084 優しい手が、指輪の罪を隠していた
切り裂き魔の惨劇を目の当たりにして以来、コートニーは深刻な不眠に悩まされていた。
ひとたび一人になれば、網膜に焼き付いたジェーンの最期の姿が蘇り、冷たい恐怖が這い上がってくる。それに加え、最近では鏡を見ることさえ避けるようになっていた。
鏡を覗き込めば、そこに血まみれの自分が映っているような気がしてしまうからだ。
このままではいけないと、彼女は自身を律する。
本来、時間はあらゆる傷の特効薬であり、精神を正常な状態へと戻してくれるはずだ。だからこそ、今は無理をしてでも普段通りの生活を維持しなければならない。
「……とは言うものの、なかなか厳しいものがあるわよね」
一人、部屋の静寂の中でぼやきが漏れる。あの日から一週間。そろそろ現状に適応しても良い頃だと頭では理解しているつもりでも、身体が拒絶反応を示していた。
「ああもう! 早く切り裂き魔が捕まればいいのに!」
コートニーはたまらずベッドにダイブし、枕をボスボスと叩く。
自分がこうして安全なベッドで眠りに就こうとする間にも、どこかで誰かが「悪魔」の餌食になっているかもしれない。
その想像は、犯人への怒りと、次は自分ではないかという理不尽な恐怖を、容赦なく掻き立てた。
「でも、ここは安心安全の王城内にある職員用の独身寮で、鍵のかかった私の部屋」
自分だけが守られた場所にいることに、かすかな後ろめたさを感じつつ、コートニーはむくりと起き上がる。
窓のサッシュファスナーが固く締まっていることを指先で確かめ、さらにドアの鍵を確認する。
「よし」
王城の堅牢な守りを確認してから、再びベッドに身体を横たえた。
「大丈夫、ここは安全……」
枕を抱え込み、仰向けになって天井を見つめる。しかし、吐き出した溜息は夜の闇に虚しく消えた。
「でも、やっぱり怖いものは怖いわ……」
思考の隅に、ある一人の人物が浮かび上がる。
(こんな時、ステア殿下が隣にいてくださったら……)
あの日、ステアが何度も「もう少しこのままで」と口にし、自分から離れたくないと思った理由が、今なら痛いほど理解できた。
背中に回された腕の重さまで、ありありと思い出せるほどに。
同時に、これほどまでに誰かの温もりを切望してしまう自分に戸惑い、少しだけ後悔する。
(……知らなければ、これほど苦しむこともなかったのに)
母を亡くしてからのコートニーにとって、頼れる人間など存在しなかった。
怒りも、悲しみも、孤独さえも、すべては日記という名の記録媒体に書き留めることで、自らの力で処理するしかなかったからだ。
誰かに抱きしめられること。そして、自分もまた誰かを抱きしめること。
それによって得られる、魂が凪いでいくような安らぎを、彼女はあの日まで知らずにいた。
(ああ……『人恋しい』なんていう、制御不能な感情は、知りたくなかったわ)
どれほど日記に恐怖を書き連ね、自身の脳内にある不安要素を言語化して整理しようとしても、あの日、ステアの腕の中で感じた絶対的な安らぎを上書きすることはできない。
この渇いたような不安は、おそらく切り裂き魔が捕縛されることでしか解消されない。
コートニーは祈るような心地で、一日も早い事件の終焉を心の底から願うのだった。
◇✧◇✧◇✧◇
コートニーは今、王城の一画で円卓を囲んでいた。 表向きは優雅な『円卓の貴婦人』のお茶会だが、その実態は、上流階級の情報網を駆使した、女たちの捜査会議である。
新たな犠牲者が出た直後ということもあり、集まった貴婦人たちは一様に沈痛な面持ちで、重苦しい空気が室内に漂っていた。
「コートニー、あなたは大丈夫なの?」
王妃エロイーズが、案じるように声をかけた。 どうやら、切り裂き魔の惨劇の現場にコートニーが居合わせたという報告は、すでに彼女の耳にも届いているらしい。
「お気遣いありがとうございます。もう一週間経ちますし、大丈夫ですわ」
コートニーは平穏を装い、努めて明るい笑みを浮かべてみせた。だが、その付け焼き刃の仮面は、百戦錬磨の淑女たちの前では無力だった。
「嘘をついてもダメよ。あなたの顔は正直なんですもの」
エマの鋭い指摘に、円卓の視線が一斉にコートニーへと集まる。
「確かに、目の下の隈が酷いわ」
「顔色も優れないし、やつれて見えるわね」
「あの若草色の瞳が濁っているのは、見ていて辛いわ」
「髪のセットも乱れています。愛らしい顔が台無しですわよ」
貴婦人たちは、容赦なく彼女の容姿の崩れを指摘した。 鏡を見ることさえ恐怖を感じていたコートニーは、自分が今どのような姿をしているのか、しばらく確認できていなかったのだ。
そんなに酷いのだろうかと、思わず頬に手を触れてみるが、目の下の隈の深さなど感触でわかるはずもない。
「ステアは一体何をしているのかしら。こういう時こそ支え合うのが夫婦というものなのに」
エロイーズが、息子であるステアを非難するような口調で呟いた。
(……これはまずい状況だわ)
コートニーは、ごくりと唾を飲み込む。
エロイーズの瞳には、愛する息子への期待が裏切られた時の、母親特有の鋭い怒りが宿っている。このままでは、ステアが「婚約者の危機に気づかぬ無頓着な男」という不名誉なレッテルを貼られてしまう。
「で、殿下は、その、色々と気遣ってくださっております!」
コートニーは慌ててステアを庇う言葉を紡ぐが、声が、思ったよりも上ずってしまった。
「具体的には?」
エロイーズのすかさずの問いに、コートニーは「それは、その……」と言葉を詰まらせた。
抱きしめられたなど、この淑女たちの前で口にできるはずもない。
「お二人は婚約して日が浅いですものね」
「ええ、まだ遠慮があるのかもしれませんわ」
貴婦人たちが、息子に憤慨するエロイーズを宥めるようにコートニーたちの肩を持つ。だが、エロイーズの不機嫌は収まらない。
「でも、いずれ家族になるのですから、遠慮している場合ではないわ。あの子と毎日顔を合わせているのでしょう?」
詰問するように尋ねられ、コートニーは必死にステアを弁護した。
「ステア殿下は犯人逮捕に尽力されておりますし、何より男性ばかりの職場ですので。誰も私の見た目の変化など気に留めません」
現に、職場である執務室で誰かに外見を指摘された記憶はない。
(むしろ、犯人逮捕に執念を燃やすステア殿下の精鋭の方々の方が、私以上にやつれている状況だし……)
コートニーは自分の不手際がステアの評価を下げることを恐れ、懸命に微笑み続ける。
「それはそれ。これはこれよ」
エロイーズは、容赦がない。
「今日はもう、あなたは下がっていなさい。そんな青い顔で無理をされては困るわ」
「ですが……」
(まだ、円卓の貴婦人の捜査会議すら始まっていないのに)
ジェーンの件が議題にあがる今日は、参加しておきたかった。しかし、貴族女性のトップに君臨する王妃エロイーズの言葉は、この場における絶対的な「法」に等しい。彼女の慈愛に満ちた、けれど有無を言わせぬ眼差しに射すくめられ、コートニーは反論の言葉を飲み込んだ。
「ステアも、あなたのその酷い顔を見たら心配で仕事が手につかなくなるでしょうから。早く休みなさい」
王妃の言葉は慈愛に満ちてはいたが、同時に決定的な「宣告」でもあった。
(……これ以上、王妃殿下に反論を重ねるなど、私には不可能だわ)
コートニーは大人しく従うことを決意し、椅子を引いて立ち上がった。
その時、円卓の空気がわずかに動く。
「エロイーズ、気持ちはわかるけれど、締め出すのは可哀想だわ」
エマが、さりげなく助け舟を出してくれた。
「犯人逮捕のために、ステア殿下の元で捜査に協力してくれているのでしょう?」
「それはとても有難いことですものね」
「今まで、女性には見せられないの一点張りだったステア殿下が、こうしてすんなり捜査資料を見せてくれるようになったのも、彼女の功績ですわ」
次々と重なる貴婦人たちの援護射撃に、コートニーの胸の奥が熱くなる。
自分は一人ではない。その事実が、彼女の消えかかっていた勇気を呼び戻した。
「皆様のお言葉、大変有難く存じます。……確かに、事件現場を目撃した衝撃は残っております。けれど、犯人逮捕に直接貢献できずとも、捜査会議に出席し、皆様の知見に触れるだけでも、何かのお役に立てるかと……。何より、今は何かをしていないと、かえって気が滅入ってしまいます。どうか、このまま参加をお許しいただけませんか?」
コートニーは、瞳に切実な光を宿して貴婦人たちに訴えた。それは一人の「当事者」としての心からの願いだったからだ。
「本人が大丈夫と言うのであれば、拒む必要はないわよね、エロイーズ」
エマの再度の促しに、王妃もとうとう溜息とともに表情を和らげた。
「ええ、そうね。私も息子の不甲斐なさに、ついカッとなってしまったようだわ。コートニー、許してちょうだい」
「ありがとうございます」
コートニーは深く一礼し、再び着席した。
背筋を伸ばし、ここで語られる有意義な発言をすべて拾い上げ、ステアに伝えようと決意を固める。
(殿下が一人で背負い込まなくて済むように)
コートニーは、キュッと唇を結ぶ。
「丸く収まってよかったわね」
隣に座るサラが、優しく微笑みかけてきた。
「ただ、犯行現場を目撃してしまったあなたが、今後『PTSD』を発症する可能性は充分に考えられるわ。一度かかりつけの医師に相談することだけは忘れないでね?」
聞き慣れない言葉の羅列に、コートニーは首を傾げた。
「……ピー、ティー、エス、ディー? それは一体何ですか?」
「心的外傷後ストレス障害のことよ」
疑問に即答したのは、斜め向かいに座り、羽ペンを走らせていた書記役のケイト夫人だった。
最新の医学用語さえもが当然のように飛び交うこの円卓の深淵さに、コートニーは改めて気を引き締める。
「もしもコートニー様がそうなってしまったら大変だもの。サラ夫人の言う通り、あらかじめ医師に相談しておくのは良いかもしれませんわ」
深刻な表情で呟くケイト夫人に、他の貴婦人たちも一様に頷いた。
どうやら『PTSD』というものは、この博識な女性たちが顔を曇らせるほどに、恐ろしいもののようだ。
コートニーは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ケイト夫人の言う通り、PTSDとは、『心的外傷後ストレス障害』の略称よ。過去に経験した強烈な衝撃――トラウマが引き金となって、その出来事や関連する要素に対する恐怖、不安が持続的に心を蝕む状態のことなの」
サラの解説を聞きながら、コートニーは思い当たる節ばかりな自分に顔をしかめ、深い溜息を漏らした。
鏡を見ることへの忌避感や、夜の静寂への異常な怯え。それらはすべて、論理的な思考を追い越して身体が勝手に反応してしまっている何よりの証拠だった。
「この症状は、戦争や災害、そして暴力事件などの極端なストレス体験によって、引き起こされると言われています。放置すれば、日常生活に多大な苦痛をもたらす可能性があるのですけれど……」
サラがコートニーに、静かに、そして慈しむような表情を向けた。
(自分の感情を制御できなくなる……。もし本当にそうなってしまったら、私は私でいられなくなるってこと?)
制御不能な領域への恐怖に、コートニーの指先がわずかに震える。
サラはそんな彼女の不安を察したのか、慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、手袋を外した柔らかな手で、そっとコートニーの手を包み込んだ。
「大切なのは、適切な支援と治療を受け、回復への道を見つけることですわ。あなたを支えてくれる人は、ここにも、そしてステア殿下の側にもいますからね」
その温もりに、コートニーの強張っていた心が少しずつ解けていく。
やはり人肌の温かさは、どんな言葉よりも直接的に精神を安定させてくれる。そう痛感しながら、彼女は心からの感謝を笑顔に込めた。
「ありがとうございます、サラ夫人」
安堵とともに、重なった自分の手へと何気なく視線を落とした瞬間だった。
コートニーの思考が、氷を突きつけられたように凍りつく。
(……え?)
サラの白い薬指に光るのは、オーバルカットのサファイア。
それを繊細なダイヤモンドが縁取る、特徴的な意匠の金の指輪。
見間違いであるはずがなかった。あの夜、紳士クラブ『ホワイト』へ向かうジェーンの右手の薬指で、確かに鈍い光を放っていた母の形見だ。
(どうして……。どうして、サラ夫人がそれを持っているの?)
現場から消え、切り裂き魔が持ち去ったはずの戦利品。
それが今、目の前で優しく自分の手を包んでいる女性の指にある。
コートニーは混乱の濁流に飲み込まれながら、視線を逸らすことすらできず、その指輪を見つめ続けていた。




