に、揺るぎない決意が宿る。


「今回の事件は、必ず解決しなくてはなりません」


 その言葉に、コートニーの背筋が自然と伸びた。


(そうだわ。お母様の形見がサラ夫人の元へ渡り、その裏にハウエル伯爵の影がある。この謎を解き明かすことこそ、私がここにいる理由に違いないもの)


 コートニーは、王妃の手に包まれたハンカチの膨らみを見つめ、自身の持つ知識のすべてを注ぎ込んで、この血塗られた連鎖を断ち切ることを密かに誓う。


 もはや、ただ怯えていた彼女は、いなかった。


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