086 感謝しかありませんわ
コートニーがこれから口にしようとしていることは、底知れぬ深淵に足を踏み出すような、ひどく勇気の要ることだった。
(……怖い。言いたくない。だって、サラ夫人は「いい人」だから)
その認識を抱いているのは、コートニーだけではない。
この場にいる誰にとっても、サラは理想的な貴婦人であり、慈愛の象徴だ。
(事実を指摘すれば、サラ夫人を、そして彼女の家族を、切り裂き魔という「悪魔」の影に引きずり込むことになりかねない)
見なかったことにしたい――そんな逃避の感情が、彼女の知識欲や正義感と激しく火花を散らす。
だが、脳裏をよぎったのは、無惨に命を奪われたジェーン、そして七人の犠牲者たちの叫びだった。
(私情を挟んではダメ。ここで思考を止めることは、ロジックに対する敗北よ)
コートニーは震える指を膝の上で固く握りしめ、真っ直ぐにサラを見据えた。
「サラ夫人が今、左手の薬指にはめていらっしゃる指輪。それが……私の母の形見と、寸分違わず同じものなのです」
その一言が、優雅な茶会を凍てつく捜査の場へと変えた。
「それは……まさか……」
王妃は驚愕のあまり扇子を口元から外し、慌てた手つきで資料を取り上げると、サラの手元と交互に目を走らせた。
「……本当ね」
「確かに、この特徴的なデザインはそっくりだわ」
「オーバルカットのサファイア……でも、どうしてサラ夫人がそれをお持ちなの?」
貴婦人たちの囁きが、鋭い刃のようにサラへ向けられる。
胃の奥が焼けるような緊張に耐えながら、コートニーは問いかけた。
「サラ夫人。その指輪は、一体どうされたのですか?」
部屋の空気が真空になったかのように重く、静まり返る。
コートニーは息を詰め、サラの瞳のわずかな揺らぎさえ見逃すまいと注視した。
「この指輪は……」
サラは視線を逸らすことなく、覚悟を決めたように一度、深く息を吸い込んだ。
「数日前、主人からいただいたものです。結婚記念のお祝いにと」
その声に、迷いや虚偽の響きはなかった。
ただ、事実をそのまま口にしているだけの、清廉さがあった。
「……ご主人から、ですか?」
コートニーは低く、確かめるように繰り返す。
「ええ。主人は毎年、記念日には必ず宝石を贈ってくださるの……ただ、どうやら今年は、とんでもないものを私に贈ってしまったようね」
サラ夫人は悲しげな影をその美貌に落とし、自分の薬指に宿るサファイアを、愛おしむというよりも、確かめるようにそっと撫でた。
コートニーは、言葉を失った。
社交界でも名の知れたサラの夫マーティンは、ジェーンを愛人にしようとしていた人物だ。
そんな男が、なぜ彼女から奪われた「死者の持ち物」を手にしていたのか。
(旦那様が……犯人? それとも、犯人と繋がる誰かから、これを買い取った?)
凍りついた静寂の中、円卓を囲む者たちは皆、同じ恐ろしい仮説へと辿り着きつつあった。
コートニーの頭脳は、サラの夫の動向、職業、切り裂き魔の犯行時刻――膨大な情報を高速で連結し、一つの「最悪の可能性」を形作り始める。
「つまり、この指輪はジェーンさんの物で、それを盗んだ犯人が……サラ夫人のご主人である可能性がある、ということかしら?」
最初に口を開いたのは、エロイーズだった。
「ハウエル卿が盗んだと決めつけるのは、まだ早いわ。骨董品屋で買い求めた可能性だってあるもの」
エマが、慎重に別の可能性を差し挟む。
「確かに。この件は、推理ノートに……」
ケイトが、周囲を気遣うように視線を巡らせた。
「サラにとっては辛いことだろうけれど、指輪と共に思いついた考えを、ステアには知らせておくべきだわ」
エロイーズの進言に、数人が静かに頷くと、ケイトがノートにサラサラと羽ペンを走らせる。
そんな中、サラ夫人は騒ぐことなく指輪を外し、円卓の中央へ、そっと置いた。
「……それに、お恥ずかしい話。主人は彼女、ジェーン・ミーハンさんと、関係がありましたの」
「サラ、それは」
「いいのよ。皆様も、すでに噂はご存知でしょうから」
気遣うように声をかけた貴婦人に、力なく微笑み、震える指先を押さえながらサラは、言葉を継ぐ。
「主人は慈善活動として、月に数回イースト地区で無料診療をしているのです。その際、診療所を訪れた彼女と知り合ったそうですわ」
小さな悲鳴と、息を呑む音が、円卓を伝った。
「でも……それは仕方のないことなんです。私と主人には、子が授からなかった。このままでは、ハウエル伯爵家の未来はありませんもの」
円卓の上で場違いなほど美しく輝くサファイアを見つめながら、サラは虚ろな声で続けた。
「それでも、私を捨てずにいてくださる主人には……感謝しかありませんわ」
ぽつりと告げ、ゆっくり顔を上げる。
その瞳には、怒りよりも、己の運命を呪うような深い絶望が色濃く宿っていた。




