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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第九章:その夜、例外が許された
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076 婚約破棄ができない理由

 ステアが婚約破棄を口にした、その瞬間。


 ドタン、バサリ、ガタン――!


 静かだった執務室の端で、ステア付きの精鋭部隊の面々が、持っていた書類を落としたり椅子を引っかけたりと、絵に描いたような動揺を見せ始めた。


 思わずコートニーが振り返ると、顔面を蒼白にしたり口をあんぐりと開けたりしている捜査官たちの姿があった。


「だ、大丈夫ですか? 皆様、何か致命的な問題でも発生したんですか?」


「いや、我々に気にせず、どうぞ続きを……」


 マイロが引きつった笑顔で両手を差し出し、壊れた機械のように「続けてください」とジェスチャーで促す。


(……皆様の動揺指数が、明らかに許容範囲を超えているんだけど。この空間の気圧、何かがおかしいわ)


 コートニーは、不可解な状況に首を傾げながら、再びステアに向き直った。

 本来なら、ここで「ありがとうございます!」と歓喜の声を上げ、スキップで部屋を出るのが、フィデリア国を目指す彼女にとっての正解だ。


 しかし。


(……自分だけ切り裂き魔から逃げるみたいで、納得がいかないわ。それに、契約期間の終了条件は『犯人の逮捕』のはずだし)


 それに、何より。 先ほどから視線を逸らし続けているステアの横顔が、いつも以上に頑なで、どこか無理をしているように見えてならない。


「殿下。婚約を破棄していいとおっしゃいましたが、それは私の『フィデリア行き』という個人的な事情を優先して、公的な『切り裂き魔事件の解決』という目的を放棄するということですか?」


「放棄するとは言っていない。……ただ、君がこの国に留まる一ヶ月の間で事件が解決しなかった場合、君の夢をこれ以上足止めするわけにはいかないだろう」


 ステアの声は冷静だったが、その指先は、インクの染みが広がった書類の端を、指が白くなるほど無意識に握りしめていた。


「正直なところ、私も早くフィデリアに帰りたいですし、お祖父様にもお会いしたいです。でも……」


 コートニーはそこで言葉を一度区切ると、一呼吸置いて、決然とした眼差しで再び口を開いた。


「でも、それは『今』ではない気がします」


「なぜだ?」


 驚いたように目を見開くステアに対し、コートニーは小さく首を振った。


「だって、今このタイミングで婚約破棄などしたら、諸々の事象において深刻な問題が発生します。そう、極めてまずい状況です」


「まずい……?」


「まず第一に、やはり切り裂き魔の件です。そもそも奴は、私たちの婚約を『祝う』などという非論理的な声明文を送ってきました。となると、ここで婚約破棄という真逆の事象をぶつければ、奴を不必要に刺激し、犯行を激化させるトリガーになりかねません」


「確かに……一理あるな」


 ステアはコートニーの分析に納得したのか、深く頷いた。


「次に、私は殿下との出会いを万人受けするように、嘘八割、真実二割で構成した著書を出版しました」


「ああ、あの『愛と名誉の結びつき』という本か」


「ええ、あまりに恥ずかしいので、殿下、題名は『あの本』という代名詞で固定して頂けると、心身共に助かります」


「な、なるほど……?」


 コートニーが至極真面目な顔で要求すると、ステアは戸惑いつつも了承の意を示した。


「それで『あの本』がどうかしたのか?」


「はい。お渡し会という名のサイン会まで開催して読者と接触した以上、このスピード感で婚約破棄をするのは、社会的信用を著しく損ないます。それに編集者のケビン様から伺った情報によれば……」


 コートニーは、脳内の記録保管庫からケビンより仕入れた「読者の動向」を引っ張り出した。


「あの方の元に届くファンレターには、『本に触発されて告白に成功した』とか『シチュエーションを真似たら恋人が喜んでくれた』など、あの本がまるで『恋愛の聖典バイブル』のような扱いをされていると記されていました」


「つまり君は、婚約破棄をすればファンを悲しませることになると?」


「それもありますが、聖典として売れた本の主人公たちが即座に破局するなど、もはや誇大広告……いえ、詐欺に近い行為だとは思いませんか?」


(返品騒動にでも発展すれば、処理に膨大なリソースを割くことになる。それに、印税は全て第三女子修道院に寄付する契約だし。一冊でも多く売れ続けてもらわないと、修道院の運営資金がマイナスに振れてしまうってことだし……)


 コートニーは、ステアとの婚約破棄がもたらす「経済的損失と社会的波及効果」を素早くシミュレーションして、やはり「今」ではないと結論付けた。


「詐欺か……。確かに、そう受け取る者もいるかもしれんな」


「ええ。私たち二人が非難を浴びるのは自業自得ですが、出版元の『ICN』にまで風評被害を及ぼすのは、不誠実の極みですわ。ケビン様には大変良くしていただきましたし」


「なるほど。恩義に報いるという点では同意できる」


 ステアが納得したように頷くのを見て、コートニーはたたみかけるように提案した。


「ですから、婚約破棄の実行時期を、もう少し先へ伸ばしませんか?」


(……よし、これでフィデリア行きを確保しつつ、調査拠点も維持できる)


 内心で完璧な工程表を作成しつつ、コートニーが問いかける。すると、ステアは少し考え込むように腕組みをして沈黙した。


「そうだな。君がそれでいいと言うのであれば……わかった、今は婚約破棄を保留にしておこう」


 しばらく考え込んでいたステアが、どこか慎重に言葉を選びながら真面目な表情で答えた。


「はい、ありがとうございます」


 コートニーは、自身の提案が受理されたことに安堵し、素直に感謝の意を示した。これで当面の調査拠点と、修道院への寄付金源、そして何よりケビンへの義理が守られた。


「それでは、私は有給をいただきますので。本日はこれにて失礼いたしますわ」


 厄介事を処理した途端、ふたたび遅いかかる二日酔いの頭痛を抱えつつ、ミッションを完遂した満足感と共に深々とお辞儀をして部屋を出ようとした、その時。


「……ちょっと待ってくれないか」


 背後から、呼び止めるようなステアの声が響いた。


「どうかされました?」


 コートニーが振り返ると、ステアが何かを言いかけては飲み込むような、ひどく複雑な表情でこちらを見つめていた。その瞳には、先ほどまでの冷徹な理知とは異なる、未定義の感情が揺らめいているように見える。


「君が婚約破棄を保留にした理由は、その……少しなりとも……いや、なんでもない」


「……?」


(殿下の発言が途中で遮断されたんだけど。お疲れで、主語と述語の接続に不具合が生じているみたいね)


 そんな疑問が頭をよぎったが、ズキズキと痛む頭脳がそれ以上の深追いを拒否した。


「殿下もご無理をなさらず、たまには早めに帰宅してぐっすり寝て下さいね」


 コートニーは最後に、淑女らしくしとやかに微笑み、執務室を後にした。


 扉が閉まる間際、室内から「……僕は、一体何を期待しているんだ」という、消え入りそうな自嘲気味の独り言が聞こえた気がした。けれど、コートニーは、それを単なる幻聴として処理し、独身寮への帰路を急いだのだった。


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