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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第九章:その夜、例外が許された
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079 スラムに響いた、切り裂き魔の名

 イースト地区へ一歩足を踏み入れた瞬間、そこには視覚と嗅覚を暴力的に刺激する光景が広がっていた。今にも崩れ落ちそうな建物が、互いに支え合うように歪んで立ち並び、道にはゴミが散乱し、至る所で獣のような怒声が響き渡っている。


 通りを行き交う、襟ぐりの大きく開いたドレスを纏った女たちは、コートニーの左右を固めるステアとマイロを、品定めするような卑俗な視線でねめつけた。中には露骨に色香を振りまき、誘いをかける者さえいる。


 砂埃、排泄物の悪臭、そして露店に並ぶ不衛生な食料品の匂い。煙突から吐き出される煤煙ばいえんが灰色のとばりとなり、街全体を窒息させるかのように覆い尽くしていた。


「ジェーンという女性の住処はミラー・コートですね。ここから少々歩くことになります」


 コートニーが伝えた住所を完全に記憶しているらしいマイロの先導で、一行は歩を進める。


「手鏡、買わないかい?」


「紳士に相応しい本がございまっせ」


「イラストレイテッド・クラスコー・ニュースはいかがかな!」


「坊ちゃん、お母さんに花をどうだい?」


 足を一歩進めるたびに、物売りの声がしつこく絡みついてくる。

 市場を埋める群衆の顔には歪んだ笑顔と不安が張り付き、商人たちの売り文句には、明日をも知れぬ絶望と虚無感が漂っていた。


(……これが、私の知らなかった王都に潜む真実の欠片なのね)


 狭い路地から漏れ聞こえる赤子の泣き声や怒号。破れた衣服を身に纏い、飢えた獣のような目でこちらを伺う人々。


 スラムの濃密な悪意の中を、三人は足早に通り抜けていく。


「ここが……」


 王城を囲む堅牢な防御壁。そのすぐ外側に広がるこの場所が、城壁の内側の温かな光が、一滴も届かない底なしの泥濘ぬかるみであることに、コートニーは言葉を失った。


「ここはある意味、王都の闇を一手に担う場所だからな」


 コートニーの動揺を察したのか、ステアが峻烈(しゅんれつ)な表情で口を開いた。


「君が逃げ込んだ第三修道院は、イースト地区に近いとはいえ、まだ城壁の内側に守られていた。ここに巣食う者たちは、君が想像する貧民街の住人とは、生きるための『覚悟』のレベルが違うんだ」


「スラム……」


 思わずその言葉を口にする。


「そうだ。ここには希望もなければ、救いもない。明日を繋ぐためなら、魂さえも切り売りする者たちの掃き溜めだ」


 ステアの説明を裏付けるように、視界の端をボロ布を纏った影が駆け抜けていった。その手からこぼれ落ちたのは、腐敗しかけた果物。


(……あれを、口にするの?)


 コートニーが息を呑む間もなく、その影はまるで宝物を拾うかのように、泥にまみれた果実に食らいついた。洗うことも、汚れを払うこともせず、ただ飢えを満たすことだけに全ての神経を注いでいる。


 その光景には、彼女が学んできた衛生学も、令嬢としての作法も、何一つ入り込む隙はなかった。


 胸の奥が熱を帯びたように苦しくなり、視界が滲みそうになる。けれど、今の自分にできることなど何もないのだと、コートニーは自身の無力さを認め、その感情を心の奥底へ押し込めた。


 彼女は自身の動揺を悟られぬよう唇を噛み、ただ前を歩くマイロの背中を見つめて歩く。


 不条理が泥のように堆積したスラムを、足早に歩くこと数分。


「着きました。ここがミラー・コートです」


 マイロの落ち着いた声が、重苦しい空気を切り裂いた。


 マイロが足を止めて指し示したのは、煉瓦造りのアパートメントだった。ここに来る間に目にしてきた、今にも自壊しそうな建築物群に比べれば、まだ幾分か「マシ」な部類に見える。


(……良かった。ここなら、少なくとも頭上から瓦礫が降ってくる心配はなさそう)


 コートニーの胸に広がる安堵は、主に二つの要素で構成されていた。


 一つは、ジェーンの生活圏が最低限の防犯性を備えていることへの安堵。そしてもう一つは、これから足を踏み入れる建物が、自身の体重を支えきれずに崩落するリスクが低いという、極めて自己保身的な安堵だ。


「殿下とマイロ様がいてくださって、本当に良かったです」


 コートニーは、自分一人ではこのおぞましい迷路のような道のりを突破し、ここまで辿り着くことさえ叶わなかっただろうと潔く認めた。


「男装さえすれば容易いなんて、私の見通しはあまりに甘かったです。殿下、マイロ様、心より感謝します」


 彼女が二人に向かって深く頭を下げると、ステアが短く応じた。


「礼は不要だ。……どうせ、街の見回りも兼ねているからな」


「そうですよ。陛下の大事な方をお守りすること、それも我々近衛の大切な任務ですから」


 マイロの言葉に、コートニーは少しおどけたように口角を上げた。


「まあ。私のような『仮初めの』婚約者まで対象に含まれるなんて、近衛の皆様の職務範囲は実に広大ですのね」


 冗談のつもりだったが、ステアはなぜかガックリと肩を落とし、消え入るような声で呟いた。


「……仮初め、か」


(え、何かミスしたかしら? 殿下の精神状態が、また予測不能な下降曲線を描いてるんだけど……)


 戸惑う彼女をよそに、マイロが冷静に話題を引き戻した。


「ジェーンという女性は、十三号室でしたね」


「……ああ。この地区にしては、なかなか立派な造りのようだ」


 ステアが鋭い視線で目の前の建物を検分するように見上げた。その横顔は、市民に変装していても隠しきれない王族としての冷徹な観察眼に満ちている。


 アパートメントの玄関は「ようこそ」といった感じで大きく開いていたため、中に入るのは簡単そうだ。


「開けっ放しなんて、ずいぶん不用心だわ」


 コートニーの飾らぬ感想に、ステアとマイロは苦笑いで顔を見合わせた。


「参りましょうか」


 マイロが石段に足をかけた、その瞬間だった。


「た、大変よ!!」


 開いた扉の奥から、突き刺さるような絶叫が響く。


  マイロが瞬時に反応し、ステアとコートニーを庇うように両手を広げて一歩下がる。


 そこには、目の下に濃い隈を作り、全身を恐怖で震わせた若い女性が立ち尽くしていた。


「ジェーンの部屋に切り裂き魔が!!」


「なっ……!」


(切り裂き魔!? )


 凍りつくコートニーを他所に、ステアが身を乗り出して女性に詰め寄る。


「切り裂き魔の姿を目撃したのか! 奴はどこだ!」


「ジェーンが……ジェーンが……!」


 女性はステアの問いに答える余裕もなく、極限の恐怖に耐えかねたようにその場に崩れ落ちた。


 マイロが咄嗟にその身体を抱き止める。


「殿下、いかがなさいますか?」


「不審な男がいないか、周辺の索敵を開始しますか?」


 その声と共に、見覚えのある近衛兵たちが次々と玄関口に集結した。


 どうやらステアは、変装して歩く裏で、相当数の護衛をこのスラムの一画に潜伏させていたらしい。


(殿下の過保護……いえ、ここまでしないと危ない場所ってことよね)


 不気味に静まり返ったアパートの奥を見つめ、コートニーは男装の胸元を強く握りしめた。


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