078 馬車の中で、殿下が不機嫌な理由
男装したコートニーを乗せた馬車は、華やかな中央区を抜け、石炭の匂いと喧騒が混じるイースト地区へと向かってひた走っていた。
窓の外はちょうど夕暮れ時。燃えるようなオレンジ色を、重苦しい漆黒が包み込もうとしている。
これから向かうのは、お世辞にも治安が良いとは言えないエリアだ。
そう思うと、窓の外に広がる夜の暗さが、いつもより深く、不気味に感じられた。
(殿下に付いてきてもらって、結果オーライだったかも)
母の祖国フィデリア国へ向かう目処が立ち、少し浮ついていたせいか、一人で乗り込もうとしていた己の危機管理能力の甘さをコートニーは密かに反省する。
「ところで、コートニー。君はイースト地区にいる女性にどういった要件があるんだ?」
向かい側に座るステアから問いかけられ、コートニーは思考を切り替えて前を向いた。
「以前、私が修道院に逃げ込んだ際、殿下からいただいたトランクを盗まれてしまったのですが……」
「ああ、そうだったな。話し合いも待たずに、君が勝手に逃げ出したんだったっけな」
嫌味を口にしたステアが、意地悪く口元を歪ませる。
「コホン」
すかさず隣のマイロがわざとらしい咳払いをし、主君を牽制した。
「あーまあ、あれは仕方がなかった。うん。そうだ、状況的に不可避だった」
マイロに睨まれたステアは、目に見えて分かりやすく取り繕うような素振りを見せる。
「……で、そのジェーンという女が君のトランクを盗んだと?」
ステアは再度咳払いをして、無理やり話を元に戻した。
(今日の殿下、何だか挙動不審なんだけど。私と同じように思考回路にノイズでも混じっているのかしら)
具合でも悪いのではないかと、コートニーはじっと目の前のステアを観察した。
スッと通った鼻筋に、吸い込まれそうな青い瞳。以前より目の下の隈は改善されているし、相変わらず造形美の極致のような顔立ちだ。だが、よく見ると肌が微かに上気している。
「殿下、もしかして熱でもあるのですか?」
心配になり、思わず身を乗り出して問いかけると――。
「プッ!」
なぜかステアの隣に座るマイロが噴き出した。
「熱などない」
ステアは腕組みをしたまま、ぶっきらぼうに言い放つ。
「しかし殿下、お顔が赤らんでいます」
「……馬車の中が狭いからだ。お前のような図体のデカい奴の隣に座っていると、視覚的にも体感温度的にも暑苦しいんだよ」
ステアはギロリと隣のマイロを睨みつけた。
(なるほど。殿下の不快指数が上昇しているのは、居住環境の密度が原因だったのか)
コートニーは、ステアの侍女であることを思い出し、マイロに顔を向けた。
「マイロ様、こちらに座ります? 」
コートニーはお尻を浮かせ、座席の端へとずれた。
「そちらよりスペースに余裕があります」
これならステアの隣の「熱源」が排除され、快適な空間が確保されるはずだ。
そう確信したコートニーは、空いたスペースをパタパタと手で叩く。
「……なんでマイロに勧めるんだよ」
ステアは感謝するどころか、さらに鋭い視線でコートニーを睨みつけてきた。
(理不尽ですわ。殿下の熱効率を考慮して空調管理……もとい、配置の最適化を提案したつもりなのに、なんで私が非難されなければいけないのよ)
納得がいかず、コートニーは思わず頬を膨らませた。
「コートニー様、お気遣いありがとうございます。ですが、私はこちらで大丈夫ですよ」
マイロが苦笑交じりに穏やかに微笑む。
(ああ、やはりマイロ様は優しくて、状況判断も的確な完璧な近衛だわ。新婚であることが、本当に惜しまれるんだけど……でもまぁ、現実はステキな男性ほど結婚市場から売れていくという事実があるし……)
「ん、ごほん!」
ステアが三度目の咳払いをした。その声音には、隠しきれない苛立ちと、落ち着かない焦燥が混じっている。
「つまりだ。君はトランクを盗んだジェーンという女性に、事情を聴きに行くと?」
無理やり結論を導き出そうとするステアに、コートニーは「違います」と短く答えた。
「というか殿下。そのお話は、以前お耳に入れたはずですわ」
「……そうだな。確か君が第三女子修道院に身を寄せていた際、不届きな女――ナナ・ボーイズが君のトランクを掠め取り、五十リンクもの端金を手にした……だったか」
ステアは記憶の書架を紐解くような面持ちで、淡々と事実を確認した。
「はい、そのナナという女性が、トランクを盗んだ犯人です」
「なるほど。それで、被害届と盗難届は治安局へ速やかに提出したのか?」
矢継ぎ早に飛んできた詰問に、コートニーは一瞬言葉を詰まらせた。
「いえ、まだです。というか、届出を出すという手続き自体、忘れていたというか、何というか」
王城に連れ戻された直後、ステアとの婚約という大イベントが発生した。その結果、盗難届などという些末な件は、コートニーの脳内にある処理待ちから完全に脱落していた。
「コートニー嬢は、社交や執務で多忙を極めておいででしたからね。ですが、盗難届は早急に提出することをお勧めします」
隣でマイロが、いかにも良識ある紳士らしい助言をくれる。
「ええ、そうします」
「そもそも、君はなぜナナ・ボーイズを犯人だと断定しているのだろうか?」
ステアが、革の手袋を嵌めた指先でトントンと膝を叩きながら、詰問するような視線を向けた。
「盗まれたトランク内に入れていた、母の形見である指輪をジェーンさんが指に嵌めていたんです。彼女に探りを入れたところ、その指輪はナナさんから買い受けたものだとの証言を得ました」
「なるほど。ジェーンという女性の証言に虚偽がなければ、ナナが主犯である可能性は高いというわけか。では今日は、その指輪を買い戻しに行くんだな?」
「はい。亡き母の形見ですので、取り戻したいんです」
コートニーは馬車の窓から外に視線を移した。
日はすでに落ち、ガスの灯が点り始める。
イースト地区への到着は間近だ。
「他に掠め取られたもので、回収すべき大事な物はないのか?」
「殿下から拝領した、フクロウの紋章入りのトランクくらいでしょうか」
正直に答えると、ステアは呆れたように眉を寄せた。
「ふむ。私の紋章入りの物品が犯罪に悪用されては寝覚めが悪い。断固として回収しておくべきだろう。というか、なぜそれを後回しにできるのか……私の理解を超えているのだが」
ステアに手厳しく追及され、コートニーはぐうの音も出なかった。
「……申し訳ございません」
彼女が肩を落とすと、すかさずマイロが助け舟を出した。
「殿下、もう少しオブラートに包んで差し上げてください。女性の心は繊細なのですから」
「……そうだな。少々、言葉が過ぎたな」
ステアは気まずそうに視線を逸らした。
(やはり、今日の二人は挙動がおかしいんだけど。特に殿下の、この妙に落ち着きのない波形はなに?)
コートニーは、向かい合わせに座る二人の間の空気が、微かな火花を散らすように張り詰めていることに気づいた。
(……もしや、狭隘な空間に閉じ込められたことで、男性特有の縄張り意識が衝突を起こしているとか?)
「やっぱり、そちらの席は狭いんじゃないですか? 配置を分散させるためにも、マイロ様。どうぞこちらへ」
水面下で繰り広げられている殿下とマイロの奇妙な攻防を察知したコートニーは、環境改善とリスク分散のために、マイロを空いている自分の隣の席へと再度誘った。
「コートニー嬢、ご心配には及びません。この馬車は本来六人乗りですから、キャパシティには十分な余裕がございます。……ですが、せっかくのお誘いだ。喜んで御相伴に預かりましょう」
マイロが柔らかな笑みを浮かべて腰を浮かせた瞬間、ステアの口から「チッ」という、隠しきれない舌打ちが漏れた。
(マイロ様が移動してスペースが拡張されたはずなのに、なぜ殿下の不快指数がさらに上昇するわけ?)
コートニーは、目の前で「ふいっ」と窓の外を向き、耳まで朱に染めて黙り込んだ王子の様子を、不可解な未解決案件として脳内メモリーに記録した。
馬車は石畳を叩く規則的な蹄の音を響かせ、霧の深いイースト地区へと入っていく。ガスの灯がぼんやりと滲む中、馬車が目的のアパートの前で静かに停車した。
「コートニー嬢、絶対私たちから離れるなよ」
ステアは、真剣な表情でコートニーに告げる。
「はい、分かりました」
コートニーは、ステアのどこか必死さの混じった眼差しを受け止め、短く、けれど力強く頷いた。
中央区の洗練された静寂とは異なり、馬車の外からは酔客の怒鳴り声や、出所不明の湿った喧騒が霧に乗って紛れ込んでくる。
コートニーは無意識に、自身の決意を確かめるように指先を丸めた。
「よし、行こう」
ステアが先に馬車を降り、エスコートのために手を差し出す。
コートニーはその手をしっかりと握り、夜の帳へと足を踏み出した。
母の形見を取り戻すため。
霧の深いイースト地区の路地へと、三人の影が吸い込まれるように消えていった。




