081 抱きしめる理由
ぼんやりと意識が浮上してくると、そこは柔らかなベッドの上だった。
「目が覚めたか」
静かな声に導かれるように視線を横へ向けると、そこにはベッドサイドに腰を下ろしたステアの姿があった。
「ええと……」
コートニーは重い頭を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。
視界が開けるにつれ、そこが大きな窓のある、自分の自室であることを理解した。しかし、自身の格好がいつの間にか白いワンピース型の寝間着に変わっていることに気づき、思考が一瞬停止する。
「君の自室に勝手に入ってしまったことは、申し訳ないと思っている」
ステアの言葉に、コートニーは小さく頷いた。
「君が失神してしまったから、やむなくここまで運んだんだ。着ていた服は今、洗濯に出している。母の侍女に頼んで、君の体を清拭し、着替えも済ませてもらった」
説明しながら、ステアの手が自然な動作で彼女の額に触れる。熱を測るその指先は、記憶の中にある凄惨な現場の冷たさとは対照的に、驚くほど温かかった。
「……まだ少し、熱いな」
ステアの指先がおでこから離れ、コートニーはその温もりの名残を惜しむように、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(……そう。あの時、私は役に立ちたいと、力になりたいと願ったのに)
脳裏にあの瞬間の映像がフラッシュバックする。鏡に映る自分自身の姿に、ジェーンの体から飛散したであろう鮮血が重なった、あの逃れようのない恐怖。
今の自分が綺麗さっぱりとしているのは、侍女の手のおかげだろう。あの服に付着していたであろう「ジェーンの痕跡」を思い出し、コートニーは胃の奥が微かに疼くのを感じた。
「色々と、ありがとうございます。……ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
不甲斐なさと申し訳なさが胸に満ち、声は自然と消え入りそうになる。
「いや、女性であの光景に耐えられる者などいない。謝るべきなのは、君をあんな場所へ連れて行った私の方だ」
ステアは痛ましげな表情で首を振り、静かに頭を下げた。
「いいえ……あれは、私の自業自得です」
(制止を振り切って二階へ駆け上がったのも、人だかりの先を覗き込んだのも私。賢明な判断ができず、殿下の手を煩わせる結果を招いたんだから……)
沈黙が部屋を支配しそうになるのを振り払うように、コートニーはおそるおそる本題を切り出した。
「あそこで亡くなっていた方の身元は、判明したのでしょうか」
「……残念ながら、ジェーン・ミーハンで間違いないようだ」
ステアが発したその名は、まるで逃れられない死刑宣告のように重く響いた。
「そうです、か……」
「あの日、我々が到着する直前、家主が家賃の徴収に彼女の部屋を訪れたらしい。ドアの隙間から漂う強い血の匂いに気づき、スペアキーで解錠したところを……」
「……」
「警察も我々も、手口からして『切り裂き魔』の犯行だと断定している」
「……でしょうね」
コートニーは膝を抱え、ベッドの中で身を縮めた。 あの凄惨な遺体をこの目で確認し、彼女がもうこの世にいないことは「事実」として脳が処理している。
それでも、感情がその結論を拒絶していた。
(だって、つい先日まで彼女はあんなに鮮やかに笑っていたのに。隣で軽口を叩き、紳士に誘われて『いってらっしゃい』と手を振ったわ。あの笑顔が、彼女との永遠の別れになるなんて、そんなこと思ってもみなかったのに……)
失われた命の重みが、静まり返った部屋の中でコートニーの心に重くのしかかる。
「大丈夫か? 顔色が良くない」
ステアはコートニーの顔を覗き込むようにして、低く柔らかな声で問いかけた。その距離の近さと、普段の傲岸さとは対極にある慈しむような空気に、彼女は一瞬鼓動を跳ねさせる。だが、乱れそうになる心拍をなんとか制し、平静を装って質問を返す。
「あの部屋は……どうなったのですか?」
「今は警察が立ち入りを制限して、現場検証を行っている最中だ」
「ジェーンさんは、どうなるのでしょう」
コートニーがそう尋ねると、ステアは彼女から視線を外し、窓の外へと目を向けた。
厚い帳が下りた外の世界は、すでに深い闇に包まれている。
「現場検証の後、検死に回されることになるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、コートニーの脳裏にあの部屋の惨状がフラッシュバックした。彼女は膝を抱える腕にぐっと力を込め、自身の震えを抑え込む。
切り裂き魔。
新聞の紙面で踊るその文字を見るたび、決して許されざる存在だと思ってきた。
知人であるジェーンがああも無残な姿になったことを突きつけられた今、コートニーの中には、怒りよりも先に言葉にできない恐怖が心を侵食する。
彼女の心に深い傷として残るのは、血の匂いや遺体の損壊そのものではない。
同じ人間の形をしながら、他者をあのような「残骸」に変えられる存在が、この街のどこかに息づいているという事実そのものだった。
「……切り裂き魔は、人間ではないのかもしれませんね」
思わず、独り言が唇から零れ落ちる。
「そうだな。悪魔の仕業と言うほかあるまい。問題は、その悪魔が人間の皮を被り、今この瞬間も街を闊歩しているということだ」
ステアの答えには、静かな、しかし苛烈なまでの殺気が籠もっていた。
「だとしたら、やはり一刻も早く捕まえなければなりません」
コートニーの言葉に、ステアは応えなかった。ただ、夜の闇を見つめるその横顔からは、彼がどれほどの重圧と決意を背負っているかが痛いほど伝わってくる。
(切り裂き魔を捕らえたいという願いは、きっとこの人の右に出る者はいないはず。一刻も早く現場に戻り、捜査を指揮したいに違いないのに、私はまた、こうして殿下を繋ぎ止めてしまっているのね……)
不甲斐なさが胸を突く。それでも、独りになればあの鏡に映った血まみれの自分が再び現れるような気がして、コートニーは「行かないでほしい」という我儘な願いを、抱えた膝の間に隠した。
「……それから、君が探していた指輪だが。今のところ室内からは発見されていない」
「え?」
不意を突かれ、コートニーは顔を上げた。
「母親の形見である指輪を買い戻しに行く。そう話していただろう」
(……そうだった。私自身、あの惨劇を前にして頭から抜け落ちていたというのに)
自分が失念していた細かな目的を、ステアが覚えていてくれたこと。
そして混乱の現場で、彼女のためにそれをも捜索させていたこと。
驚きとともに、冷え切った胸の奥に、かすかな温もりが灯るのを感じた。
「……ありがとうございます、殿下」
精一杯の笑顔を作ってお礼を言うと、ステアは少しだけ困ったような苦笑いを浮かべ、再び窓の外へと視線を戻した。
彼に倣うように、コートニーも窓の外を見つめる。
いつの間にか降り出した雨が、無数の粒となってガラスを打っていた。窓を音もなく滑り落ちる雨粒は、志半ばで命を散らしたジェーンの死を悼む、誰かの涙のようにも見えた。
「君は、彼女について何か知っているのか?」
しばらくしてステアが口を開いた。その問いに対し、コートニーは脳内に蓄積されたジェーンとの記憶の断片を手繰り寄せる。
そして、真っ先に浮かんだ事実を伝えるべく、彼女は静かに口を開いた。
「ジェーンさんは、ハウエル伯爵と繋がっていました」
「……ふむ」
「ハウエル伯爵にはお世継ぎとなる息子がいない。だから、ジェーンさんに愛人にならないかと持ち掛けていたようです」
「なるほど。愛人に血筋を求めたか」
淡々とした口調で「愛人」という言葉を口にするステア。その声には嫌悪も同情も混ざっておらず、ただ事実を一つのピースとして受け止めたような響きがあった。
(……殿下は、どう思ってるんだろ)
王族として生まれ、政略の裏側を当然のように見てきた彼にとって、こうした取引はよくある話に過ぎないのかもしれない。
ジェーンが抱えていた葛藤や、身を焦がすような不安を、彼がどこまで現実のものとして捉えているのか。
コートニーには、その真意を推し量ることはできなかった。
「ジェーンさんは、そのことで悩んでいました。私に、愛人として歩む人生は幸せになれると思うか……そう問いかけてきましたから」
コートニーは、あの日のジェーンの寂しげな横顔を思い出しながら言葉を紡いでいく。
「でも、彼女が本当に案じていたのは、おそらく伯爵夫人である、サラ様のことだったのだと思います」
「ハウエル伯爵夫人のことを?」
ステアが意外そうに眉を上げた。
「はい。イースト地区の住人だったら、伯爵のような富と権力を持つ男性からの打診には二つ返事で飛びつくでしょう」
(あそこに住む人々にとっての望みは、高潔な伝統や教育、ノブレス・オブリージュを全うすることじゃなくて、ただ「今日を生き抜くこと」に集約されているのだから)
コートニーは、スラムのぬかるみで泥にまみれた果実に食らいついていた人影を思い出しながら、静かに、確信を持って言葉を続けた。
「でも彼女は、同じ女性である妻の立場から見たら、愛人という存在をどう思うだろうかと、私に尋ねてきたのです」
コートニーはそこで一度大きく深呼吸をし、震える声を整えて続けた。
「ジェーンさんは、確かに不道徳な生き方をしていたかもしれません。けれど、誰よりも人の痛みがわかる、心優しい方でした。それなのに、なぜあんな……」
堪えていた感情が決壊し、熱い涙が頬を伝うのをコートニーは感じた。
「コートニー嬢……」
ステアが困惑と痛ましさを混ぜたような表情で、彼女の名を呼ぶ。
「私は、ジェーンさんの命をあんなふうに奪った者が許せません」
「ああ、それは僕も同じ気持ちだ」
ステアはそう応じると、躊躇いがちに手を伸ばし、彼女の頬を伝う涙をそっと指先で拭った。そのあまりに優しい仕草が、かえってコートニーの涙腺を激しく刺激する。
「……生きることを、勝手に、あんな残酷な形で終わらせるなんて……絶対、許せない」
絞り出すようなコートニーの言葉には、統計学的な死の概念など微塵も含まれていなかった。ただ一人の人間が、その意志を無視され、無残な「物」のように扱われたことへの、根源的な怒りと悲しみが溢れていた。
「私……彼女が、あんな……あんな酷い姿にされなければならなかったなんて、耐えられません……」
感情を爆発させたコートニーをステアは優しく腕の中に引き寄せると、その背をなだめるように何度もさする。
「君の気持ちは痛いほどよくわかる。誰であれ、人の尊厳をあのように踏みにじることは、決して許されるべきではない」
ステアの胸に顔を埋めたまま、コートニーは小さく喘ぐように返事をした。
「君は今、ひどいショック状態にある。今はただ、静かに彼女の冥福を祈ろう」
耳元で囁かれる穏やかな声に、コートニーは彼の胸の中で小さく頷く。しばらくの間、声を上げて泣き続ける彼女を、ステアは一度も腕を緩めることなく抱きしめ続けていた。
(人の温もりは、これほどまでに心を鎮める効果があるのね……)
ステアの心音と体温が、彼女の乱れた精神をゆっくりと再構築していく。激しい感情の嵐が去り、コートニーは自分の心が少しずつ凪いでいくのを感じた。
「ありがとうございます。あの……もう大丈夫ですので」
コートニーは別の熱を持つ前にと、ステアの腕から静かに身を引こうとした。しかし、なぜか彼は抱きしめる力を緩めようとはせず、拒むように腕を回したままでいる。
「あの……殿下?」
戸惑い、彼の胸元から顔を上げると、ステアは彼女と視線を合わせることなく、ただ低く、震えるような声で言った。
「すまないが、もうしばらくこのままでいて欲しい」
(殿下……?)
その声に宿る、普段の彼からは想像もつかない弱々しさに、コートニーはどう応じるべきか分からなかった。ただ、今の彼に必要なのは対話ではないのだと直感し、しばらくの間、そのまま抱きしめられていることを自分自身に許すことにした。
(……今日のジェーンさんの遺体は、あまりに無惨だったもの。酷かったなんて言葉では到底足りないほど、人の尊厳を無に帰するものだったから)
その光景が焼き付いているのは自分だけではないはずだ。
ステアは一国の王子として、捜査員たちの頂点に立つ者として、現場で誰よりも冷静に、冷徹に振る舞い続けていた。
どんなに精緻な歯車を組み上げた時計だとしても、ネジを巻かずに許容量を超える過負荷を掛け続ければ、いつかはその調律を乱し、時が狂うことがある。
(まして、あんな悪魔の所業を目の当たりにして、心が傷つかない人間なんているはずがないわ)
コートニーは、スラムの淀んだ空気と鮮血の惨劇を思い返し、胸の奥で静かにそう確信する。
目の前の高貴なる王子もまた、血の通った一人の人間なのだ。弱さを見せることを許されない立場の彼は、今、張り詰めていた心のゼンマイを緩め、コートニーを唯一の「静止した時間」として、そこに縋っているのかもしれない。
彼女はおそるおそる、ステアの背中に自分の両手を回してみた。すると、それに応えるように、コートニーを抱きしめる彼の腕に、衣服の擦れる音が聞こえるほど強く、痛いほどの力がこもる。
「すまない。だけど、もうしばらくこのままで」
繰り返される言葉。それは、嘆願のように聞こえた。
コートニーは彼を支えるように、背中に添えた手に力を込める。
(私たちは仮初めの婚約者。本来、この距離感は論理的にも倫理的にも正解じゃないけど……けど、今日という日はあまりに多くの傷を負いすぎたもの)
「例外」は時として必要だ。今のこの時間は、互いの精神を摩耗から守るための不可欠な処置なのだと、自分に言い聞かせる。
コートニーはそうやって自身を納得させ、ステアの温もりを受け入れる自分を、静かに肯定するのだった。




