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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第八章:理性の仮面が剥がれる夜
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072 浮気調査の結果、対象が私でした

 フレデリックを確保したことで、コートニーを支えていた緊張感は、音を立てて崩れ去った。


 普段、「興味はあるけれど、知性を曇らせる」と敬遠していたアルコール。しかし、この退廃的な空気と、隣にいる「勝手知ったる身内」の存在が、彼女の自制心を粉々に砕いてしまった。


(味方がいるなら、もう安心だわ……)


 自分に言い訳した彼女は、つい気が緩んでお酒が進んでしまう。


「君は初めて見る顔だね。今日が初めて?」


「ええ、友人に誘われて」


「緊張してる?」


 フレデリックが優しく微笑む。


「少し、緊張しています」


(色んな意味でね)


 コートニーは笑いそうになるのを堪えて、グラスに口をつける。


「無理もない。ここは特殊な場所だから。でも、安心して。僕は紳士だから」


 フレデリックが女子禁制のクラブで義理の妹を口説いているという、客観的に見れば「地獄のような喜劇」が幕を開けた。


 その滑稽さが、彼女の酔いをさらに加速させる最高のスパイスになってしまう。


(フレデリックったら……普段、家で私を『理屈っぽいオタク』扱いしていたその口で、そんな甘い言葉を吐くなんて)


 コートニーは、琥珀色の液体を喉に流し込み、仮面の下で口角が緩むのを止められない。


「へぇ、『紳士』ねぇ。 むしろ『狼』の類ではありませんこと?」


 コートニーはわざとらしく、グラスの縁を指でなぞりながら上目遣いでフレデリックを見た。


  アルコールのせいで、思考回路がいつもの「論理的防壁」を飛び越え、「どれだけ兄をからかえるか」という不謹慎な実験モードに切り替わる。


「手厳しいね。でも、狼だとしても、君のような美しい獲物を前にして、牙を剥くほど野蛮じゃない。……むしろ、その鋭い知性の檻から、君を連れ出してあげたいと思っているくらいさ」


(うわ、さむっ……)


 コートニーは、薄目になり、ぐいとお酒を煽る。


「君、雰囲気がどこかの令嬢みたいだ」


「そんなことないですよ」


「いや、本当に。仕草とか、言葉遣いとか。育ちの良さが隠せてないような」


 フレデリックが探るように、じっとこちらを見つめてくる。


(まずい。観察力がないと思っていたけど、意外と鋭いわ)


 コートニーは、スッと視線を逸らし、グラスを口に運ぶ。


 喉に流し込んだアルコールの熱さが、焦りをごまかしてくれるのを待ち、主導権を取り戻そうと、コートニーは新たな話題を振る。


「ところで、あなたはここに頻繁にいらっしゃるんですか?」


「まあね。息抜きには最適な場所だから」


 フレデリックが自分のグラスに酒を注ぎながら答えた。


「息抜き、ですか」


「そう。家は色々と窮屈で。特に最近は、妹のことで家中が大騒ぎなんだよ」


 不服そうに言って、まるでヤケ酒を煽るように、フレデリックはグラスに口をつけた。


(妹って、つまり私のことよね?)


 コートニーは心臓の鼓動を悟られないよう、努めて平然を装って問いかけた。


「妹さん……ですか。それはまた、大変そうですね」


「ああ。本当に、困ったものだよ」


 フレデリックは自嘲気味に笑うと、空いた方の手でシャツの襟元を緩め、窮屈そうに首を左右に振った。


「家の名誉のために詳細は言えないけれど、とにかく自由奔放でね。目を離した隙に、すぐにどこかへ消えてしまうんだ。……今頃、どこかで見当違いな変装でもして、悪い狼に狙われていなきゃいいんだが」


(……完全に、バレてる)


 コートニーは、確信した。


 フレデリックは「探っている」のではない。

 コートニーであることを知った上で、この滑稽な化かし合いを楽しんでいるのだ。


「そんなに心配なら、早く探しに行かれたらどうです? ここで飲んでいる場合じゃないでしょう」


 コートニーが少し刺のある声を出すと、フレデリックは「くくっ」と喉の奥で低く笑った。


「いいや。僕は、もう見つけたと思っているよ」


 おもむろに立ち上がった彼は、着ていた仕立ての良いジャケットを脱ぐと、それをコートニーの華奢な肩へ、背後から包み込むようにふわりとかけた。


「……っ」


 コートニーの鼻腔を家で見慣れたはずの、けれど今は少しだけ酒の香りが混じった彼の匂いがくすぐる。ジャケットの重みと体温が、まるで「捕まえた」という無言の合図のように感じられた。


「背伸びしすぎだ。……さて、種明かしは済んだ。観念して顔を見せてくれないか、コートニー」


 彼はそのまま彼女の隣に腰を下ろし、耳元でその名を低く呼んだ。

 コートニーはもう、正体不明の「令嬢」を演じ続けることは不可能だと悟った。


 彼女は肩のジャケットをぎゅっと掴み、ようやく彼を真っ向から見据える。


「……フレデリック、いつから気づいていたの?」


「この部屋に君が入ってきた瞬間からさ。君の歩き方は、どんなに大人びたドレスで隠しても僕にはわかる」


 フレデリックは、彼女の若草色に染まった瞳を覗き込み、表情を険しくさせた。


「冗談はここまでだ。ここは、本来なら君のような娘が足を踏み入れていい場所じゃない。一体何を考えているんだ? なぜ城を抜け出して、こんな真似を……」


「帰らないから」


 彼の追及を遮るように言い放つ。


 アルコールの力も手伝って、いつもなら飲み込むはずの言葉が次々と溢れ出す。


「フレデリックだって、息抜きが必要なほど家が『窮屈』なんでしょう? 私だって同じよ。意地悪な家族に囲まれて、息が詰まりそうだったの。だから、今夜は絶対に帰らないから。たとえあなたが力ずくで連れ戻そうとしても、私はこのソファーから動かないから」


 彼女は空になったグラスをテーブルにコトリと置き、挑発的に顎を上げた。


「家に連れ戻す気はないよ。僕が知りたいのは、なぜ変装して、ここにいるのかってこと」


 フレデリックは、肩をすくめて呆れたように笑った。その余裕のある態度が、酔いの回ったコートニーには少しだけ癪に障る。


「……調査よ。調査しに来たの」


「調査?」


 眉をしかめるフレデリックに身を寄せ、声を落とす。


「そう。ステア殿下には、どうやら気になる女性がいらっしゃるみたい。だから、一体どんな人なのか、突き止めてやろうと思って」


(交渉を有利に進めるために、相手の弱点を知っておくのは合理的判断だわ)


 コートニーが鼻を鳴らして言い張ると、フレデリックは一瞬虚を突かれたような顔をした後、腹の底からこみ上げる笑いを堪えるように口元を押さえた。


「あー……なるほど? 殿下の『気になる女性』ね。なるほど、それは一大事だ」


「知ってるの? 殿下が最近どこの誰に現を抜かしているのか。知っているなら教えて。やっぱり身分違いの恋に悩んでる感じ?」


 身を乗り出して迫るコートニーに、フレデリックは自分のグラスをゆっくりと揺らし、琥珀色の波紋を見つめながら首を横に振った。


「いいや、違うな。相手は庶民じゃない」


「えっ、貴族なの? ……じゃあ、どこかの貴族令嬢? それとも、隣国の姫君かしら」


 追求するコートニーに対し、フレデリックはわざとらしく考え込む素振りを見せた。


「いや、もっと身近で……もっと厄介な相手だ。殿下が翻弄されているのはね、信じられないくらい頭が良くて、理屈っぽくて、そのくせ自分の魅力には驚くほど無頓着な……そう、まるで今、僕の隣で真っ赤な顔をしてお酒を飲んでいる君のような女性さ」


「……え?」


 コートニーは動きを止めた。フレデリックの視線が、逃がさないと言わんばかりに彼女の瞳を真っ直ぐに射抜く。


(やられた!!)


 フレデリックにからかわれていることに気づいた瞬間、コートニーの顔はアルコールのせいだけではなく、羞恥心で一気に沸騰した。


「…… 冗談が過ぎるわ!」


 彼女は勢いよく立ち上がろうとしたが、肩にかけられた彼のジャケットの重みと、急に回った酔いのせいで足元がふらつき、あえなく椅子に座り直すことになった。


「冗談? 僕は至って真面目だよ。今まで浮いた話一つなかったステア殿下が、君と婚約した。その事実に裏付けされる感情に気付いてないのは、この国で君一人だけだ」


 フレデリックは愉快そうに目を細め、身を乗り出してきたコートニーの額を人差し指で軽く小突いた。


「コートニー。殿下が探しているのは『身分違いの庶民』でも『隣国の姫』でもない。自分の婚約者でありながら、変装してまで浮気調査に乗り出すような、この世で一番扱いにくい自覚のない令嬢のことだよ」


「な、……っ! 別に浮気調査をしに来たわけじゃ……」


「じゃ、どうしてここに君がいるんだよ」


「それは……」


「自分がどれだけ殿下を、そして兄である僕を振り回しているか、その知性で少しは計算してみたらどうだい?」


 コートニーは言葉に詰まり、ぐぬぬと唸りながらグラスに入ったアルコールを一気に飲み干した。


 喉が焼けるような熱さが通り過ぎるのと同時に、コートニーの羞恥心は限界を突破した。


(つまり私は、わざわざ変装までして、自分自身の「噂」を調査しに来たっていうの!?)


 あまりに滑稽な事実に、目の前がチカチカする。論理的防壁がボロボロに崩され、完璧だったはずの「調査計画」がただの「盛大な自爆」だったと突きつけられ、もはや反論の余地もない。


(世間はまんまと、私たちの仕掛けた「計画」に嵌まっているんだわ……)


 コートニー自らが筆を執り、完璧なまでの「仲睦まじい婚約者同士」という筋書きを書き上げ、世間へ流布した。


 その結果、コートニーとステア以外、まんまと「真実」を幻視している状況。


(私が……私が優秀すぎたせいね……)


 真実二割、嘘八割をスローガンに、コートニーが練り上げた「理想の婚約」という虚像のストーリーが、あまりに精密で、あまりに説得力があったばかりに、今や自分自身の逃げ道を塞いでいる。


 完璧な広報活動の結果が、自分の足元を掬う巨大な勘違いの渦を生み出している事実に、コートニーは絶望してガクリと項垂れた。


「……計算、したわよ。計算した結果、こうなったの」


「ほう? どんな計算だい」


「……広報戦略の、完全なオーバーキルよ。私のストーリー構築能力が完璧すぎてこわい」


「なるほどね」


 フレデリックが愉快そうに笑い、コートニーの頭をポンと叩く。


「自分の書いたシナリオに自分が飲み込まれるなんて、知性派の君にしては手痛いミスだね。でもね、コートニー。殿下の『必死さ』まで君の計算通りだとしたら、君は歴史に残る希代の悪女だよ」


 コートニーは、フレデリックのジャケットの裏地に顔を押し当てたまま、消え入りそうな声で呻いた。


「もう、何も言わないで。今夜のことは、私の記憶のライブラリの奥底に封印して、二度と紐解かないことにするから……」


「いいや、僕は一生忘れない。君が真っ赤な顔で殿下の気になる子……つまり、自分の正体を調査しに来た、この傑作な夜のことはね」


「……それ、誰にも言わないで。特にお父様と殿下には、絶対に」


 コートニーは、フレデリックのジャケットの襟をぎゅっと掴み、消え入りそうな声で懇願した。


「さあ、どうしようかな。君がこれ以上お酒を飲まず、大人しく僕と一緒に帰るなら、検討しないこともないけれど」


 フレデリックは、コートニーの必死な様子に楽しげに目を細める。


(帰るなんて無理だから! この場をうまく乗り切る方法は……)


 コートニーが再び、アルコールで浸された脳を必死に回転させようとした時、頭を抱える彼女の頭上に、低く、あまりにもよく知っている声音の溜め息が降ってきた。


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