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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第二章:檻の外へ ――王子と机の下の攻防
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008 真夜中の待合室で

(嘘よ、そんな……。二十四時間、常に鉄の塊が走り回っているんじゃなかったの!?)


 伯爵令嬢として世間知らずに育ったツケが、こんな土壇場で回ってくるとは思いもしなかった。


「だから、みんな馬車を降りなかったのね……」


 コートニーは肩を落とす。


 現在の時刻は深夜十一時。

 始発の五時まで、あと六時間。


 駅舎の中は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


「……どうしよう。このままここにいたら、不審者として捕まっちゃうし」


 開いている窓口は一つもない。広い待合室のベンチには、数人の浮浪者や、大きな荷物を枕に眠る旅人が、まばらに転がっているだけだ。


「あそこで六時間か……」


 横長の椅子に座っているのは、当然のように成人男性ばかり。


 父ウィリアムやフレデリック、それに屋敷の使用人。それくらいしか成人男性と接する機会がなかったコートニーにとって、見知らぬ男ばかりが集う部屋で六時間待つというのは、かなりハードルが高い。


「でも……ずっと立っているのも無理だし」


 言いかけて、ふと気づく。


「……って、私は男の子だった」


 窓に反射した男装姿の自分を見て、胸の奥に小さな勇気が灯る。


「僕なら、平気」


 ドレス姿の令嬢が、こんな時間に一人でうろつけば、それこそ自殺行為だ。

 けれど少年なら、誰も気に留めないはず。


「現に、あそこにいるのは男の人ばかりだし」


 待合室が駄目なら、他に六時間も過ごせる場所を思いつかない。


「……何事も、経験よ」


 意を決し、待合室へ足を踏み入れる。


 気配を殺し、人口密度が一番薄い出口近くのベンチの端に腰を下ろした。


 ――そして数分後。


 コートニーは、入り口付近に人が集まらない理由を、身をもって知ることになる。


「くしゅん」


 飛び出しかけた鼻水を、慌ててポケットから取り出した紙で拭う。


「……確実に鼻の下、赤くなってるわよね。というか、今日、寒くない?」


 暦の上では陽光眩しい五月だというのに、今日のクラスコー王国は、冬が舞い戻ったかのように底冷えしている。


(この異常な冷え込みは、北海からの気圧の影響かしら。それとも、私の『自由への逃走』を歓迎しない、この国の執念かしらね)


 外から吹き込む風が足元を直撃し、体温を容赦なく奪っていく。コートニーは両手を固く握りしめ、白く濁った吐息を吐いた。


「背に腹はかえられない、か」


 立ち上がり、待合室の奥へ移動する。左右の男性と適度に距離が取れたベンチに腰を下ろし、リュックを膝に乗せて、両手を擦り合わせた。


 今、コートニーが座っているのは、十人以上は座れそうな横長の黒い革張りのソファーだ。座り心地よりも収容人数を優先したらしく、ひんやりとした硬さが、お尻越しに伝わってくる。


(あと何分?)


 何気なく入り口の上に取り付けられた時計を見上げて、愕然とした。


「……うそ。まだ三十分も経ってないとか」


(まさに、生き地獄なんだけど)


 膝に乗せたリュックを抱え直し、コートニーは冷えた指先を温めながら、所在なげに視線を走らせた。このまま六時間、ただ寒さに耐えるのは「知識の塊」を自負する彼女の性分に合わない。


(……そうだわ。こんな時こそ、私のフィールドワークじゃない!)


 好奇心という名のガソリンが、冷え切った身体に熱を灯す。


 彼女の視線が、三つ隣のベンチで無造作に寝そべっている、大柄な男に止まった。


(さて、あの人は……どこから来て、どこへ帰るのかしら?)


 まず目を引いたのは、男が枕にしている大きな麻袋だ。使い込まれて黒ずんでいるが、そこからは微かに、しかし確実に「潮の香り」と「魚の脂」が混じった、独特の臭気が漂ってくる。


(港町——それも、ただの漁港じゃないわ。あの臭いの重さは、捕鯨か大型の回遊魚を扱う大規模な加工場がある場所。……エセックス側の沿岸かしら?)


 男の身なりをさらに精査する。着古したツイードのジャケットは、所々が白っぽく変色していた。それは単なる汚れではなく、繰り返された飛沫が乾燥して定着した「塩の結晶」だ。


(袖口を見て。ボタンが一つ、あえて革紐で補強されているわ。普通の裁縫じゃない、あれは網を繕うための『ノット』の技法よ。しかも右手の節が異常に発達している……。重いウィンチを回すか、あるいは帆を操る作業に従事している証拠ね)


 コートニーの脳内図鑑が、次々とページをめくっていく。


 その時だった。

 背中の奥に、ひやりとした感覚が走る。


(……見られてる?)


 反射的に視線を上げかけた、その瞬間。大柄な男が寝返りを打ち、麻袋が床にこすれる鈍い音がした。でも、それだけだった。


(……気のせい、よね)


 小さく息を吐き、思考を元に戻す。


 男の足元。ブーツは泥にまみれているが、その泥の色に、コートニーは注目した。


 王都の灰色がかった泥とは違う、重厚な赤みを帯びた粘土質。


(あの赤土……サウスエンド周辺の地層特有のものに違いないわ。ということは、彼はそこから最終列車でこのターミナルに着いたけれど、内陸へ向かう接続便がなくて、ここで足止めを食らっている……といったところかしら)


 そこまで推論を組み立てたとき、男の懐から覗いている「あるもの」が、決定的な証拠となった。


 ――使い古されたパイプ。


 その吸い口に巻かれているのは、色鮮やかな、しかし色あせた刺繍糸。


(あれは、船乗りの無事を祈る『セイラーズ・ウェルカム』の刺繍……。きっと、無愛想に見えるあの人にも、帰りを待つ家族がいるのね)


「ふふっ……」


 思わず口元が緩む。


 霧の向こう側の世界に住む、名もなき労働者の人生。

 それを「観察」という鍵で解き明かす快感。


(よし、次はあっちの、新聞を顔に乗せて寝ているおじさんを鑑定してみようかしら。あの靴の磨り減り方は、きっと——)


 その瞬間、足元から吹き上げる冷気が、容赦なく脛を打った。


「……寒っ」


 知的な遊戯に没頭していた意識が、強引に現実へと引き戻される。

 擦り合わせた指先に、じん、と鈍い痛みが走った。


 それでも。


 寒さと孤独に震えていたはずの時間は、いつの間にか、彼女にとって最高の「知的な遊戯」へと変貌していた。


「……うん、退屈してる暇なんて、一秒もなさそうね」


 コートニーは少年の顔つきで、不敵に、そして楽しげに微笑んだ。




 ◇✧◇✧◇✧◇




 待合室にいる男性を観察し終えたコートニーは、壁にかかる時計を確認して愕然とする。


「嘘でしょ……まだ一時間しか経ってないじゃない」


 絶望的な事実だった。


 あんなに熱心に「港町の男」の人生をプロファイリングし、脳内図鑑を何ページもめくったはずなのに。時計の針は、残酷なほどに歩みが遅い。


(……一時間。まだ、あと五時間もあるの?)


 これなら、ダンスホールで退屈な貴族の自慢話を聞いている方が、まだ時間の進みが早かったかもしれない。あちらなら少なくとも、空調も効いているし、温かい紅茶とスコーンが出てくる。


(ダメよ、コートニー。泣き言を言ったら、あの不潔……じゃなくて、たくましい男の人たちに笑われるわ)


 コートニーは震える肩を抱き、リュックをぎゅっと抱きしめた。


 だが、冷気は容赦なく彼女の細い体を突き刺す。先ほどまで好奇心で熱を持っていた脳も、物理的な寒さには勝てない。じっとしていると、指先の感覚がどんどん麻痺していくのがわかった。


(何か……何か他に気を紛らわせるものは……)


 ふと、暗いガラスに反射する自分と目が合う。


 長い髪をまとめるためにハンチング帽を被り、頬には煤を塗ったつもりでいた。けれど、待合室にいる男たちの服に染み付いた「本物の汚れ」に比べれば、自分のそれはあまりにも記号的で、浅はかだった。


 男たちのジャケットは、長年の労働で生地が薄くなり、袖口は擦り切れて糸が飛び出している。対してコートニーが用意した男装用の服は、フレデリックのお古とはいえ、仕立てが良く、何より「清潔」すぎるのだ。


(爪の間も、指先も、この人たちみたいに節くれ立っていない。それに、このリュックの革……。よく見れば、労働者が持つような耐久性に特化した安価なキャンバスじゃなくて、手入れの行き届いた最高級のカウハイドじゃないの……)


 世間知らずの令嬢が「変装」だと思い込んでいたものは、この極寒の待合室においては、あまりにも不自然で、高価な「衣装」に過ぎなかった。


(でも、サンプトンからの船に乗船するまでの我慢だわ)


 コートニーは震える指で、リュックの奥に潜ませた乗船券の感触を確かめた。


 フィデリア行きの二等船室。そこさえ辿り着けば、狭いながらもプライベートな空間が手に入る。十日間の船旅を経て、この窮屈な「伯爵令嬢」という役割から解放されるのだ。


(そうよ。十日もあれば、異国の言語の一つも習得できるわ。向こうに着いたら、まずは香辛料貿易の仕組みを調べて……)


 未来の計画に胸を膨らませ、どうにか寒さを忘れようと努める。だが、冷酷な現実感は、自分の「手の白さ」となって目の前に突きつけられていた。


 ふと、少し離れたベンチに座る、先ほど観察した「港町の男」がこちらをジロリと見た気がした。コートニーは反射的にリュックを抱え直し、顔を伏せる。


(……見ちゃダメ。目があったら、この『お古のジャケット』の生地の良さまで見抜かれてしまうわ。フレデリック、どうしてあなた、もっとボロボロになるまで服を着倒してくれなかったのよ!)


 義理の兄の物持ちの良さを心の中で逆恨みしながら、彼女は小さく丸まった。


 待合室の空気は、石炭の燃える匂いもせず、ただただ湿った冷気と、男たちの体臭、そして安煙草の煙が重たく澱んでいる。静まり返った待合室には、眠りこけた男の重苦しいいびきと、古びた時計が刻む「カチ、カチ」という音が響く。


「……もう一度、確認しておこうっと」


 コートニーは、膝に置いたリュックの蓋を開け、逃亡計画書を取り出そうとした。


「ねぇ、ニリンクで今晩どう?」


「えっ?」


 唐突に投げかけられた言葉に、コートニーの思考回路が火花を散らしてショートした。


(ニ、ニリンク!?)


 反射的に顔を上げると、そこにはいつの間にか距離を詰めて、こちらをじっと見据えている男がいた。


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