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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第十章:合理的王子は、彼女を手放す覚悟ができない
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086 感謝しかありませんわ

 コートニーがこれから口にしようとしていることは、底知れぬ深淵に足を踏み出すような、ひどく勇気の要ることだった。


(……怖い。言いたくない。だって、サラ夫人は「いい人」だから)


 その認識を抱いているのは、コートニーだけではない。

 この場にいる誰にとっても、サラは理想的な貴婦人であり、慈愛の象徴だ。


(事実を指摘すれば、サラ夫人を、そして彼女の家族を、切り裂き魔という「悪魔」の影に引きずり込むことになりかねない)


 見なかったことにしたい――そんな逃避の感情が、彼女の知識欲や正義感と激しく火花を散らす。


 だが、脳裏をよぎったのは、無惨に命を奪われたジェーン、そして七人の犠牲者たちの叫びだった。


(私情を挟んではダメ。ここで思考を止めることは、ロジックに対する敗北よ)


 コートニーは震える指を膝の上で固く握りしめ、真っ直ぐにサラを見据えた。


「サラ夫人が今、左手の薬指にはめていらっしゃる指輪。それが……私の母の形見と、寸分違わず同じものなのです」


 その一言が、優雅な茶会を凍てつく捜査の場へと変えた。


「それは……まさか……」


 王妃は驚愕のあまり扇子を口元から外し、慌てた手つきで資料を取り上げると、サラの手元と交互に目を走らせた。


「……本当ね」


「確かに、この特徴的なデザインはそっくりだわ」


「オーバルカットのサファイア……でも、どうしてサラ夫人がそれをお持ちなの?」


 貴婦人たちの囁きが、鋭い刃のようにサラへ向けられる。


 胃の奥が焼けるような緊張に耐えながら、コートニーは問いかけた。


「サラ夫人。その指輪は、一体どうされたのですか?」


 部屋の空気が真空になったかのように重く、静まり返る。


 コートニーは息を詰め、サラの瞳のわずかな揺らぎさえ見逃すまいと注視した。


「この指輪は……」


 サラは視線を逸らすことなく、覚悟を決めたように一度、深く息を吸い込んだ。


「数日前、主人からいただいたものです。結婚記念のお祝いにと」


 その声に、迷いや虚偽の響きはなかった。

 ただ、事実をそのまま口にしているだけの、清廉さがあった。


「……ご主人から、ですか?」


 コートニーは低く、確かめるように繰り返す。


「ええ。主人は毎年、記念日には必ず宝石を贈ってくださるの……ただ、どうやら今年は、とんでもないものを私に贈ってしまったようね」


 サラ夫人は悲しげな影をその美貌に落とし、自分の薬指に宿るサファイアを、愛おしむというよりも、確かめるようにそっと撫でた。


 コートニーは、言葉を失った。


 社交界でも名の知れたサラの夫マーティンは、ジェーンを愛人にしようとしていた人物だ。


 そんな男が、なぜ彼女から奪われた「死者の持ち物」を手にしていたのか。


(旦那様が……犯人? それとも、犯人と繋がる誰かから、これを買い取った?)


 凍りついた静寂の中、円卓を囲む者たちは皆、同じ恐ろしい仮説へと辿り着きつつあった。


 コートニーの頭脳は、サラの夫の動向、職業、切り裂き魔の犯行時刻――膨大な情報を高速で連結し、一つの「最悪の可能性」を形作り始める。


「つまり、この指輪はジェーンさんの物で、それを盗んだ犯人が……サラ夫人のご主人である可能性がある、ということかしら?」


 最初に口を開いたのは、エロイーズだった。


「ハウエル卿が盗んだと決めつけるのは、まだ早いわ。骨董品屋で買い求めた可能性だってあるもの」


 エマが、慎重に別の可能性を差し挟む。


「確かに。この件は、推理ノートに……」


 ケイトが、周囲を気遣うように視線を巡らせた。


「サラにとっては辛いことだろうけれど、指輪と共に思いついた考えを、ステアには知らせておくべきだわ」


 エロイーズの進言に、数人が静かに頷くと、ケイトがノートにサラサラと羽ペンを走らせる。


 そんな中、サラ夫人は騒ぐことなく指輪を外し、円卓の中央へ、そっと置いた。


「……それに、お恥ずかしい話。主人は彼女、ジェーン・ミーハンさんと、関係がありましたの」


「サラ、それは」


「いいのよ。皆様も、すでに噂はご存知でしょうから」


 気遣うように声をかけた貴婦人に、力なく微笑み、震える指先を押さえながらサラは、言葉を継ぐ。


「主人は慈善活動として、月に数回イースト地区で無料診療をしているのです。その際、診療所を訪れた彼女と知り合ったそうですわ」


 小さな悲鳴と、息を呑む音が、円卓を伝った。


「でも……それは仕方のないことなんです。私と主人には、子が授からなかった。このままでは、ハウエル伯爵家の未来はありませんもの」


 円卓の上で場違いなほど美しく輝くサファイアを見つめながら、サラは虚ろな声で続けた。


「それでも、私を捨てずにいてくださる主人には……感謝しかありませんわ」


 ぽつりと告げ、ゆっくり顔を上げる。

 その瞳には、怒りよりも、己の運命を呪うような深い絶望が色濃く宿っていた。


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