080 ジェーンの部屋で見たもの
※このシーンは少し残酷な描写があります。
現場に緊張が走ったその時、部屋の奥から吹き抜ける風に乗って、鉄錆に似た匂いが鼻腔を突いた。
(え、血の匂い……それも、すごく濃密な……)
その瞬間、コートニーは自身の平穏を保つために開かれた、知識の保管庫と繋がる理性的回路を強制的に遮断した。
何かに突き動かされるように、彼女の体はアパートの奥へと弾かれたように駆け出す。
「あっ、おいっ!」
背後でステアが驚愕したような声を上げたが、彼女の耳には届かない。
(匂いの源泉は二階だわ)
コートニーは男装の身軽さを活かし、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。
「お、お待ちくださいっ!」
「おいっ、止まれ!!」
近衛たちが慌てて追随してくる足音が響くが、彼女の意識はただ一点、廊下の突き当たりへと収束していた。
二階の廊下に出ると、一番奥の部屋の前に異様な人だかりができていた。
野次馬たちは一様に同じ方向を向き、彫像のように固まっている。
「すいません。どいてください」
コートニーはその人混みに割り込み、強引にかき分けてドアの内側を覗き込んだ。
「……っ」
その光景を目にした瞬間、彼女の思考は真っ白に塗りつぶされた。
視界に飛び込んできたのは、窓際のベッドに横たわる、かつて人間であったはずの肉塊だった。
「ヒッ……」
喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れる。 血に濡れたシーツ、赤黒く染まった枕。そしてベッドの上に横たわる肉塊の首は、もはや皮一枚で辛うじて繋がっているに過ぎない。
(嘘でしょう……? あの美しいジェーンさんが……)
男たちを魅了したきらめく瞳も、形の良い鼻も、魅惑的な唇も、もはや原型を留めていなかった。執拗なまでの損壊によって、顔面はいたたまれないほどに傷つけられている。
しかし、その惨状の中で異様な光景がコートニーの目を引いた。
彼女が身に纏っていたはずの衣服はすべて丁寧に剥ぎ取られ、血の海となったベッドの傍らに、まるで新品を陳列するかのように整然と畳んで並べられていたのだ。そのあまりに静謐で、狂気じみた「秩序」が、現場の残酷さをより一層際立たせている。
(見てはいけない。これ以上、は駄目だわ)
脳が警告を発し、胃の底からせり上がる嘔吐感に襲われる。膝は激しく震え、平衡感覚を失った視界が前後に揺れた。
「コートニー嬢!」
背後からステアの声が響くと同時に、コートニーは無意識に彼の体へとしがみついていた。ステアは迷うことなく、彼女の震える体を力強く、そして守るように抱きしめた。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
辛うじて言葉を返したものの、コートニーは彼の腕にしがみついたまま、一歩も動くことができない。
嗅ぎ慣れたステアの香りを吸い込み、落ち着きを取り戻そうとするコートニーだったが、脳内では恐怖を押し除けるように、目の前の異様な光景を強制的に分析し始めていた。
(まるで、美しいジェーンさんをわざと壊すみたいな切り裂き方だわ。しかも、あんなふうに衣服を剥ぎ、一分の乱れもなく整列させるなんて)
これは突発的な激情による犯行ではなく、執拗なまでの執着と、歪んだ憎悪の産物。
それも、ただ対象を殺めるだけでは飽き足らず、その尊厳を徹底的に解体し、自分なりの「秩序」で再構築しようとする、病質的なまでの執念……あるいは、特定の何かを「儀式」として完遂しようとする強い意志。
コートニーは、ステアの胸に顔を埋めたまま、震える呼吸を整える。彼の心音は、この惨劇の場にあっても驚くほど力強く、一定のリズムを刻んでいた。その拍動が、コートニーの乱れた思考を現実に繋ぎ止めてくれていた。
ステアは彼女を腕の中に囲ったまま、落ち着いた表情で近衛たちへ次々と指示を飛ばす。
「野次馬を部屋に入れぬように」
「はっ!」
「応援を呼べ。大至急だ」
「はっ!」
「それからマイロ。お前はここで何が起きたのか、住人たちから聞き込みを行え」
「御意」
マイロが即座に敬礼し、混乱する場をテキパキと統制し始める。
ステアは腕の中のコートニーを見下ろすと、その声音を微かに和らげて囁いた。
「君はもうここから離れたほうがいい」
「でも……」
「顔が真っ青だ。これ以上無理をする意味はないはずだ」
コートニーは、自分の表情がどうなっているかなど分からなかったが、血の気が引いている自覚はあった。それでも、彼女の口は自身の意志を超えて動く。
「……嫌です」
コートニーはステアの胸からゆっくりと体を離し、震える足で、惨劇の舞台となった部屋の奥へと踏み込む。
「お、おいっ!」
背後でステアの焦燥に満ちた声が響くが、彼女の意識は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、かつてジェーンだったモノに吸い寄せられていた。
(ジェーンさんの死因から犯人の手がかりを見つけ出さないと、また誰かが犠牲になってしまうから……)
彼女は震える足で、一歩、また一歩と惨劇の舞台であるベッドへと歩み寄る。その時、傍らに置かれた鏡台が、嫌な角度でコートニーの視界を掠めた。
(……え?)
ふと視線を向けたその鏡の中に、異質な存在が紛れ込んでいた。 煤けた鏡面に映し出されていたのは、返り血を浴びて真っ赤に染まった「自分自身」の姿だった。
男装の衣服も、白く細い指先も、剥き出しの狂気に塗りつぶされている。
「……ぅ……」
喉の奥で、意味をなさない呻きが漏れる。 鏡の中の凄惨な姿が、現実の自分であることを脳が認識した瞬間、内臓を素手で掻き回されるような激しい嘔吐感がせり上がった。
(まずい。この……生理的な拒絶反応は……制御、できなそう)
視界が急速に狭まり、色彩を失っていく。
膝の力が抜け、床の感触すら消えていく中で、コートニーはその場に力なくうずくまった。
「コートニー嬢!!」
遠のく意識の淵で、自分を呼ぶステアの切実な声を聞いた気がした。
次の瞬間、世界は完全な闇に沈んだ。




