082 悪魔狩りの王子は、血に濡れた指輪と彼女の推理に囚われる1
ジェーン・ミーハンという、イースト地区に住む娼婦が切り裂き魔の牙にかかった。
今回の「切り裂きジャック」を名乗る狂人は、過去の犯行とは異なり、密室という逃げ場のない聖域でその凶行に及んだ。その結果、現場はかつてないほど凄惨を極めていた。
おそらく、いかなる文豪の筆を尽くしても、あの地獄を的確に描写する言葉は見つからないだろう。
ステアは執務机の前で、重い溜息とともに額を押さえた。
強靭な精神を自負する彼でさえ、現場の光景を思い出すだけで胃の底が反転するような感覚に襲われる。
(できれば一生お目にかかりたくはないし、あのような惨劇から逃れられるのであれば、王族の特権も富も、惜しみなく差し出せるくらいだ)
それほどまでに残忍で、人の尊厳を泥靴で踏みにじるような現場を、あろうことかコートニーに目撃させてしまった。
(あの時、咄嗟に駆け出した彼女をなぜ引き留められなかったのか……)
ステアの胸を焼くのは、己の失策に対する痛烈な罪悪感だ。
コートニーや円卓の貴婦人から犯人についてのプロファイルを聞かされてはいるものの、特権階級にいる者に対する捜査は、動かぬ証拠でもない限り法的に難しい。
(くそっ)
ステアは握りしめた拳を執務机に叩きつけたい衝動を、かろうじて抑え込んだ。
父より治安局の長を任され、捜査員を指揮し、動かしながらも、闇に潜む悪魔の尻尾一つ掴めていない。
その焦燥が、彼を内側から焼き尽くそうとしていた。
感情を爆発させたコートニーを支え、衝動的に抱きしめたのは、抑えがたい自己嫌悪の裏返しだったのかもしれない。
だが、不思議なことがあった。彼女の細い体を腕の中に閉じ込めていると、沸々と湧き上がる犯人への、自分への憤りが、静かに、しかし確実に凪いでいったのだ。
ましてや、彼女がその小さな手を震わせながら、ステアの背中に回した瞬間。
(……あの瞬間、確実に慰められているのは、僕の方だった)
守るべき対象に、逆に見苦しいほどの安らぎを求めている自分に気づき、ステアは自嘲気味に口端を歪めた。
女性を守る側に立つ紳士として、あまりにも情けない醜態だ。
(いったい、僕はどうしてしまったのか)
答えの出ない問いが脳内を空転する中、ステアは目の前の書類に視線を落とした。
どんなに心が揺らごうとも、彼はこの責務――「悪魔狩り」から逃げることは許されない。
ステアは感情を鉄の仮面の下に押し殺し、冷静な指揮官の顔に戻り、手元の捜査資料に視線を落とした。
◇✧◇✧◇✧◇
現在ステアの執務室では、七人目の被害者となった二十歳の娼婦、ジェーン・ミーハンを巡って重苦しい議論が交わされていた。
「つまり、母の形見である指輪がどこにもなかったということですか?」
コートニーの声が、沈痛な色を帯びて執務室の空気を震わせる。
本来、血生臭い捜査会議は彼女のような淑女から遠ざけておくべきものだ。それなのに、いつの間にかこの場にいる精鋭たちが、彼女が意見を述べることを当然のように受け入れている。
その異様な光景に、ステアは微かな驚きを禁じ得なかった。
「ジェーン・ミーハンは鍵付きの宝石箱をベッドの下に隠していたようです。しかし、その中にも、コートニ嬢の母上の形見となる指輪は、見つかりませんでした」
コートニーの表情を伺いつつ、捜査官の一人が報告する。
「……え、宝石箱は、現場に残されたままだったのですか?」
捜査官の一人といった様子で、堂々とコートニーがさらなる詳細を求めてくる。
「はい。中身も手つかずの状態です。ただし、検視官のフィリップ氏によれば、彼女の右手の薬指には不自然な傷があり、手荒く扱われたように青く腫れ上がっていたとのことです」
報告を聞きながら、ステアの眉間の皺が一段と深くなった。
「数日前、彼女は確かに右手の薬指に、母の指輪をはめていましたわ……」
記憶の断片を繋ぎ合わせるように、どこか遠い目をするコートニー。その横顔を見つめながら、ステアは思考の歯車を回す。
(だとすれば、犯人が明確な意思を持って指輪を奪ったということか。金目当てであれば宝石箱ごと持ち去るだろうしな。それをせず、わざわざ指を傷つけてまで指輪一つを抜き取るとは……)
「確か、四番目の被害者アン・タイソンの指からも、真鍮の結婚指輪が盗まれていましたよね?」
レナルドの指摘に、ステアは重く頷いた。
「つまり犯人は、ジェーンの指輪、すなわちコートニー嬢の母上の形見を狙って奪ったことになる。だとすれば、その指輪を所持している者、あるいは質屋へ持ち込んだ者が、切り裂き魔へと至る唯一の道標となるわけだ」
ステアは、ジェーンの薬指を写した凄惨な記録写真に視線を落とし、重い溜息を吐き出す。
「一体、犯人は何のために指輪を盗むんだ?」
「戦利品、もしくは、換金目的」
マイロの問いに、レナルドが淡々と応じる。
「しかし、アン・タイソンの結婚指輪と思われる品は、いまだ質屋には流れていない。それに我々は指輪の紛失を新聞には伏せている。犯人は警察がその事実に気づいていないと高をくくっているはずだ」
捜査官の一人が、現状を整理するように言葉を継いだ。
「わざわざ指を傷つけてまで奪ったものを、その辺に捨てるとは考えにくいな」
「となると、やはりレナルドの言う通り、戦利品としていまだ切り裂き魔の手元に保管されている可能性が高い、と」
議論が白熱する中、マイロが顎に手を当てて考え込む。
「しかし、なぜ売らずに手元に置くのか……。そこに何か意味があるとお思いですか?」
「さあな。私にもさっぱりわからん」
ステアは自嘲気味に肩を竦めて見せたが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
(指輪を奪うという行為は、決して偶然の産物ではない。そこには犯人のみが共有する、歪んだ執着があるはずだ)
その理由さえ突き止めれば、暗闇に潜む悪魔の首筋に手が届くかもしれない。
だが、常人の倫理という天秤で奴の思考を量ることは、鏡の中の自分を捕らえようとするほどに困難なことだと思わざるを得なかった。
「そう言えば、六番目の被害者であるキャサリン・ウッズの遺体からは肝臓が紛失されていましたしね。切り裂き魔に、戦利品を持ち帰る趣味があるとすれば、確かに肝臓よりは指輪の方が臭わない上に、保管も楽で好都合なのかもしれません」
レナルドが思い出したように、淡々と告げる。
「つまり我々を翻弄するためではなく、切り裂き魔は自分自身のエゴのために、何かを奪うというわけか」
ステアは忌々しげに吐き捨てた。
犯行現場を汚染し、遺体を弄ぶ。それだけでも十分に吐き気を催す悪行だが、その「執着」が外部への示威ではなく、犯人の内側に閉じた自己満足であるという事実は、捜査をより困難な迷宮へと誘っていた。
「まさしく、狂気の沙汰ですね」
レナルドが軽く溜息を吐き、重苦しい空気をなぞる。
「まあ、指輪の件については、コートニー嬢から詳しく特徴を聞き出し、絵に起こして警察の各分署に配らせる必要があるだろう」
ステアがまとめ、捜査会議を切り上げようとした、その時だった。
「やっぱり、犯人はイースト地区に住んでいない人なんじゃないでしょうか?」
コートニーがぽつりと呟いた。
その声音は、震えていなかった。それが逆に、ステアの胸をざわつかせる。
「なぜ、そう思うんだ?」
ステアは、問い返す。
(……しまった)
口にしてすぐ、ステアは内心で毒づく。ジェーンの惨劇を目の当たりにし、心に深い傷を負ったはずの彼女を、これ以上この血生臭い事件に深入りさせたくない。
そう考えているはずなのに、たった今、彼女の探究心に火をつけたのは他ならぬ自分自身。
(うまくいかないものだな……)
ステアは内心で嘆息した。彼女を守りたいという保護欲と、彼女の鋭い洞察力を頼りにしてしまう指揮官としての欲求が、胸の中で不格好に衝突している。
そんな彼の葛藤を知るよしもなく、コートニーは真剣な眼差しで言葉を継いだ。




