074 婚約者は眠り、殿下は目覚める
夜風が静かに吹き抜ける、王城へ向かう馬車の中。
ステアは、本来ならあり得ない状況に身を置いていた。
だらしなく頬を緩め、完全に夢の中へと落ちたコートニーに、あろうことか「膝枕」を許していたのである。
「……普通は逆だろう」
膝の上に乗る、予想以上に軽い重みと、シェリーの甘い香り。
ステアはつい、ぼやき混じりの溜息をこぼした。
「そう思うなら、今度頼んでみたらどうですか?」
向かい側に座るマイロが、ニヤニヤした笑みを浮かべ、冷やかしてきた。
「……流石に、膝枕なんて恥ずかしくて頼めるか。それに、こいつだって嫌がるに決まっているだろうし」
「どうですかね。少なくとも驚きはするでしょうけど、それがキッカケで殿下を意識してくれるかもしれませんよ?」
「別に僕は、そういうのは望んでいない」
「意地を張ってないで、自分から行ってみたらどうですか?」
「……お前は僕に喧嘩を売っているのか?」
ステアが低く威圧的な声を出すが、付き合いの長いマイロは怯む様子もない。
「まさか。殿下の幸せを、心の底から願っておりますとも」
胡散臭いことこの上ない言葉だが、言い返す言葉が浮かばなかった。
(意識される、か……)
ステアは視線を膝の上の女性へと戻す。
確かに彼女は、自分に対し、それなりに好意を抱いてくれているという自負はある。けれど、それが「恋」なのかと問われれば、否と答えるだろう。
(彼女の中で僕の存在感は増しているだろうが……それはあくまで上司や保護者としてだ。異性として見られている実感は、まるでないし)
そんなステアの内心を見透かしたように、マイロが言葉を重ねる。
「今まで殿下は、女性を煩わしいと思っていらっしゃったわけですよね?」
「……そうだな」
「そんな殿下が、コートニー様にはご自分のテリトリーに侵入することを許している」
「否定は、しない」
ステアは苦笑しながら正直に告げた。
実際、コートニーに振り回され、迷惑をかけられているのは事実だ。出来ることなら、これ以上面倒事に巻き込まれたくはない。
(やはり、彼女の打たれ強さのせいだろうか)
論理だの分析だのと理屈を並べ立て、何度失敗してもめげずに前へと進もうとするその姿。
(……清々しいほどに、真っ直ぐすぎるんだ)
ステアは、無防備に眠る彼女の髪を指先でわずかに払う。
「……殿下の、不誠実、係数……再計測……が必要ですわ……」
静かな馬車の中に、ぽつりと場にそぐわない寝言が響いた。
ステアが呆れ半分に膝の上を見下ろすと、コートニーは夢の中でも論理の迷宮を彷徨っているのか、眉間にうっすらと皺を寄せていた。
「……寝ていてもそれか」
ステアは思わず天を仰いだ。よりによって自分を「不誠実」だと疑い、その証拠を掴むためにこんな危険な場所にまで乗り込んできたというのか。その呆れるほどの生真面目さと、見当違いな情熱。
「殿下……。もっと……不道徳に、なってくださらないと……計算が、合いません……」
「どんな要求だ、それは」
ステアの口角が自然と持ち上がる。隣でマイロが「くくっ」と喉を鳴らして笑うのを無視し、ステアは膝の上で丸まっている厄介な婚約者を、抱きしめ直すように少しだけ引き寄せた。
「……不誠実、か。僕がどれだけ君一人に手を焼いているか、その自慢の頭脳で計算してみたらどうだ?」
独り言のように呟いた言葉は、夜風に混ざって消えていく。だが、その表情は「煩わしい女」を見つめるものにしては、あまりに柔らかく、熱を帯びたものだった。
「確かに、コートニー様は殿下に何をされても平然としていらっしゃいますよね」
「……何をされても、とは心外だな。僕はそこまで酷いことをしているつもりはないのだが」
ステアは不満げに眉を寄せたが、マイロはそれを楽しげな笑みで受け流した。
「でもこのままだと、コートニー様はいずれフィデリア国に向かわれてしまいますよ」
その言葉に、ステアの胸の奥がわずかに疼いた。
「ああ、そうだな。彼女の目的は、最初からフィデリア国で研究をすることだった」
頑固なまでの初志貫徹。その揺るぎない知的好奇心と思いは、本来、尊敬に値するものだ。
「本当に、それでいいのですか?」
マイロが、試すような視線を投げてくる。ステアは膝の上の柔らかな重みを感じながら、視線を外へと向けた。
「いいも何も、彼女が望むことなら、それをやめさせる権利は僕にはない。……そもそも、最初からそういう約束(契約)だからな」
「それはそうですけれど」
ステアは自分に言い聞かせるように答えると、膝の上で無防備に眠る彼女の頭を、そっと、慈しむように撫でた。すると彼女は、夢の中で心地よさを感じたのか、嬉しそうに目を細めてステアの手のひらに頬を寄せた。まるで喉を鳴らす子猫のような仕草に、ステアの強張っていた心がふっと和らいでいく。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
巷を騒がせる切り裂き魔の事件も、執務室に積み上がった期限付きの膨大な書類も。そして、次期国王として自分の将来の伴侶を選定しなければならない、あの息の詰まるような義務も。
自分を取り巻く厄介極まりない全てを忘れ、この穏やかな静寂だけに包まれていたい。 不意に浮かんだ切実な願望に、ステアは自分自身で驚愕した。
「……まずいな。相当、疲れているらしい」
思わず自分らしくない感傷的な思考に、ステアは内心でギョッとする。
論理と冷徹さを旨とする自分が、これほどまでに一人の女性の存在に「安らぎ」を求めている。その事実は、彼にとってどんな難解な公文書よりも、処理しがたい問題として突きつけられる。
「女性が『ホワイト』に入る日は避けてらしたのに、今日は迷わず向かわれていましたよね?」
マイロの指摘に、ステアは僅かに視線を泳がせた。
「……あれは、仕方なかっただろう。わざわざ急使が来たんだ。王族として、管轄下の不穏な動きを無視するという選択肢はない」
「ですが、誰かに確認を頼むことは可能でした。あなたの優秀な部下たちは、そのためにいるのですから」
正論を突きつけられ、ステアは思わずムッとして言葉を返す。
「自分で足を運んで事態を収拾したことが、そんなに悪いのか?」
「悪くはありません。ただ、そこまで強く惹かれているのであれば、いっそ自分のものにしてしまえばいいのにと思っただけですよ」
「な……っ!?」
不意打ちのような言葉に、ステアは思わず声を上げた。頬がカッと熱くなるのが自分でもわかる。
「何を、血迷ったことを言っている」
「殿下が本気で望めば、コートニー様の懐に入ることくらい、容易いのではないでしょうか」
「……そうか?」
無意識に期待を込めてマイロを見上げてしまう自分に、ステアは内心で毒づく。そんな彼を見て、マイロはさらに畳みかける。
「殿下はわりと何でも卒なくこなしますからね」
「まあな。こう見えて、相応の努力はしてきたつもりだ」
「ああ、失礼。でも、恋愛に関しては……七歳児程度でしたね」
「貴様、僕を馬鹿にしているのか?」
「いいえ。そんな殿下も可愛らしいと思いますよ」
クスクスと楽しそうに笑うマイロに対し、ステアは腹立たしさと、反論できない悔しさで奥歯を噛んだ。
「……それなりに、取り繕うことくらいは出来る」
負け惜しみのように返すのが精一杯だった。しかし、マイロの次の問いが、ステアの心臓を鋭く射抜いた。
「でも、コートニー嬢が他の男の隣に並ぶこと。それを殿下は許せるのですか?」
「……それは」
その場面を想像した瞬間、一瞬だけ息が詰まった。自分の隣ではない場所に座り、別の男にあの理屈っぽい微笑みを向けるコートニー。その時、自分はどうするのだろうか。彼女の夢のためだと、潔く身を引けるのか。それとも――。
(……いや、結論を出すのは早計だ。まだ、自分の心すら完全に定義できていないのだから)
ステアは再び膝の上のコートニーに目を向けた。彼女は何も知らず、心地よさそうに寝息を立てている。 愛おしさに負け、その頭をそっと撫でると、彼女は夢の中で嬉しそうに微笑んだ。
(……まずいな)
そんな顔をされると、このまま強引にでも自分の所有物にしてしまいたいという、どす黒い独占欲がムクムクと鎌首をもたげてくる。どうやら自分の中に、彼女を特別視する感情が少なからず存在することだけは、もはや否定しようがなかった。
(だが、それはルール違反だ。何より……論理を愛する彼女自身が、そんな強引な帰結を望むはずがない)
ステアは湧き上がる欲望を理性で押し込め、ただ静かに、眠る彼女の重みを膝に感じ続けていた。
「殿下は……コートニー様のことをどう思っているのですか?」
マイロの問いに、ステアは言葉を詰まらせた。
「どうって……」
先ほど自覚したばかりの熱を、素直にマイロへ吐き出せば楽になれるのかもしれない。けれど、うっかり漏らしたが最後、この側近は良かれと思って余計な気を利かせ、自分と彼女の仲を強引に取り持とうとするに違いない。
(それだけは勘弁だ。これ以上、外因による混乱を招くわけにはいかない……)
そう身構えているのを見透かしてか、今日のマイロは容赦なく踏み込んでくる。
「好きですか? 嫌いですか? 異性として意識していますか?」
「いや、それはだな……」
直球すぎる問いに、ステアは思わず口ごもった。そんな煮え切らない主君の様子を見て、マイロは呆れたように深い溜息を漏らす。
「はぁ……。これは重症ですね」
「何がだ!?」
声を荒らげて反論するステアだったが、マイロはそれを事もなげに無視した。
「まあ、今はいいです。いずれ必ず、殿下のお気持ちを聞かせていただきますから」
「……気が向いたらな」
ステアは溜息と共に言葉を吐き出した。 そうこうしているうちに馬車の速度が緩み、ゆっくりと停車する。気づけば、夜の闇に静まり返った王城に到着していた。
御者が扉を開け、マイロが先に降りる。
本来なら、ステアも即座にこの「世話の焼ける酔っ払い」を抱えて馬車を出るべきだ。しかし、彼は扉が開いた後、一瞬だけ躊躇するように動きを止めた。
膝の上に残る、柔らかく確かな重み。
規則的な寝息と、自分に全幅の信頼を寄せているような無防備な姿。
(もう少しだけ、このまま寝かせてやっても……)
そんな感情が、胸をかすめる。だが、主君の沈黙を不審に思ったのか、外で待つマイロが怪訝そうな顔でこちらを覗き込んだ。
ステアは慌ててその感情を心の奥へ押し込み、再び「冷徹な殿下」の仮面を被り直す。
「さて、この酔っ払いを運ばなければならないな」
膝の上でムニャムニャと口を動かしている呑気なコートニーを見つめ、ステアが覚悟を決めた時だった。
「あ、そうだ。殿下」
マイロが思い出したように、一通の手紙を差し出してきた。
「なんだ?」
「これをコートニー様に渡してください」
受け取ったのは、一見何の変哲もない封筒だった。ステアが訝しげに尋ねる。
「これは?」
「私個人の意見ですが……それが、コートニー様にとって不要なものになるよう願っていますよ」
「不要? 願う?」
一体何のことだと眉をひそめながら、ステアは封筒に記された差出人を確認した。 そこにはフィデリア国の住所と共に、『マイケル・スタイナー』という名が綴られていた。
「マイケル・スタイナー。……確か、彼女の祖父だったな」
「ええ。きっとその手紙には、彼女がフィデリア国へ戻るための具体的な方法が書かれているのでしょう。一ヶ月後にはスタイナー社の商船が我が国に到着するとのことですから」
「……そうか」
ステアは短く相槌を打ち、手の中の封筒を凝視した。 つまり彼女は一ヶ月後には、この国を去る可能性がある。
(切り裂き魔の件が解決するまでの、期間限定の婚約関係……。それが、僕と彼女の約束だったはずだ)
今のところ、犯人に目立った動きはない。それが自分たちの婚約を警戒してのものなのか、あるいはすでに別件で収監した者の中に真犯人がいるのかは、依然として不明だ。理由が何であれ、確証がないまま彼女をいつまでも「偽りの婚約者」としてこの国に縛り付けておくわけにはいかない。
(それが、論理的に正しい帰結のはずだ。……だが)
「殿下、くれぐれもコートニー様のことをお願いしますね」
「……分かっている」
マイロの言葉に渋々頷くと、ステアは酒の香りを微かに纏った令嬢を、慎重にその両腕へと抱きかかえた。
「全く、世話がかかるな、君は」
つい愚痴がこぼれるが、腕の中のコートニーは心地よさそうに口元を緩ませている。そんな彼女の無防備な顔を少しだけ「可愛い」と思ってしまう自分に、ステアは「全く僕らしくない」と心の中で苦笑せずにはいられなかった。




