077 夜の見回りと、説明不能なノイズ
コートニーは有給休暇を利用し、祖父マイケルへ「現在は少々立て込んでいる」旨を伝える手紙をしたためた。
封を閉じてから、肝心の「殿下との婚約」について一切触れていないことに気づく。けれど、書き直す手間とコストを天秤にかけ、そのまま送ることに決めた。
(海を越えたフィデリア国まで情報が届くには、どうしても物理的なタイムラグが生じるのよね。まぁ、既知の事実として新聞で把握されている可能性もあるし、報告が少々遅延したところで、誤差の範囲内としてゆるされるはずだわ)
そう自分に言い聞かせ、マイケルへの手紙を船便に託した翌日。
現実味を帯びてきたフィデリア国への移住を前に、早めにやり残したことを片付けておこうと、コートニーは終業後、一人でイースト地区へ向かおうとした。
ところが――。
「君が暇ならば、の話ではあるが……。城下にうまい店を見つけたんだ。今晩、どうだ?」
珍しくステアが、どこか落ち着かない様子で夕食に誘ってきた。
「あー……大変魅力的なお誘いなのですが、本日はジェーンさんのお宅へ伺うつもりなんです」
「ジェーン? それは誰だ」
「修道院で知り合った、非常に容姿の整った女性ですわ。先日、私を紳士クラブへ誘ってくださった方です」
「ふむ」
ステアが記憶を辿るように眉根を寄せると、横からマイロが援護する。
「殿下、お忘れですか? イースト地区で聞き込み捜査をした際、『一番美人な子』だと仰っていたじゃないですか」
(……あら?)
コートニーはニヤリと意地悪く口元を歪ませながら、ステアの横顔を覗き込んだ。
(聞き込み捜査の対象を『一番美人』とわざわざ定義していたなんて。王族といえど、視覚情報の美しさに脆弱であるという、一般的な人類の法則からは逃れられないのね)
論理的には理解できる現象だ。
しかし、なぜか胸の奥が微かにざわつき、数式や知識の蓄積では説明できない「モヤモヤ」としたノイズが発生する。
(この不快な不協和音は、仮初とはいえ婚約者という立場ゆえの『排他的権利』が侵害されたことによる防衛本能かしら?)
そんな内心の戸惑いを隠すように、彼女は淡々と続けた。
「では、お先に失礼いたします」
踵を返し、部屋を出ようと足を踏み出した瞬間、「待て」と背後からステアの焦った声がかけられた。
「はい、待ちます」
くるりと振り返り、コートニーは首を傾げた。
(待て、の指示に従い静止したけど……殿下の挙動が、いつにも増して挙動不審なんだけど。一旦終了したはずの会話を再起動させる意図は何かしら?)
問いかけるような視線を送ると、ステアは何から説明すべきか迷うように唇を戦慄させ、やがて絞り出すような声を出した。
「つまり君は、これからイースト地区へ行くつもりなのか」
「ええ。ですが、適切な男装を施して向かいますので、防犯上の懸念は無用です」
笑顔で完璧な対策をアピールしたコートニーだったが、ステアの反応は断固としたものだった。
「だめだ。コンラッド伯爵家から君を預かっている以上、私には君の安全を守る義務がある」
「なるほど?」
「よって、一人で行かせるわけにはいかないし、そもそも男装なんてリスク管理のうちに入らない」
「えっ?」
「君がどうしても行くと言うのなら、私が見回りも兼ねて同伴しよう。いいな、マイロ」
ステアはすでにコートニーを一人で行かせる選択肢をゴミ箱へ捨て去ったらしく、有無を言わさぬ勢いでマイロに同意を求めた。
「了解いたしました。私も同行します」
マイロもまた、淀みなくその提案を受理する。
「だ、大丈夫なんですか? 新婚のマイロ様は、たまには帰宅を優先して奥様との時間を確保された方が……」
(家庭内における幸せ係数が、保たれると思いますけど?)
視線で必死に訴えかけたが、マイロは涼しい顔で微笑んだ。
「イースト地区の見回りはもはやルーチンワークですから。なんなら、コートニー様が同行してくださった方が、事態が速やかに収束し、早く帰宅できる可能性が高まります」
「え、どういう――」
「では、用意ができ次第、馬車停めで集合だ」
ステアはコートニーの反論を待つことなく、なぜかやたらと張り切った様子で席を立った。
(もしかして、ジェーンさんに会いたいから?)
自分がダシに使われたのではないかという疑念が、コートニーの胸中を支配する。
ステアが「一番の美人」と評価した女性に、公務にかこつけて会いに行こうとしている――そう解釈すれば、今の彼の異様な張り切りようにも論理的な説明がつくからだ。
(……信じられない。私のプライベートな訪問が、いつのまにか殿下の『夜の見回り兼、美女鑑賞会』に強制置換されたってこと?)
内心で毒づきながらも、コートニーは自分の中で膨らんでいく不快なノイズを必死に解析しようとした。
(この胸のざわつきは……そう、調査員として、観測対象が「美人」という単純な外的要因に惑わされる様子を、看過できないだけ。決して、殿下が私以外の女性を優先したことに憤っているわけではないから)
自分自身にそう言い聞かせ、彼女は鋭い視線をステアの背中に突き刺した。
「……承知いたしました。では、殿下の『公務』が捗るよう、私も迅速に準備を整えてまいります」
嫌味の一つも込めて答えたが、ステアは気にする様子もなく、むしろ足取り軽く執務室を出ていく。
(……まあいっか。殿下が『一番美人』と評したジェーンさんに鼻の下を伸ばさないか、しっかり監視しておくのも、不誠実調査官としての義務だし)
コートニーは、自分の中のモヤモヤを、「殿下の不誠実さに対するデータ収集」という名目に書き換え、深い溜息を飲み込んだ。
◇✧◇✧◇✧◇
コートニーは一度自室に戻り、クローゼットの奥にしまっていた衣装箱を開いた。
中から取り出したのは、家出を決行した日に身に纏っていた、フレデリックの服を自分用にリメイクしたものだ。
「まさか、また『僕』になるとは思わなかったけど……」
イースト地区の治安と、機動性を考慮すれば、この服以外考えられない。
ベージュのズボンに足を通しながら、コートニーは実家を飛び出した日のことに思いを馳せた。
「あの時は、クラスコー王国とは綺麗さっぱりおさらばして、フィデリア国で新生活の第一歩を踏み出す計算だったのに」
現実は、未だクラスコー王国に留まっているどころか、あろうことか逃げ出したい国の第二王子の婚約者に収まっているという現実。
「仮初の」という限定条件は付くものの、人生の複雑さに、彼女は小さくため息をついた。
「さて、行きますか」
鏡の前で、不自然な膨らみがないか、そして少年としての整合性が保たれているかを最終確認し、彼女は、ジェーンから借りたドレスを持って部屋を出た。
◇✧◇✧◇✧◇
馬車停めには、すでにステアが待っていた。 正装のシルクハットではなく、使い込まれた色褪せたハンチング帽を被り、服装も高級な仕立てを隠すように、少し着古した質素なものに着替えている。すっかり市民に紛れる装いを整えたその姿は、高貴なオーラを上手く消しており、変装の精度は驚くほど高かった。
「お待たせして申し訳ありません」
コートニーが慌てて駆け寄ると、ステアは短く答えた。
「いや、大丈夫だ。その格好、なんか懐かしいな」
「ありがとうございます。家出の時からの相棒です」
「確かに」
自然と頬を緩めたステアが、当たり前のようにこちらに差し出した手を握り、コートニーは馬車に乗り込む。
エスコートされる際、その掌から伝わる確かな熱に、一瞬だけ思考回路が乱れたが、彼女はすぐにそれを「気温による熱伝導の法則」として処理した。
(やだ、なんか私、おかしいかも)
いちいち自分に言い訳する状況が多すぎる点について、コートニーは自身の脳内に何らかの懸念する事案が生じているのではないかと疑い始める。
(事象を論理的に解釈しようとするのは、私の基本仕様。だけど、最近その解釈の過程が明らかに冗長だわ。単に「殿下の手を借りた」という事実に対し、わざわざ熱力学を持ち出す必要がある?)
ガタン、と馬車が揺れながら動き出し、自身への密かな問いかけは遮断される。
対面に座ったステアは、ハンチング帽を少し深めに被り直し、車窓の外を流れる夜の街並みをじっと見つめていた。その横顔は、普段の傲慢な王子としてのそれではなく、どこか守るべきものを抱えた一人の男のようにも見える。
(さすが殿下の変装レベルは、高いけど。……でも、そんなに気合を入れて、やはりジェーンさんに会うのが楽しみだから?)
心中で小さな棘がチクりと刺さるのを感じながら、彼女は車窓の向こうで次第に暗くなっていく景色を見つめた。
(ジェーンさんは確かに美人だわ。殿下が自分の婚約者が手が妬ける上にタイプじゃないから、目の保養を求めるのも、生物学的な本能としては理解できなくもない。でも、それならそうと、正直にそうおっしゃればいいのに)
押し込めきれない自分の中のモヤモヤをふたたび、「殿下の不誠実さに対するデータ収集」という名目に書き換えたコートニーは、深い溜息を飲み込んだ。




