073 計算外の酔いと、強制エスコート
「全く君は、神出鬼没だよな……」
呆れたようなその声に、コートニーの背筋が凍りつく。
彼女はギギギと、錆びついた歯車のような動作で恐る恐る前を向いた。
「逃げるにしたって、さすがに、ここはないだろ」
目の前には、目元を仮面で隠した一人の男性が立っていた。
隙のない立ち居振る舞い。
仕立ての良い夜会服の着こなし。
何よりその威圧感。
(ステア殿下……!)
仮面など、もはや何の意味も成していない。
ぎょっとする彼女をよそに、ステアの隣には、たくましい体躯のマイロの姿もあった。
(終わった……)
絶望がコートニーを襲う中、なんとか口をあける。
「チ、チャリティーの夜会に……ご出席されているのでは?」
喉に張り付いた声を、どうにか絞り出して確認してみる。
ステアは仮面越しに、獲物を捕らえた鷹のような鋭い視線を送ってきた。
「ホワイトからわざわざ、私が出席する夜会まで急使の派遣があったんだ。『君によく似たコニーと名乗る令嬢が受付にいる』と」
ため息混じりにそう言うと、彼は射貫くようにコートニーを睨んだ。
「それって……」
(最初から、受付の段階ですべてが筒抜けだったってこと? ……あ!)
門番の口から漏れた、妙に説得力のある言葉。
『そちらのお嬢さんは、いささか『生真面目』が過ぎるようだ』
その意味が、ようやくコートニーの中で一つに繋がった。
あの門番は、最初から「コートニー・コンラッド」の正体を見抜き、即座に主であるステアへ報告を飛ばしていたのだ。
「君は自分が思うよりずっと、有名人だっていうことだ」
ステアは呆れた声で告げると、コートニーの手から酒の残ったグラスを容赦なく奪い取った。
「もう充分楽しんだだろ? 帰るぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください! まだ調査の進捗率が目標の十パーセントにも満たないんです! それに、フレデリックが……隣にお兄様がいらっしゃるのです!」
コートニーは、自分に声をかけてきた「正体不明の紳士(兄)」を指差して必死に抵抗した。
だが、ステアは隣に座るフレデリックを一瞥すると、鼻で笑った。
「フレデリック、まだ妹と飲み足りないのか?」
ステアの冷ややかな問いかけに、フレデリックが苦々しく笑いながら肩をすくめた。
「まさか」
彼は仮面の端に指をかけ、琥珀色の瞳を露わにして、困ったような、それでいて楽しそうな笑みを浮かべる。
「これ以上妹をここに留めておいたら、明日の朝にはクラブ『ホワイト』の会員リストと不道徳指数の相関図が議会に提出されてしまいます。……殿下、あとはお任せします。僕の分までたっぷり妹を叱ってやってください」
フレデリックは、明るい声でそう締めくくると、まるで厄介な荷物を預け終えたことを祝福するかのように、手にしたグラスを掲げた。
「そういうことだ」
ステアは、冷徹な仮面の奥で僅かに溜息をつくと、革手袋に包まれた大きな手をコートニーへ迷いなく差し出す。
「ほら帰るぞ」
その声は静かだったが、逆らうことを許さない王族特有の重圧を孕んでいた。コートニーは屈辱に唇を噛みながらも、ここで騒ぎを大きくするのは得策ではないと判断し、渋々その手を取った。
「……自分で行けますわ。エスコートなど不要です」
強がりながらもステアの手を握り、ソファから立ち上がろうとした、その時。
(……あれ?)
急激に視界がぐにゃりと歪んだ。
先ほどまで飲んでいた、フレデリックお勧めの「度数を極限まで抑えたシェリー」の甘い熱が、立ち上がった衝撃で一気に全身の血流に乗ったようだ。
「……っ」
重力の設定が狂ったかのように、膝の力がふっと抜ける。コートニーの体は無様に横ざまへよろけ、反射的に目の前の「確固たる支え」――ステアの胸元へと倒れ込んでしまった。
「……おい!」
咄嗟にステアの腕が彼女の細い腰を抱き止め、清涼な香りが、衝撃とともに鼻腔をかすめた。
「フレデリック、飲ませすぎだ」
ステアの鋭い声。
「そうは言うけどさ、ここに妹がいるのを発見した時の僕の衝撃もわかって欲しいよ。まさか自分の口説き文句を妹に直撃させて時間稼ぎしなきゃならないなんて、僕だって悪夢なんだけど?」
「……それは、まぁ」
「それに、妹に飲ませたのは、度数を抑えたものだったし」
「何が『度数を抑えた』だ」
「いや、本当に一番軽いものを選んだんだけどね。ま、コートニーの『耐性値』が予想以上に低かったようだ」
背後で聞こえるフレデリックの無責任な声が、遠くの霧の向こうのように感じる。コートニーはステアの硬い胸板に顔を埋めたまま、必死に理性の回復を試みた。
(計算外ですわ。フレデリックの推奨銘柄に、これほどの遅効性アルコール反応が含まれているなんて。立位保持が……困難みたい……)
「……調査、継続……。離して、ください……殿下……」
呂律の回らない口調で抗議するが、ステアの腕にこめられた力はさらに強まった。
「調査も進捗率も、今の君には無関係な概念だ。マイロ、今すぐ馬車を。玄関に横付けさせろ」
「了解です」
背後で控えていたマイロが、同情とも呆れとも取れる視線をコートニーに一瞬だけ向けて、迅速に動き出す。
「まったく、君は手がかかりすぎるだろ」
ステアはもはやコートニーが自力で歩くのを待つ気はないらしく、彼女の体を軽々と、まるでお気に入りの毛布でも運ぶかのような手際で抱き上げた。
「殿下、離してください! 公衆の面前でこのような密着行為は、不適切です!」
「不適切な場所に、不適切な格好で乗り込んできたのはどこの誰だ」
「……私です」
思考のショートしたコートニーが、あまりに潔く、かつ真顔で肯定したため、ステアは毒気を抜かれたように一瞬だけ絶句した。
「自覚はあるのか。なら、大人しく運ばれていろ」
そう吐き捨てた彼の声は依然として硬かったが、その腕はコートニーを落とさないよう、より一層慎重に、そして力強く引き寄せられた。
夜の社交クラブ、欲望と熱気が渦巻く「ホワイト」の喧騒を背に、ステアは悠然と出口へ向かう。本来なら、殿下に抱きかかえられて衆目に晒されるなど、コートニーにとっては人生最大の論理的失態であるはずだった。
(いろいろと、おかしい……)
頭を働かせようとするが、シェリーの甘い微熱が、彼女の厳格な理性をじわじわと溶かしていく。鼻腔をくすぐるのは、ステアの夜会服から漂う冷涼なベルガモットの香りと、彼自身の体温が混ざり合った独特の匂い。それは、不道徳なクラブの空気とは正反対の、ひどく清潔で、圧倒的な安全を感じさせるものだった。
(心拍数の上昇……血圧の低下。これらはアルコールの摂取に伴う、ごく一般的な生理反応に過ぎないから。……でも、この腕の中の安定感は……計算式では導き出せない、心地よさ、で……)
「殿下……」
コートニーは、抵抗しようとしていた力すら、どこへ置いてきたのか忘れてしまった。うっすらと開けた視界の先で、ステアの引き締まった顎のラインが光に照らされて美しく揺れている。
その強引なエスコートが、今の彼女には酷く優しい守護のように感じられた。
(少しだけ……システムの再起動が必要みたい……)
逃げようと突っ張っていた指先から力が抜け、コートニーの頭がステアの腕にコテリと預けられた。規則正しく打たれる彼の鼓動を子守唄に、彼女の意識は深い琥珀色の闇へと沈んでいった。




