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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第九章:その夜、例外が許された
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075 婚約を破棄してもいい、と彼は言った

 紳士クラブ「ホワイト」にて、酔っ払うという、論理的にも倫理的にもあるまじき醜態を晒してしまったコートニー。


 昨夜、最後に意識があったのは、光量の落ちた社交クラブでステア殿下にグラスを奪われた瞬間だったはずだ。それなのに、今朝目が覚めたのは、王城内にある独身寮の――あろうことか、自分自身のベッドの上だった。


(そのことが意味する物理的事象は……)


 コートニーは、混乱する脳細胞を総動員して昨夜の帰宅ルートを逆算しようとした。しかし、論理的な思考を試みた途端、頭蓋骨の裏側を金槌で叩かれたような強烈な痛みに襲われた。


「……だめだわ。とりあえず出勤前に湯浴みをして、この不純なアルコール成分と記憶の混濁を洗い流さないと」


 ズキズキと脈打つこめかみを押さえながら、彼女は重い体を引きずってベッドを抜け出した。


(フレデリックに見捨てられ、あろうことか殿下に抱きかかえられて運ばれた可能性が、現時点では限りなく百パーセントに近いような……。ああ、なんたる失態!)


 昨夜の自分に「自制心」という概念を叩き込んでやりたい衝動に駆られながら、彼女は熱めの湯を求めて浴室へと向かった。



 ◇✧◇✧◇✧◇



 割れるように痛む頭を抱えながら、コートニーはステアからの苛烈な説教を覚悟して出勤した。


 しかし、執務室で待っていたのは、予想だにしない言葉だった。


「今日は休め。それと……飲みすぎるなよ」


(……え? それだけで終わり?)


 普段の彼は、嫌味やからかい、あるいは論理的な欠陥の指摘を五つや六つは並べ立てるはずだ。それなのに、彼はただ「休め」と気遣うような言葉を投げかけてきた。


(……不気味なんだけど。これは後でまとめて恐ろしい制裁が待っている前触れかしら?)


 そんな疑惑を拭いきれないままではあったが、肩透かしを食らったコートニーは、差し伸べられた救いである「有給」という名の休息をありがたく受理することにした。


「では、殿下。本日はご迷惑をおかけしますが、お休みさせていただきます」


 コートニーが深々と頭を下げると、ステアは視線を書類に落としたまま、あっさりと応じた。


「ああ、良い休日を」


 その瞬間、コートニーは固まる。


(……「良い休日を」ですって? 殿下が社交辞令を私にかけた?)


 耳を疑うような言葉に、ふと見上げたステアの顔は、どこか精彩を欠き、集中力が散漫になっているように見えた。


 現に、彼は手にしたペンを紙面の上で止めたまま、一点を見つめて小刻みに動かしており、インクの染みが書類にじわりと広がっていることにも気づいていないようだった。


(これは、私の二日酔いによる視覚エラー。あの完璧主義者の殿下が、あんな初歩的なミスを見逃すはずがありませんもの)


 コートニーはそう自分に言い聞かせ、足早に部屋を後にしようとした、その時。


「待て。忘れていた。……これが君に届いている」


 ステアが慌てた様子で執務机の引き出しを開け、一通の手紙を差し出した。


「手紙、ですか?」


(まさかヒスコック伯爵家からの催促状、もしくは帰宅を促す系……)


 不吉な予感を抱きながら、封筒の裏表を確認した。


 差出人の欄に記されていたのは、『マイケル・スタイナー』という、彼女が何よりも待ち望んでいたという名だった。


(あっ、お祖父様だわ!)


 コートニーは、それを目にした瞬間、息を呑んだ。


「殿下、今すぐ開封してもよろしいでしょうか!?」


 抑えきれない高揚感に突き動かされ、彼女は食い気味に問いかけた。


 ステアは無言でペーパーナイフを差し出し、コートニーはそれをひったくるように受け取って封を切った。


『愛しい私のミネルヴァへ』


 祖父の温かな筆致で始まる文章を読み進めるごとに、コートニーの心拍数は跳ね上がっていく。


  手紙によれば、一ヶ月後に港町『サンプトン』へスタイナー社の商船が寄港するという。


 祖父はその船を利用して、彼女をフィデリア国へと正式に招くつもりらしい。さらに、祖父の右腕となる社員が、すでにこちらへ向かっているという記述まであった。


(ああ、ついに……。ようやく、この国とおさらばして、家族のしがらみがない、自由な国に行ける……!)


 凍りついていた時計の針が、一気に加速して回り始めたような感覚。

 あまりの嬉しさと安堵感に、コートニーの視界がじわりと熱く潤んでいく。


(……なのに、どうしてかしら)


 胸の奥に、説明のつかない引っかかりが残る。


「……よかったら、使えばいい」


 手紙を読んでいる間、ずっと沈黙を守っていたステアが、そっとハンカチを差し出してきた。


 夢にまで見た「自由」への切符を手にしたコートニーは、そのハンカチを差し出した主の複雑な眼差しに、今はまだ気づく余裕すらない。


「あ、ありがとうございます」


 あまりの嬉しさに、つい涙腺が緩んでしまったコートニーは、差し出されたハンカチを受け取ると、素直に目尻を拭う。


「ふむ……それで、君は帰るのか?」


 ステアは顎に手を当て、何かを測るような複雑な眼差しで問いかけてきた。


「はい、もちろ……」


 即答しようとして、コートニーの動きがぴたりと止まった。

 脳内の論理回路が、現在の契約状況を弾き出したからだ。


  自分は現在、殿下の「仮初の婚約者」という立場にある。契約期間は切り裂き魔が逮捕されるまで。そして現状、犯人は鳴りを潜めているものの、解決には至っていない。


「ええと……切り裂き魔は、一ヶ月以内に逮捕できそうですか?」


 淡い期待を込めた問いに、ステアはさらりと答えた。


「善処はする。だが……まず無理だろうな」


(……一蹴されちゃったわ)


 がっくりと肩を落とし、重いため息をつく。


「とはいえ、切り裂き魔ではないかと疑われる人物を数名、すでに勾留してある」


「あ、先日『円卓の貴婦人』の会議に提供してくださった捜査資料の四名ですわね?」


 確か、重要参考人としてリストアップされていた人物たちは、すでに別件で牢獄や医療施設に収容され、当局の管理下に置かれているはずだ。


(ただ、いずれも男性なのよね……)


 コートニーは脳内の事件ファイルをめくりながら、密かに眉をひそめる。彼女の独自のプロファイリングでは、犯人は女性である可能性が極めて高かった。そのことをステアにも進言したが、未だに当局がマークしているのは屈強な男性ばかりだ。


(まあ、新聞社が怪しいと勝手に名をあげてしまった人を、無視するわけにもいかないんだろうけど……)


 メディアによる過熱報道が、事実と憶測が混じり合った偽情報を市民に植え付け、警察も動かざるを得ないという状況に、コートニーは眉を潜める。


「となると、やはりあの中の誰かが犯人である可能性が高い、ということですか?」


「そうだな。その可能性があるかもしれない、といった段階だ」


 ステアが肯定するように頷いた、その時だった。


「異議あり。あの四名に関する筆跡鑑定の結果が、ちょうど今日届きました。それによれば、切り裂き魔と思われる人物の筆跡とは一致しなかったとのことです」


 机に向かうレナルドが、感情を排した声で事実を告げた。


「だとすると、やはり切り裂き魔は、まだ野放しということになりますよね?」


 コートニーが確認するように視線を向けると、ステアは難しい表情のまま沈黙してしまった。


 執務室に、重苦しい静寂が流れる。


 ステアは窓の外に視線を向けたまま、何も言わない。

 ただ、呼吸だけがわずかに乱れている。


「しかし……君がどうしてもフィデリアに向かいたいと言うのであれば」


 一拍、間があった。


「……婚約を破棄してもいい」


(……え?)


 予想外の言葉に、コートニーの頭は一瞬で真っ白になる。あれほど切り裂き魔を捕まえるための盾として自分を側に置きたがっていたステアが、契約の完遂を待たずにコートニーを解放すると言っている。


「えっと……本当に、婚約を破棄してよろしいのですか?」


「……ああ」


 ステアは視線を逸らしたまま、短く答えた。


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